ทวีต

  1. 管理者から: 権力に迎合して皆が口をつぐむこの時代に、辺見庸氏の言葉の重みがひとすじの光のように心に届けば…という思いでこの BOT を始めましたが辺見氏に不快な思いをさせてしまいました。氏に無断で著作の文章をネットに載せた事を深くお詫びするとともにBotを閉鎖いたします。

  2.  例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた。 「仮構」

  3. 社にも作家にも誠実で眼前の男の本がなんぼ売れるか売れないかを反射的に計算もできる、有能な編集者たちばかりだ。空虚だ。あまりにも空虚である。記者が編集者がディレクターが、連夜、飲み屋で評論している。「うちはだめになった」と皆がいう。「うち」ってなんだ、うちって。

  4. 元慰安婦の人たちの話というのは、言葉のレベルでは、それは違う、そんなはずはないなどと、いろいろ言われます。ただそんなの当たり前なんですよ。僕らだって一週間前の自分の経験を記憶だけで言えって言われたら全部不正確になりますよ。それが五十年前ですからね。「身体的記憶の復活」

  5.  忘れ去られた死を、もう一度、自覚して死んだほうがいい。精神の死を内面で再現し、深く傷つくべきである。そして、心の傷口で現在を感じてみる。無謬(むびゅう)の者の眼ではなく、根源的挫折者の暗い眼でいまを見てみる。すると、(略)現在のなみひととおりではない危機が見えてくるのである。

  6. いつのまにかひとびとの「無意識」に入りこんできているものがある。どんどん潜りこんできている。それは芸術でもなければ神でもない。「資本」である。資本は無意識をうばい、無意識を変型しつつある。「『無意識』に入りこむ資本」

  7. 1997年にバチカン市国は三浦朱門に対して聖シルベスト勲章を与えています。バチカンがいかにその人物を細部にわたって検証していないかという事が明確に証明されている。(略)キリスト教の宗教家が「宗教は宗教、死刑は死刑、法律は法律」と言ったとしたらそんな宗教を果して人は求めるでしょうか

  8. 枕を買いに行く。せめては枕だね、枕。寝苦しければ枕を替えるにかぎる。道すがら汗をかきかき思う。ひと口に枕たっていろいろあるな。ええと、陶枕、木枕、草枕。祝いの枕に船底枕。香枕、箱枕、羽根枕。 「マイ・ピロー」

  9. 永山の死に際し「特に感想はありません。法律は法律だし、文学作品を書く人の業績は業績です」といい放ったという作家某氏の酷薄は、おい、亀よ、ゴキリと骨の鳴く音をよそに、おつにすまして咲き群れる、この塀の外の、真白き立葵の心根にどこか似てはいないか。

  10. おそらく、われわれの遠い先祖たちの時代には、〈現〉のなかに〈異界〉が自然に入りこみ、たがいに仲よく親しんでいた時代があったのである。そしてそのかすかな〈記憶〉から、いまわれわれは、〈異界〉や冥界が身近にあるような風景を意識下で欲しているのであろう。

  11. 「むこうはこちらを見ていない。こちらはむこうを見ている」と考えるのは、相手を撮影するときのカメラマンの、あるいは表現する人間の救いがたい特権意識である。撮影行為や表現行為というもののなかには、そんな意識せざる特権意識がある。それは私のなかにもあったし、いまだにあるだろう。

  12. 小説の素人である私は、おそらく、この残酷さのなんたるかも、底知れぬ怖さも、まだ見据えてはいない気がします。だから、書くのだと思います。いくつも、いくつも書いて、私というもののケタの小ささを知り、虚しくなり、結局もう書かなくていいという理由が見つかるまで、書き続けるのだと思います。

  13. 国家の権力機関が人々の自由な表現や行動を抑えつけ、問答無用と獄に繋ぐやり方は確かに地獄に違いない。政治家や社長さんが勤労者から搾取して私腹を肥やし、人々が貧困に苦しむのも地獄だ。具体的に痛みや怒りを感じる地獄であり、こんな権力は壊さなければならない。大震災も地獄、大火事も地獄だ。

  14. 最近の若い記者を責めている訳じゃないんです。いまの道筋を作ったのは、結局、旧世代、我々だったわけだから、我々に責任がある。でも最近とても気になるのは、マスコミの会社に自分が帰属するという事と、彼方には権力というものがあるという、その境界線がほとんど意識されていない、という事です。

  15. そして、新たな災厄は、十中八九、約束されている。新たなテロの襲来は、アフガンへの残虐な報復攻撃により、かえって絶対的に確実になったといえよう。報復攻撃開始前より、いまのほうがよほど確実になった。なぜか、だれもがそれを知っている。心のうちで災厄の再来を予感している。

  16.  ときには、うすら陽に街の輪郭がみすぼらしくたわみ、どこからか鉄粉かなにかの焦げいぶるにおいが流れてくることがある。空気がいやに重くて、音という音がアスファルトに沈みこむ。ほんとうのところ、いまは朝なのか夕方なのかいぶかってしまう。「音なく兆すものたち」

  17. これは不思議なことに資本の運動法則によくなじんだのです。迂遠な苦労とか苦心とか、そういうものがなくなって、情報の伝達と情報の受容が、資本の移動同様に、パソコンで即座にできるということが当たり前になってしまった。ぼくはむしろそこに恐ろしさを感じます。「時・空間の変容」

