自分自身への審問 辺見庸

*** 根源の恥辱

 爛熟した資本主義のシステムはそこに生きる者に人間的恥辱をそれとして感じさせないか、あるいはちょっと感じたふりをさせるだけの「擬似感覚細胞」をかぎりなく増殖させていくとぼくは見ています。これは"恥知らず細胞"と呼んでもいいかもしれません。この前、世界的に有数の企業のトップが、いま必要なのは誠実や勤勉ということではなく、眼に見える業務成果なのだ、という意味のことを何憚らず語っていました。それをテレビで見ながら、ぼくは「人間の魂の奥深くまで、善と悪は入れ替わり、ひそかな妥協を交わす」というボードリヤールの言葉を想い出しましたが、 求められているのは人の一般的徳目ではなく経済成果のみ だということは、先人たちの悲観的な予言どおりなのかもしれません。


*** 思想なのか“心ばえ”なのか

あれは彼の思想がそうさせていたのか、それとも持ち前の性格とか、古い言葉で言うなら、“心ばえ”というものがそうさせていたのか、と。脳出血で倒れる前には、心ばえが一系列の思想の契機になり、翻って、思想が心ばえの背骨になる――くらいに理屈っぽく思っていたこともありましたが、いまは、人の心ばえって稀に、請け売りの思想とやらが尻尾巻いて逃げるほど深くて強いものがあると、割合単純に考えるようになりました。人は思想を愛するのではなく、自他の躰や内面を裏切らない心ばえをこそ安んじて愛し、自らの体内にもいつかそれが静かに芽生えてはこないかと待ちつづけるのではないでしょうか。


*** 狂想モノローグ――「かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」

体調を悪くするほど腹を立てていたのは、しかし、別のことだったような気がします。それは、一言でいえば、この国独特のどこか安手のシニシズムのような空気でした。あれはいったい何なのでしょう。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。この国では、人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると、恐らく誰が教えたわけでもなく戦前からつづいている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます。何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか、それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意さえ抱いたものです。  結局、ああした笑い、それによって醸される空気(そこはかとない蹉跌感。かつてぼくが書いた「鵺のようなファシズム」とも関係があるかもしれません)が厭さにデモに行ったりしていたのかもしれません。いい歳をして本当は何もそんなにいきりたつことはなかったともいえます。第一、政治状況についてのべつ口角泡を飛ばし、紋切り型の正義ばかり主張するような輩をぼくは最も苦手としていました。わかりやすい正義と悪の模式のようなものを示して、他者を教導したり諭したり鼓舞したりするのを、仮にそれが大枠でまちがっていないにせよ、どうもどこかいかがわしいことのように感じてしまいますし。反動の政治でも革命の政治でも、政治であるかぎり信用できないのです。ぼくはかつて「人間をひと株の樹木に擬するとき、地下茎のない、幹や枝だけの立像としてしか語らないのが政治や社会制度である。人間身体の根茎が、まつりごとにいっかなまつろわぬものであることを、政治は嫌い、故意に存在を無視する。土台、相容れないのだ。」(「地下茎の反逆」、『眼の探索』所収、朝日新聞社刊、角川文庫)と書いたことがあります。いまでもそう思います。

こうした今日的世界では、前述の笑いとチープなシニシズムこそが悪い種子のようにあちらこちらに伝播していきます。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。そう笑っている者は人間ですが、腹話術師のように笑わせているのは人間ではなく、資本ではないかとぼくは思います。人間がいまほど資本の幻想に操られている時代はないし、資本の魔手から逃れる出口あるいはそのヒントは現在の視圏のどこにも見当たりません。先鋭なエコロジストたちも、エコロジーをもほぼ完全に商品化しえた資本の無限大の胃袋を前にしては顔色なしです。前世紀の後半にフーコーら先鋭な思想家、哲学者たちは「人間」という概念は時代遅れだとか「内面の時代」は終ったとかいいだしましたが、ひょっとしたら現在を予感していたのかもしれません。たしかに人類史上これほど内面の貧弱な時代はかつてなかったし、資本万能の時代もありませんでした。ハイデガーが言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタル(資本)と市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です。これが破局の源であり、世界規模の失意のわけなのです。

IT成金のなかには、この世のなかにお金で買えないものはないといい放った青年もいたようですが、たしかにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、いまの社会のうそ寒さと釣り合うようです。市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産みだす無慈悲な場であるという事実を深く内面化しないかぎり、お金まみれになるということの「人間であるがゆえの恥辱」に気づくこともないのでしょう。「人類の貧困を生産する作業に加担して、骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しない」とフランスのある哲学者は指摘しましたが、留意すべきはわざわざ「民主主義国家」と述べている点です。民主主義と資本の運動は必ずしも対立するものではなく、前者が後者の運動を円滑にしている面もあるということではないでしょうか。

