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 書斎で執筆していて疲れたら、近所の喫茶店に場所を移して続きを書く。ランチは友達と待ち合わせて外食。夜は芝居やコンサートやパーティに行く。そんな生活に慣れたベルリンの住人にとって、飲食店も文化施設もすべて閉まっている今の生活は異常事態だ。家にこもっているせいか時間の流れが滞り、もう何カ月もこの状態が続いているような錯覚が時々起こる。

 思えば日本がまだ夏にオリンピックを実施する気でいた頃すでにドイツでは「感染ピークは数週間後、ひょっとしたら六月以降に来る」と判断し、感染の広まる速度を遅らせることに焦点を当てた対策が取られ始めた。イタリアでは急増した重症患者を医療施設が受け入れきれず、死者数が毎日増えていた。同じ失敗を繰り返さないためには社会生活を規制するしかない。放っておけばそのうち自然にどうにかなるのではないかと考えがちなわたしは、ドイツ人の甘えのない現実主義に感心してしまった。

 もう一つ感心したのは、「高齢者や病人などの弱者を守る」という目標が常に強調されていたことだった。症状が重くなるのは主に高齢者だったので、若くて健康な人ならば軽い症状だけですむと信じられていたせいか、三月後半に入ってもまだベルリンの若者の多くはパーティに明け暮れていた。学校も大学も閉鎖されて退屈なので集まって騒ぐ。「コロナ・パーティ」という言葉まで生まれた。しかしイタリアでは若い人たちが媒介になって感染が急速に広がり、高齢層が命を落とすという現象が見られた。だから自分は感染していいと思っている人も「弱者のために」外出をひかえるように、という呼びかけにベルリンの若い人たちも徐々に応じ始めた。ドイツ人は個人の行動の自由を規制されることには敏感だが、メディアを通して短期間に集中的に議論が交わされ、情報が行き渡ったおかげか、みんなが納得するスピードと規制が強まるスピードがほぼ一致していた。上からの命令に有無を言わせず従わせた方が話は早いのかもしれないが、コロナ危機が去った後に民主主義感覚が麻痺(まひ)しているのでは困る。独裁政治は時にウイルス以上に多くの死者を出す。

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 行きつけの書店は店舗は閉めているがメールや電話で本を注文すると取り寄せて家まで届けてくれる。お持ち帰りサービスを始めたレストランもあり、店の前に一メートル半の間隔を開けて人が並んでいる。生き残るためにどの店も必死なのだ。フリーの演奏家は七月までのコンサートが全部キャンセルになり収入がゼロだと嘆いている。ライブハウスもジャズ喫茶もこのままでは潰れてしまう。個人経営のヨガ教室も理髪店も同じ心配を始めた。その不安に答えるように、国の予算が赤字になるのは承知の上で補助金を出す、とメルケル首相が発表した。零細企業は雇用者に払う給料の一部と家賃を肩代わりしてもらえる。フリーの俳優、演奏家、朗読会の謝礼を主な収入源にしている作家などは、蓄えがなくて生活が苦しくなった場合は申請すればすぐに九千ユーロの補助金がもらえる、と書かれた手紙が組合から来た。わたし自身は補助金をもらう気はないが、文化が大切にされていることを実感するだけで気持ちが明るくなった。

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 興味深いのは、ポピュリストたちが大幅に支持者を失ったことだ。彼らは以前、移民こそが国を蝕(むしば)むウイルスであるかのような演説を行ってきたが、本物のウイルスが発生した今、ウイルスの危険性を否定するだけで現実的対応のできない極右党は支持者数を減らしている。最近、ポピュリストの活躍の場であるソーシャルメディアではなく、新聞と国営放送を信用する人が増えているそうだ。その一方で、ウイルス研究所や科学者たちの意見を参考にしながら次々と具体的な対策を打ち出していくメルケル首相が広い層の信頼を取り戻した。移民受け入れに非常に積極的だった彼女が、それについていけない人々の支持を失った時期があったが、今度の危機では住宅環境に恵まれない難民など弱者を守ろうという雰囲気がベルリン全体に広がっている。

 国境が閉鎖され、外出が規制され、物を買うこともコンサートや集会を開くこともできない。街中では警官がパトロールをしている。まるで戦争中の光景だと落ち込む人もいるが、今実施されている規制の底を貫いているのは「全人類の健康を願う」という、ナチスの時代とは全く逆の精神である。

 テレビを通して視聴者に語りかけるメルケル首相には、国民を駆り立てるカリスマ性のようなものはほとんど感じられない。世界の政治家にナルシストが増え続ける中、貴重な存在だと思う。新たに生じた重い課題を背負い、深い疲れを感じさせる顔で、残力をふりしぼり、理性の最大公約数を静かに語りかけていた。

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 たわだ・ようこ 1960年、東京生まれ。小説家、詩人。ベルリン在住。1月に朝日賞受賞。5月に長編『星に仄(ほの)めかされて』(講談社)を刊行予定。『地球にちりばめられて』に続く3部作の第2巻となる。

 ◆多和田葉子さんの寄稿は随時掲載します。

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