  18. このくだり、シビれるよね。あんた、シビれないかもしれないけど、おれは超ばかだから、とってもシビれるね。上まででっかい石をもちあげて、山頂までやっと運んだとおもったら、それがまた下に転がっていく。それをまた拾いにいかなければならない。(「シーシュポスの神話」を読んで)「思索と徒労」

  19. 多少屈折はあっても、彼の思想は維持されている。逮捕されてから37年間変わらないものがあるとしたら、国家に対する徹底した不信でしょう。内面化するにしたがい、彼の句から抵抗の精神が薄まっていったかというと、そうではない。明らかに句境は深まっている。「深化する言語、維持する思想」

  20. 拉致問題にからみ、われひとり「善政」を敢行せり、みたいな顔つきで連日善玉パフォーマンスに余念のない安倍晋三官房副長官が、平壌から帰国後、テレビ番組に出演して慇懃(いんぎん)かつ冷淡に語っていた。コメ支援など「検討すらしておりません」と。「恥」

  21. だって現実にいま、首都直下型地震が起きてもおかしくないわけだから。2011年の3月11日を起点にした情勢だけで、これからをはかることはできない。もっと三連続地震みたいなものを前提にしなければならないとしたら、原発だけの問題にとどまらない。「記憶の空洞化」

  22. 世間の成員に求められている姿勢とは諧調、ハーモニアスであること。協調的であること。なによりも大勢にしたがった意見をいうこと。大勢の人がすることが世間にとってただしいことになるわけです。大勢の人がしないこともまた世間にとってただしいことになる。「ギュンター・グラスと恥の感覚」

  23. 世の中がコーティングされていることにたいするいらだち。そのコーティングの一枚下はもっとひどいもので、人の血や涙が全部ペンキで隠されている。あるいは若い人たちの孤独感、世界からの切断感、それがみんなコーティングされている。「駄作としての資本主義」

  24. ぼくも経験があるけれども、編集会議にでると、みんな一面から三面まで暗い記事だから少し明るいニュースも入れようよという。そんな事実がどこにあるのかとおもうのですが、かならずそういう無意識の演出と操作がある。マスコミが日常を操作し、その色合いを決める。これはある種のコーティングです。

  25. 自分にはモニター画面しかない。顔も体臭も感触も分らない。不特定多数の人間がモニター画面の向うにいて、その人間と書きこみで交わる。それが真の交感になるでしょうか。ぼくはならないとおもう。交感にならないことを毎日毎日やらねばならない。そして、モニター画面でその孤独の埋めあわせをやる。

  26. 私は青森県にあった永山則夫の住まいを見に行ったことがあります。見るからに貧しい家でした。家中にトイレのにおいが充満していました。その家で彼は母親と暮らしていた。母親は魚市場に行っては落ちている魚を拾い、それを売って生活費にしていたといいます。たいした金額にもならなかったでしょう。

  27.  当時政府は、「国旗・国歌法ができても強制はしない」と言っていた。しかし実際に国旗・国家法が通ってみると、案の定、学校現場では徹底的な強制が行われて、少しでも反対する教員には、情け容赦ない処分が行われているという状況です。「個々人の実践的なドリル」

  28. 私が驚いたのはエイズウィルスが混入している恐れのあった非加熱製剤の在庫を、厚生省がある段階で調べて、何億円に当たるかを計算していた事。そして加熱製剤を認可するまで、その危険な非加熱製剤の出庫を野放しにしておいた事。被害者達は在庫処理のために犠牲にされたんじゃないかと疑いだしている

  29. 青年はときおり演説をやめようとして口にわが手を必死であてがうのだが、口は別の生き物になっていてたえまなく話しつづけた。かれは鼻筋のとおった美しい面立ちをしていた。白昼の夜戦はじつに熾烈をきわめた。青年はいまや涙を流していた。おれも泣いた。「夜戦」

  30. それよりじきに / 口中いっぱいに割れた黄身がひろがって / ぽとぽと喉へと滴っていく幸せの予感に / 私 Y はおもわず眼を細めてしまう / 喪の列の私 X がそれとてもつとに察知して / いよいよ憤慨し / いとどに泣いているのも知らずに 「黄身」

  31. だれかが猫の首を切ったとか報じられることがあるけど、もっとシステマティックに大量に、しかも “公的に” ペットは殺されていて、その全行程を消費資本主義が無感動に支えている。あの殺しの装置は各自治体がもっていて毎日毎日、この国の空にはペットをやく煙が上がっているわけですよ。

  32. 国家が個人の心のありようまで覗きこもうとし、無遠慮に容喙(ようかい)してくる傾向は時とともにますます著しくなっている。このままいけば、私がよりどころとしている内面の自由の領域は、ちっぽけな孤島のようにたよりないものになる恐れもなしとしない。

  33. 当時、「あの弁護団にたいして、もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と、視聴者にうながした弁護士が大阪府知事に就任しました。テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさもこの国に特有の日常です。

  34. 私はふたたびマザー・テレサの言葉を思いだします。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」。ほの明るい病棟を想起しながら私はこの言葉にうなずくしかありません。私たちは自分に都合のよいものだけを愛していると彼女は告発します。やさしさというよりも凄みがにじむ至言ではないでしょうか。