オンライン・ネットワークで資金を次から次に移動させて収益をあげる方法は情報技術革命の産物でもありますが、旧型の資本家はこれについていけないということから若い起業家らのマネーゲームに眉を顰めるのでしょう。マネーゲームを「虚」、実体経済を「実」とすれば、虚実の闘いがはじまっているわけですが、資本の運動のアナーキーな本質からして、ぼくは「虚」の勢いが衰えるということはないと思います。ただし、マネーゲームの花園には悪の華しか咲かない。もっといえば、あらゆる市場には芥子のような花しか咲かないということです。旧型の資本家や国家権力はマネーゲームのルール違反を摘発すれば市場のモラルを維持できると考えているかもしれませんが、市場にはもともと言葉の本質的な意味でのモラルなんかあったためしがない。たとえば、証券取引法違反を摘発すれば市場が健全化すると本気で考えるとしたら、賭場の存在そのものを問わずに丁半博打や盆ふりのやりかたを云々するようなものであり、根源的な議論とはいえません。実際、マネーの取り引きがモノの動きの百倍もあること自体、世界規模の巨大な犯罪みたいなものです。これを停止することは高度資本主義の自殺を意味しますから断じてありえない。代わりに、一部のルール違反者を摘発したりして市場にモラルが貫徹しているような体裁をとる。資本主義の延命のために。しかし、ここにはいずれにせよ悪の華しか咲きようがありません。虚の花の狂い咲き。


***「鬼畜」対「良民」だったのか―――サリン現場十年目の回顧 より

法廷でふと想い出した一節がある。「暗く陰惨な人間の歴史をふり返ってみると、反逆の名において犯されたよりもさらに多くの恐ろしい犯罪が服従の名において犯されていることがわかるであろう」。スタンレー・ミルグラムが『服従の心理 アイヒマン実験』(岸田秀訳)で引用したC・P・スノーの言葉である。含意はひとりファシズムのありようにとどまらず、あまりにも深く、大きい。


*** 狂想モノローグ――「かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」 より

ぼくは湿土の闇のなかで顫動したり絡みついたりする自他の地下茎の動きを感じるのは好きですが、そうした隠微を思慮の外に排除するあらゆる種類の政治を厭わしく思い、憎みさえしています。市民社会はいうにおよばず、権力にも自称革命組織にも最後には愛人にも敵視されるような単独のテロリストのほうが、政治まみれの者より人としてまだましと考えたりします。誰にも指嗾されず指示もされない、何にも属さない単独者。全世界 vs 個。


*** 第五章 自分自身への審問 5 より

〈人間的な非人間群〉とは何か。人の存在はいま、恐るべき多義性の罠に没している。眼には見えない殺戮システムの一端をみずから知らず担いながら、同時に殺戮に反対したり、殺戮を憂えたり、殺戮を評論したり、無関心をきめこんだり……のいずれの態度決定もできるけれど、不可視の殺戮システムのなかで日々、生きていることには変わりがない。そのような文脈での〈人間的な非人間群〉なのだ。殺戮システムというと穏やかでないようだが、万物の商品化を実現しえている世界市場は、実のところ、いま最も合法的な殺戮システムではないだろうか。多くの人々はそこに人類社会繁栄の華やかな海市を見ている。しかし、海市は海市でしかない。市場ほど暴力的なものはない。私は世界市場というものに、ナチがつくりえた殺戮システムよりも何倍も大きく永続的で、自由かつ奔放にして誰からも祝福される民主的な殺戮システムを見ている。恐らくそこから〈人間的な非人間群〉は生まれてきたのだろう。で、私自身もまた、すぐれて人間的な非人間群の一員かどうかだが、この反語の意味するところを対象化というか、きっちりと説明し、撃つべき対象を明らかにしないかぎり、その群からも離脱できない、と私は思っている。つまり、残念ながら、私は依然、人間的な非人間集団に属していることになる。〈明るい闇〉という今日的状況を示すアイロニーもそうだ。その実態を底の底まで描きえないかぎりは、明るい闇から脱することはできず、明るい闇にすっぽりと包まれて死ぬほかないだろう。
潔の日記


95年に自裁したフランスの哲学者(ジル・ドゥルーズ)がこんなことを言いました。いや誰が言ったっていいのですが面白いので覚えていました。資本主義には普遍的なものは一つしかない。それは市場だ、というのです。全ての国家は市場が集中する場であり、その証券取引所であるに過ぎず、富と貧困を産み出す途方もない工房である、と語るのですね。で、以下の説に僕は注目します。「人類の貧困を産む作業に加担して骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しないのだ。」「私達はどうしても資本主義のお楽しみを祝福する気にはなれない」。ここではいわゆるリベラルな考えや貧困、腐敗、民主主義、市場原理…などを対立概念とせずに、親和的で共犯的な関係と見ています。僕も賛成です。ライブドアの騒ぎのとき、「お金でジャーナリズムの魂は買えない」みたいな反発もありましたが、失笑ものでした。魂が買えないとしたら、とっくの昔に売り渡されているからであって(笑い)、市場は戦争もセックスも臓器もジャーナリズムの魂とやらも、その気になれば市民運動だって合法的、民主的に売り買いするからです。ただ、自殺した哲学者の理屈はここで終わるのではなく、ナチスの強制収容所について…
http://brasspounder2006.blog63.fc2.com/blog-entry-353.html