  35. 私は本書ではこころみに「愛と痛み」というもっぱら痛覚の深みから死刑を考えてみる。死刑にふれることは私という思考の主体がそのつど痛み傷つくことである。しかし、死刑を視野にいれないことは、思念の腐敗にどこかでつうじる、と私はおもっている。痛み傷つくのは、したがって、やむをえないのだ。

  36. ひとつ…観覧車はいくら回転しても1ミリだって前進しはしない。永遠に宙を浮いては沈み、ひたすらにめぐり、めぐるだけだ。(略)ひとつ…観覧車は大地の裂け目から突然に生えでた花の、その残影みたいに、儚い記憶でしかない。ひとつ…観覧車はなにも主張しない。ひとつ…観覧車にはなんの意味もない

  37.  そのものたちの眼の沼にはぷかりと私が浮いていた。彼らのぬるい沼に私はたゆたっていた。私はうごうごとしていた。私は海鼠であった。彼らの眼の沼を泳ぐ海鼠の影であった。言葉は溶けていた。惨(みじ)めでさえなかった。すべてうごうごとしていた。

  38. 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定どおり絞首刑を行うような狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ。「自問備忘録」

  39.  助手席にはベトナム人アシスタントのT君がいて鼻唄をうたっています。ときどき、「雨のシトシト降る寒い日には、犬を食えといいます。ねえ、こんど犬食いに行きましょう」などと、雨なんか降ってもいないのに話しかけてきます。「葬列」

  40. 人という生き物は、まったく同じ条件にあってさえ、他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができるふりをするのがどこまでも巧みだ。孤独の芽はそこに生える。慈しみの沃土に孤独の悪い種子が育つ。

  41. 湾岸戦争、アフガン、イラクへの攻撃がある。アメリカが落としている爆弾投下量というのは本当にすさまじい。そして、爆弾というのは熱量でもあるわけです。私はずっと思っているのですが、核実験も含めて戦争で使われた爆弾から生じる熱量は、環境全体に計り知れない影響を与えてきたに違いありません

  42. 突きつめて考えてみれば、いまの私には彼に話すべきことがらは多くはなかったのだ。死についていいおよぶのは、どうあってもためらわれた。同じ理由から晴れやかな生について語るのも無神経なことに思われた。とすれば、どうしても話さなければならないことなど結局なにもなかったかもしれない。

  43. さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討する有識者会議なるものをたちあげて同自衛権行使に“合法性”をあたえようとし、マスメディアの多くもこの超右より路線にずるずると引きずられていったことだ。 「メルトダウン」

  44. いま忸怩として思いをいたすべきは、この低劣なる見識のもち主が執政期間中に「美しい国」づくりや「戦後レジームからの脱却」を声高に唱え、教育基本法を根本から改悪して教育現場を荒廃させただけでなく、憲法改悪のための国民投票法を成立させ、さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討−続

  45. その意味合いでは、詩を書いている方が自分の内奥に正直なのだろうと思います。ただ、私は記者時代のノンフィクションが長いわけですけど、もともと書く事にボーダーを作らない。純文学とか大衆小説とか、あるいは詩とか散文とか、そういうジャンル分けの様なものを最も意識しない人間だろうと思います

  46. 新たな眼の戦線ができるとすれば、眼の自由、意識の自由から構想されるだろう。私たちの眼はもはや自分の眼ではない。他から埋めこまれた義眼である。操作されつくしているこれまでの眼球は棄てるべきである。眼窩で現状の白い闇の奥を見とおさなくてはならない。「謎と自由」

  47. 老者はあのとき、ビーフジャーキーのような手首に、手錠をはめられ、連行の途次であった。にやけた刑事によれば、老者は人殺しであり、五年の無言の行のすえに、ついに狂れた、インチキ行者である、という。刑事は押し殺した声でいった。悪いが話しかけるな。聞くな。見るな。ただ忌め。ただ忌めばよい

  48. あの姿は、かれらにとっては、ひとつの美であり、文化であることだろう。それをわれわれは同時代にいきなり引きずりこんで、カメラで、テレビで写したがる。そのような特権意識はどこからきたのか。なんのことはない。すべて金に置き換えただけの話ではないか。「倒錯した状況のなかで」

  49. もう一つ、メディア状況で僕がいけないなと思うのは、さっきの権力との境目がなくなってきた事に加えて、執拗さがなくなってきた事です。事件を追いかけたり、調べたり、構想したり、跡づけしたりする時の、物理的、時間的、精神的な執拗さが、著しくなくなってきた。怒りにも持続性がなくなってきた。

  50.  しばらく前、新幹線にのってその人に会いにいった。延命治療はすでにことわっていた。身内によると、その種の治療をほどこすかどうか医師に問われたとき、その人はやや恥いるように、消えいるように、けれどきっぱりと、「もういいです…」といったらしい。「キンモクセイの残香」

  51. なにごとにおいても私は過剰なものですから、リハビリも全力をつくしてやりました。一日一回、かならず階段を上り下りしないと、それができなくなるものですから、近くのデパートまで行って上ったり下りたりを繰り返しています。「瞬間と悠久と」

  52. 護送車やパトカーの窓から、大抵は手錠や腰縄をかけられたまま、大都会の風景を眺めたことが何度かある。デモで逮捕された東京で、公安当局に連行された北京で。いうまでもなく、それは護送車やパトカーが走る大都会の風景を、通りを自由に歩きながら眺めるのとは大違いである。「書く場と時間と死」

  53. だれのものでもないはずの、つまりだれのものでもあるべき水が商品化されて、貧困者が清潔な水を飲めなくなってから久しいわけです。いまや、水でさんざ金儲けした企業が、「ミネラルウォーターを買ってアフリカの子どもたちに清潔な水を届けよう」などというキャンペーンをやっている。

  54. おそらくぼくを見れば、「ああ、なんてひどいんだろう」と、多少のショックを受ける人は少なからずいるでしょう。でも、傍目(はため)で感じられるほど、本人はそうでもなくて、それはぼくのいやなところでもあるのだけれども、妙に建設的なところもある。「“無” を分泌し、ただ歩く」

  55. 逆に、携帯もパソコンも非常に快調に受信し発信できているとき、検索もスムーズにいくとき、なにか妙に朗らかになったりする。つまり、自分の生体というものがデジタル機器の端末と化している。その好不調で自分の内面の色あいが決められている。それはおかしい。「端末化する生体」

  56. 「〈思い〉はみえないけれど〈思いやり〉はだれにでも見える」という宮澤章二の詩行も、まるで洗脳のように反復放送されました。わたしはこの反復放送がとても気になってなりません。これはサブリミナル広告のような社会心理学的に重要な効果を生んだと思われます。「言語の地殻変動」

  57. 愛国心という精神の統御の問題は、国家が個人の内面に土足でずかずかと干渉してくるという面だけでなく、この偽造された精神がかならず国家によって物理的に回収されるという目的性のあることです。すなわち「愛国」の一点で悪しき国策への同意や服従を求める、ということ。「惨憺たる昔と『いま』」

  58. 「このあたりの水は、海がすぐ近くなものだから、塩水も淡水もまざりあってるのね。海でも川でもあるというわけよ。変な水ね。汽水というらしいわ」(略)「汽水っておいしいのかしら。来てはいけない魚が来てしまうの。さっきのイシダイみたいに。でも汽水には汽水の魚しか棲めないのよ」

  59. 身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。

  60. でも中国と戦争やるのか、ロシアと軍事力を競うのか。(略)そうしてこの国がいくら軍備を増強したって、あんなマンモス象みたいなのにどうやって対抗するのだと、その非科学性を言っているんです。九条死守より軍備増強のほうが客観的合理性を欠くのです。

  61. 先ほど、私は原発の話をしたけれども、あの福島原発と、多くの他の原発の前提には、事故は impossible という、非常に不遜な、傲慢な前提があったにちがいありません。これは過誤、誤りと、科学技術の過信、自然に対する傲慢さときめつけがしからしめたものではないかと私は思います。

  62. 三月を生きぬいた / 青い蛇たちが夏 / 牽牛星アルタイルのもとに / 距離十五光年の夜を / くねくねと飛んでいく / 宙はいま あんなにも深い / 木賊色だ / うねくるいくすじもの / 青い蛇の径を見あげて / こころづく / ーーものみな太古へとむかっている

  63.  命を捨てて国を守る意識って大事ですか? 僕はそうは思わない。この国が命を捨ててまで守らなければならないような内実と理想をもった共同体かどうか、国という幻想や擬制が一人ひとりの人間存在や命と引き合うものかをまず考えたほうがいい。沖縄戦の歴史のなかに正しい解答があるでしょう。

  64. たそがれどき、南千住の界隈を歩いていると、腰から足もとにかけて不意にべらぼうな重力を感じ、地中にひきこまれそうになったり、空足を踏んだりすることがある。だから逢魔が時なのだというより、正確には、その頃からしののめにかけて、たぶん、地霊のたぐいがうち騒ぎ、独特の磁場を生じるからだ。

  65.  男とばかり思っていた野宿人は、男を装った、中年の女なのであった。野宿人がこのところ増える一方だけれど、女性はじつに珍しい。男を偽装してまで、東京を流浪しているわけはわからない。つらいな。ひどいなと思う。 翌日、女は消えた。存外に大きい乳房の形が私のまなうらに残った。「目玉」

  66. 私より十五年は長く生きている会社の役員が嘆くのを聞いた事がある。愛だの恋だのへちまだのといいおって。春闘だの賃上げだのへちまだのと冗談じゃないよ。…これは、いわゆる、へちま文である。打ち消したい事実や行為、主張を指す名詞の羅列の最後に、へちま、この一語をさりげなく配するのである。

  67. 懺悔するな。/ 祈るな。/ もう影を舐めるな。/ 影をかたづけよ。/ 自分の影をたたみ、/ 売れのこった影は、海苔のように / 食んで消せ。/ 生きてきた痕跡を消せ。/ 殺してきた証拠を消却せよ。/ しずやかに、無心に、滑らかに、/ それらをなすこと。 「世界消滅五分前」

  68. それはなによりも、新聞連載時の最初から最後まで、読者の方々から予想外に多くのお手紙を頂戴したからである。ものを書くという孤独な航海で、これほど励まされ勇気づけられることはない。読者こそが航海の友である。それはときに羅針盤になり、ナビゲーターになり、気つけ薬にすらなりうる。

  69.  いっそ政治など一言も語らず、柄ではないが、低徊(ていかい)をもってひたすら趣味としたくもなる。しかし、そうするのはなんだか滑稽な気もしないでない。言葉吐く息の緒が、吐いたとたんに腐り、変色するこの空気から、誰が逃れられるというのだろう。「言葉の退化」