―― 資本は何でもするし、それに打ち勝ちがたいけれども、しかし「人間であるがゆえの恥辱」というものがあるじゃないか。 かってアジアの人々に到底癒しがたい恥辱を植え付け、そうすることにより自らも深い恥辱の底に沈んだこの国はもはや、恥辱とは何かについて考える力さえ失いつつあるようです。それを恥とするかどうかが、より深く考え、何かを拒むことへの出発地点にはあるのかもしれません。

―― この国の政治家の多くは中国や朝鮮半島を<見る>ときに、<見られている>ことをほとんど念頭に置かない。記憶でもそうですね。こちら側の記憶領域を軸にものごとを判断しようとしている。いくら何でももう忘れてくれているだろう、と。昔の事をいつまでも持ち出すのは、日本から何かをぶんどろうとする低意があるからだ、と。 こうした議論に、ぼくはこの国の救いがたい卑しさを感じます。 恐らく、加害の記憶は被害のそれより忘却しやすいのです。とすれば、いま重篤な記憶障害は鏡のどちらが側で起きているのか

―― くさぐさ惑いつつテレビをつければ、ロボトミー術後症例そのもののような面々が、何がそんなに愉快なのか、笑いさんざめきながら、あるいは含み笑いをしながら次から次へと登場するではないですか。それに怖気立ち、さらに猜疑して、最新のロボトミーは頭部への直接的な施術ではなく、放送電波の照射のみで十分可能となるらしい、などと、妄想しました。そうでもなければ、これほどまでの痴愚が大っぴらに繰り広げられるもの ではありません。

―― たしかに人類史上これほど内面の貧弱な時代はかってなかったし、資本万能の時代もありませんでした。ハイデガーが言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタル(資本)と市場だけではないですか。人間がその意思の力で資本の暴走を阻止しようとする運動も逆に資本に蚕食されて、いまや瀕死の状態です。これが破局の源であり、世界規模の失意のわけなのです。

ブレヒトの詩に曰く―― 賢明でありたい、と思わぬこともない。/むかしの本には書いてある、賢明な生きかたが。/たとえば、世俗の争いをはなれてみじかい生を/平穏に送ること/欲望はみたそうと思わず忘れること/が、賢明なのだとか。/どれひとつ、ぼくにはできぬ。/そうなのだ、ぼくの生きている時代は暗い。 /とはいえ、無論ぼくらは知っている、憎悪は、下劣に対する憎悪すら/顔をゆがめることを、/憤怒は、不正に対する憤怒すら/声をきたなくすることを。

―― 試みにいっちょう大暴れしたほうがいい。顔を醜く歪め、声を思いっきり荒げて、これ以上ないほどの整然とした街を暴れ回ったほうがいい。そうしたら、敵が誰か、背信者は誰か、真性の闇がどこに埋まっているか、そこを照らす光は本物か―― ひょっとしたらやっとのことで目に見えてくるかもしれない。私はこの点滴の管も、すべての延命のチューブもブチリブチリと断ち切って、縞のパジャマのまま裸足で病院を抜け出し、間ちがいなく惨憺たる敗北に終わるであろう一過性の痙攣のような暴動に、冷たい街路をずるずると這いずってでも加わるだろう。―― ばかな・・・。

...生物学的な生でしかなくなる私の、仮にあるにしてもおそらく海牛か薄羽蜻蛉みたいにごく乏しい心性(いや驚くほど豊かな心性かもしれないが)というものが、果たしてどんなものか私には実地に試してみたい衝動がないわけではない。にしても、結果どうであったかを表現できないとしたらつらい。その意思があるのに表現できなくなることと自死できなくなること......いまそれをとても恐れている。逆に、なにがしか表現でき自死できる可能性を残している限りは、軽々しく絶望を口にしてはならないと自分にいい聞かせている。
私を襲ったあれこれの病気が実際、因果応報であるにせよ、私はそれを哄笑して否定し、生まれ変わったら再びいわゆる罰当たりを何度でもやらかして、またまた癌にでも脳出血にでもなり、それでも因果応報を全面否定するつもりだ。それほど私はこの考えを忌み嫌っている。そのことと、私が秘めやかな罪や恥辱を感じているのはまったく別のことだ。
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004735.html