  70. かくして「死刑執行」の四字は、痛みも叫びもなく、修正液であっさり人名を消すかのような印象しかあたえない。すなわち、国家は背理の痛みを感じさせない隔壁をしつらえており、マスコミの多くは隔壁を突破するどころか、隔壁の重要部分を構成して恥じない。「背理の痛み」

  71. 川端康成さんが自死した事件で、僕は割合早く現場に駆けつけた記者の一人なんです。驚いたのは現場が当時としては非常に近代的なマンションだった事。さらにギョッとしたのは、そのマンションの周りに人工芝が敷いてあった事です。川端さんの小説に対する僕なりの想いがありましたから、不思議でした。

  72. 実体的な扇動者がやっているわけじゃない。大阪の橋下という青年がやっていることは憤飯物なんだけど、彼だけが元凶ではないね。彼は真犯人ではなくむしろファシズムのピエロなのです。じゃあ誰が操っているのかというと、誰でもない砂のような大衆と選挙民個々の無意識が操っているんじゃないかな。

  73. 乳を搾っては、夜、川に流す。牛乳は脂肪分があるので川面に浮かぶ。川面が真白になってしまう。夜がすっかり乳くさくなる。月光に川面が白くてらてら光る。一面の妖しい川明かりだ。「川さ、乳ば、牛乳ば全部流すんだよ。ふふふ、天の川さ、ミルキーウェイだべさ。いままで、なぬやってきたんだべ…」

  74. …牛を殺すわけにはいかない。生きていれば、乳がはる。ほうっておくと乳房炎になるのだ。かわいそうだから毎日搾乳してやるわけだ。何缶も何缶も牛乳がたまる。線量はわからない。線量なんてもう測らない。どうしようもない。値がいくら低くたって、だれも買うわけがないのだから。しかたがない。

  75. その点、チェットはちがった。彼は最初から最期まで崇高な目的をもたず、むろんそのための努力もなんらすることなく、屁のように無為であった。音楽表現、人物ともに、どこか客観的実在性を欠いた、なにやら仮象のようなミュージシャンであったのだ。

  76. ボルサリーノの帽子を得意げにかぶったあのエテ公の与太話を。「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」。永山よ、君の死後はこんなもんなんだよ。こんなエテ公どもに仕切られているのだよ。

  77. むしろ、デビッド・リンチとうまくつきあうには、フリークスを笑って楽しむ遊び心が必要だ。自分を笑うように、または日本のツイン・ピークス、永田町のフリークスをへらへらと笑って眺めるように。リンチ自身、そう望んでいる。懊悩なんかいらない。もともと意味も謎もありはしないのだから。

  78. 悠然と泳いでいるから、てっきりワニかと思ったら、オオトカゲなのだそうだ。あろうことか、たった一匹で大海原を渡っている。地をはう格好のまま、首を潜望鏡みたいにぐいっともたげて、波間を進んでいく。見ようによってはネッシーのようである。ゴジラのようでもある。「オオトカゲ」

  79. 画素や走査線が増え、解像度が高くなったというテレビ映像が、その分だけ、内容が薄っぺらになり、想像力を喚起しなくなったのはなぜなのか。あれほど映像鮮明にして、ばかげたテレビ番組を流すことのできる人間精神はどのように形成されてきたのか。

  80.  犬の灰の一部はこの施設の花壇にひっそりと撒(ま)かれていた。せめては土に還り、土を肥やし、花を咲かせて、その霊がとことわに宇宙をめぐり循環するよう私は念じる。「棄てられしものたちの残像」

  81. 空前の大ペット関連市場をもつに至った日本では、一方で、公的機関が毎年数十万匹の犬と猫をガス室で殺し、焼却処分している。捕獲された捨て犬、捨て猫がほとんどだが、少なからぬ飼い主がペットに飽きてしまうか、飼育の手間を厭うようになるかして、自ら「処理」を依頼してくるのだという。

  82. にしても、ゴミ袋のなかからハンバーガーやフレンチフライを選り分ける男たちの背中が、切なく、そして気のせいかやや禍事(まがごと)めいて見えてくるのはなぜだろう。この消費資本主義では、膝を屈してモノを拾うよりも、景気よくモノを棄てる方を正常とする、思えば不思議な常識があるからだろう 

  83. とすれば21世紀にも観覧車は死に絶えるという事がないのであろう。それどころか地球のあちらこちらに色とりどりの花のように開花するかもしれない。大いに咲き乱れるといい。迷妾という迷妾をゴンドラにのせて宙を巡りめぐるがいい。一回転すれば一回転分だけ迷いが静まるだろう。私はそう信じている

  84. きっと、走るという光景は、人になにか切迫した異常を告げるのだろう。走るために走るなど、到底信じがたい虚構なのだ。摂りすぎたカロリーを燃焼させるために走るなど、できそこないのSFに等しいのだ。「走るというフィクション」

  85. いっそ、ヌーヴェル・ヴァーグ初期のフランス映画みたいに、モノクロ映像、音楽なし、最小限のナレーションなんてTVニュースをじっくりと観てみたい。色、音ともに潤沢なニュース映像よりよほど想像力がわきそうだ。豊富すぎる情報でぼくらは判断力を奪われっぱなしなのだから。

  86. 自分のグラスは自分で洗いたいですか、といった調子の、媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いなのでした。僕は記銘にかなりの問題ありと言われていて、事実、言われた先から物事を忘れるのですが、この「セーキは自分で洗いますか?」は記憶としてすぐに深く体に着床しました。

  87. この臆病者めが。この2年でお前は体重を15キロ失い、少なくても10年分は老けた。頬は深くえぐれ、頭髪の多くを失い、首の皮膚など死んだ亀のようにたるんで、かつては怒り狂って火を噴くようにも見えた両の眼はいま、まるで濁ったまま涸れた沼のようだ。「自分自身への審問」

  88. 眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」に向かい、視界が反転するなどという、調理中の烏賊(いか)のような躰のめくり返しが、全体、人間にもあるものなのでしょうか。脳の病のせいでしょうけれど、ぼくにはそれがあったのです。「内奥を見る」

  89. ジョジョ。ジョジョは死んだ。あとがまのファーファも死んだ。痕跡もない。アモイからメールがきた。アモイにもコビトがいる。ハマグリもいる。青いウツボもいる。アモイのコビトもふくみ笑いをする。ウィーンからメールがこない。ウィーンの雪はかわいている。小麦粉のように。( 11.2.4 )

  90. 蛸を鈍感ときめつけるのは、しかし、ひどい偏見かもしれない。蛸は死なないどころか、実際は短命である。ストレスが高じるとみずからの足を食ってしまうほど感じやすい。無脊椎動物のなかではもっとも高い知能をもっていて、記憶力も抜群である。その血は青く、詩的でさえある。(09.6.30)

  91. 信頼できる友人らによると、東京拘置所は拙稿「犬と日常と絞首刑」所載の新聞(6月17日付朝刊)を黒塗り(閲読禁止)とはしなかった。たしかめえたかぎり、少なくとも一人の死刑囚が拙稿を読んだという。その事実の性質、軽重、示唆するものについて、あれこれおもいをめぐらせている。「私事片々」

  92. 毎年三万人以上の自殺者、なんらかの精神疾患をもつ人は一説に八百万人ともいわれ、増えつづける一方の失業者、貧者たち。震災・原発メルトダウンは「棄民」に拍車をかけています。これがこの国の実相です。

  93. NHKが巨額のお金を投じて制作した「坂の上の雲」には開いた口が塞がりません。日露戦争における日本人の勇ましいこと、美しいこと。満州・朝鮮の支配をめぐって戦われたじつに悲惨な戦争なのに、本質が隠され、民族心昂揚があおられている。被災地でも「坂の上の雲」が人気だといいます。

  94. 「いっしょに骨拾いをしてくれます?」。いっしょに七並べをしましょうといった調子の軽やかなその声が、荒亡の果てに佐渡に引きこんだ彼の、不意といえば不意、予期したとおりといえばそうでもある死に様には、なんだかとてもふさわしいようにも思われたから、私はすこしも悪い気がしなかった。

  95. 戦時下でも、たとえ核爆発があっても、ワールドカップ・サッカーとオリンピックはつづけられ、大いにもりあがるだろう。大手広告代理店が戦争関連CMをつくるだろう。日本人宇宙飛行士のコメントと日本の新聞の社説は、ひきつづき死ぬほど退屈でありつづけるにちがいない。

  96. どういうわけだか、ものみな拉(ひしゃ)げて見える、ぬるく湿気った夜、ホームの端に立ち、朧に歪んだ三日月を眺めていたのだ。月というより、あれはまるで夜空の切創(せっそう)。傷口から光沢のある黄色の狂(たぶ)れ菌が、さらさらきらきら、駅に降りそそいでいる。伝染性の狂れ菌糸だ。「幻像」

  97. 非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

  98.  風景が波濤にもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。

  99. わたしは長い間、この言葉を意識してきました。『眼の海』を書いているときもずっと意識していました。「自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代」とは、市民運動をも巻き込む新しい形のファシズムなのではないか。そんなふうに思っています。

  100. これが真景なのです。こうした現実は報道されません。ですから、報じられたものは偽造なのだと。なぜマスメディアは死を隠すのか。地獄や奈落と向き合わないのか。それは死に対する敬意がないからだと思うのです。(略)二万人の死体を脳裡に並べてみよ、と言いたい。

  101. 戦争という、人の生き死にについて論じているのに、責任主体を隠した文章などあっていいわけがない。おのれの言説に生命を賭けろとはいわないまでも、せめて、安全地帯から地獄を論じることの葛藤はないのか。少しは恥じらいつつ、そして体を張って、原稿は書かれなくてはならない。「社説」

  102. いつか父を誘った。葦の原にしゃがんで父を殺すことをおもった。ここでならやれるとおもった。父もわたしがそうおもったことを丈の高い葦ごしに気づいているのをわたしは知っていた。父はわたしにやられるのを、魚のいない入江に釣り糸をたれながら、まっていた。「赤い入江」

  103. それは、芸術であれなんであれ、ジャンルやカテゴリーに分類せずにはおかない現代風なやりかたにたいする、強烈なアンチテーゼであるといえよう。じっさい、ジャコメッリの創作は既成のどこにも分類しようがない。かれは、そんなやりかたに関心がないのである。

  104. グルメ番組、くだらない解説、CM。みんながテーブルに一列に並んで、世の中についてこもごも喋る。弁護士が、よくこんな暇があるなというくらい登場する。国会議員が朝から晩まででている。あれも恥だと思います。口を開けて見ているぼくも恥だと思うのです。恥辱というのは、そういうものです。

  105. どうして…と私は訝しみ花の奥を探ると、A子さんは顔を伏せ近寄りがたい程寂しげな眼差しをして、木槿に身を隠すようにゆっくりと遠ざかっていった。紅紫の花の色が映り横顔が燃える様だった。私達は又も言葉を交わさずに別れてしまい、やがて木槿の事も彼女の事も記憶の抽斗の暗がりに消えてしまった

  106. こんなにも暗いのに、タールみたいな水面が葉影を映している。畔になにかが膨れて浮いていた。人か。水にうつ伏せている。やっ、首がない。S.S か。だが、大きすぎるし、体型がちがう。あれは S.S ではなく、たぶん私だ。「閾の葉」

  107. 現に、口が裂けても歌いたくないはずの「君が代」を歌うことが制度化されてしまったとたん、みんなが平気で歌っている。泣きながら歌うわけでもなく、歌うことで魂が傷ついているようにも見えない。挙げ句の果てに生徒に教える。それが戦後民主主義の集合的な不服従の実態だったのではないでしょうか。

  108. 阪神大震災でも、あるいはアメリカのハリケーン被害でも、良好な居住地、堅牢な家に住んでいる富裕層はひかくてきに被害が少なかった。禍は万人をひとしく襲うのではない。貧困階級と弱者をねらいうちにしてくる。あらゆる災害から貧困層や弱者はひどい苦しみを受ける。そこに被害が集中する。

  109. 垂線からもっとも遠いところにいると思いこんでいる無邪気な者たち、すなわち、自己を無意識に免罪している者たちや幸せな詩人や良心的ジャーナリスト、インチキ霊能者らの内面よりも、私が人殺しのそれのほうにより惹かれるのはなぜであろうか。

  110. 男のつぶやきが聞こえてくる。「この顔は、なぜ顔でなくてはならないのだ。なぜ人はなによりもまず顔を見ようとするのだ。存在のなかで最も存在をうらぎる顔というものを存在の証とするのはなぜだ。ない顔に想像の顔をかぶせてまで顔をつくろうとするのはどうしてなのだ…」。臓腑に響く低音であった。

  111. 日常はすでに壊滅しているはずである。なのに、皆が口うらあわせて日常が引きつづいているふりをするのはなぜか。黙契をこれまでどおりつづけているのはなぜだろうか。「自問備忘録」

  112. そこで絞首刑に処されてさらに深い奈落へと落ちてゆく。泣き叫ぶ声も鉄板が二つに開く音もロープが軋(きし)む音も頸骨(けいこつ)の折れる音も読経の声も、刑場の外にはまったく漏(も)れはすまい。そしてそこもやけに明るいのだろう。奈落はたぶん妙に明るいのだ。「側」

  113.  ふと訝(いぶか)しんだ。彼は地下の刑場に連行されるとき、このエレベーターに乗せられるのだろうか。まさか。おそらくどこかに確定死刑囚を地下刑場に下ろすための特別のエレベーターが隠されているにちがいない。ここの死刑囚は予告もなくある朝突然に、死のエレベーターで地下刑場に移送され、続

  114. そんなある日、私はある〈行為〉にでくわした。いつも私の前に例の質問をされている〈認知症〉のおばあちゃんが、どうしたことかその日は質問の最中に眠っていた。いや、それは「寝たふり」であり、そうすることによって彼女は質問に耐えていたのである。「生に依存した死、死に依存した生」

  115. きれいなじつにきれいなある晴れた朝に、9.11 のような壮絶なテロが起き、たくさんの人が死ぬ。そのことの「道理」が、だれにもわからない。そういう世界にわれわれは生きている。 「『時間』との永遠のたたかい」

  116.  人類は頭ではだめでも、胃袋で連帯できるのかもしれない。少なくも、食っているあいだぐらいは。もの食う人びとの大群のただなかにいると、そう思えてくるのである。

  117. 母はどれか。父はどれか。伏せた遺体をめくりかえしてみもしたのだが、しっかり正視したかどうかはうたがわしい。こころのうらでは、父や母や兄弟姉妹でないことをねがいもしていたというから。疲れきって、じぶんがなにをしているのか、ほんとうはなにを乞うているのかもわからなくなった。

  118.  先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉えきれないほど膨れていた。「長く放置していたからですよ」と医師が語った。恐らく、政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう帰れない。どこに行くのか、思案のしどころだ。

  119. すでに見る者の心は乱されている。少年の顔はまるで他の写真から切りぬいてここに貼つけられた物の様でもあり、そういえば物象全体の遠近法も画角も不自然である。少年と黒衣の婦人たちとの遠近は曖昧であり、道の傾斜も遠近の勾配とどうもふつりあいで、見るほどに不安にかられる。「スカンノの少年」

  120. まずこの本の著者のいわば法的規定は元テロリストであり元犯罪者であり確定死刑囚なわけです。それが表象するのは「極悪人」でしょう。しかしながら、彼のひととなり、表現する俳句、詩といってもいいけれど、それはまったく法的規定とは異なる高い品性、文学的豊饒さと深みを湛えている。

  121.  いままさに死にゆくひとの手をにぎったことがあり、ずっと忘れられない。よりそう者のいないさびしい死であった。死にゆくひとは、からだから枯葉をはらりと一枚落とすように、かすかな声を洩らした。「ワ……」と聞こえた。呼気音ではなく、唇がふるえたから、うわ言のようであった。「末期の夢」

  122. 現在、生きてあるのは、いわば凍結処理されているみたいでもある。解凍するとすれば、そのまま死刑執行になる。そういう責苦があるから、生を考えれば考えるほど、死が必ず迫り上がってくる。いきいきといまを感じたり、生命を感じながら、同時に死を感じざるを得ない。まさに絶境です。

  123. ぼくは、自分のことを自覚的なPPJだとおもっています。 P・P・J 、つまり、パーフェクト・ポンコツ・ジイサン。はっきりいって、本当にそうおもっている。「たれもが夭折の幸運に恵まれているわけではない」とエミール・シオランは書きましたが、そのとおりだね。「PPJ と許せる自己像」

  124. この世界では強者の力がかつてとは比べものにならないぐらい無制限なものになりつつある。一方で、弱者が、かつてとは比べものにならないぐらい、ますます寄る辺ない運命におとしいれられている。そうなってきた。

  125. 「おわいのおかし」と「おわいのなまがし」のうち、とくに後者のほうを、腐爛したタヌキの口と、政治家や財界人の排泄物をはいつくばってひろいあつめている記者どもの口に、たんと突っこんでやるべきではないでしょうか。

  126. なにか腸の腐爛したタヌキを思わせる経団連の会長が、憲法改定について「国民投票が過半数の賛成なので、発議要件も議員の過半数が望ましい」と言い、集団的自衛権については「平和維持の観点から正面から議論すべきだ」と、いかなる特権をもってしてか知らねども、偉そうに述べたというニュースを見た

  127. 先程わたしは原発の話をしたけれども、あの福島原発と、多くの他の原発の前提には、事故は impossible という、非常に不遜な、傲慢な前提があったにちがいありません。これは過誤、誤りと、科学技術の過信、自然に対する傲慢さときめつけがしからしめたものではないかとわたしは思います

  128. 上からの強制ではなく、下からの統制と服従。大災厄の渦中でも規律ただしい行動をする人びと。抗わない被災民。それが日本人の「美質」という評価や自賛がありますが、すなおには賛成しかねます。

  129. むろん。Kよ。賢い君がいまひどく悩んでいることをぼくは知っている。つらいから、ときに眼を閉じ、耳をふさいで仕事していることも知っている。ぼくはもう君に対し過剰な批判はしないだろう。静まったのだよ。火焔の錯視で、かえって平静になった。悩むかぎり、ぼくはずっと君の味方だ。

  130. すべての明け暮れが絶えておわれば、これからは明けるのでもない、暮れるのでもまたない、まったきすさみだけの時である。いまやぞっとするばかりに澄明な秘色(ひそく)の色に空と曠野はおおいつくされて、畏れるものはもうなにもない。恥ずべきことも証すべきこともない。「酸漿」

  131. つまり、日常の変化が一見して緩慢ならばさし迫る危険を危険とは認めず、現状に安住しようとする。激変にはあたふたとするけれども緩やかな変化にはまことに反応が鈍い。とすれば、われわれはすでにBF症候群にかかっているのではなかろうか。「ゆでガエル症候群」(Boiled Frog Syn)

  132. 政治は、それがいかなるかたちであれ、殺人をみちびく。そのことをわたしはすでにおもい知ったし、まだおもい知っていないひとは早晩おもい知るはずだ。究極までかんがえぬけば、法的には可能なはずの死刑執行を選挙期間中は避けたのも、いずれ殺人をみちびくだろう政治の手法だったのだ。

  133. そのような倒錯した世界を異様だと感じないほうが異様である。ところが現実には、CMの世界のほうを正常だと感じ、CMがないと逆に寂しくなるというひとがずいぶん存在する。それが生理的に身についているひとがずいぶん存在する。異様が正常になろうとしているのである。

  134. 資本と同一化した映像の代表は、たとえばテレビのCM映像である。これをたんなる商業映像とあなどってはならない。ひとびとの意識と無意識にはたらきかける影響力、ひとびとを誘導してゆく力の強さにかんしては、CM映像が他の映像のすべてを凌駕しているのが現実なのである。「映像と資本の腐れ縁」

  135. 〈 死んだ小鳥が水に落ちたような音 〉 が聞こえてくる。これはある作家がカメラのシャッター音をたとえたことばなのだが、これ以上幽玄な形容を私は知らない。マリオ・ジャコメッリの映像を眼にするときはいつもそうした音が耳の底にわく。水とは人のいない山奥の湖かもしれない。

  136. 私は人非人と断じられることによってしか私の「人」を容易にあかしえはしない。その逆では慙死するほか行き場はない。この件について明証の義務をなんら負わない。完膚ない人非人としてのみ私はやっと安眠を眠りつくすことができるのだ。それ以外の眠りは眠りたりえない。「眠り」

  137. ずいぶんおくれて、/ 首なし馬が / わが首を追って、/ 私のなかの / 霧深い / 青い夜を、どこまでも / 横倒しに流れてくるのを、/ ゆめ忘れるな。 「青い夜の川」

  138. (略)それに、これは笑うしかない体たらくなのだが、半身麻痺という障害をもったまま独り暮らししている私にとっては、手術のための入院だろうが何だろうが、三食上げ膳据え膳の好環境は、いつわらざるところ、大助かりなのだよ」

  139. 「何度もいうが、自死はいまだ行使せざる私の最終的権利であり、また、果たしえない夢なのでもあり、癌の手術とまったく矛盾しはしない。自死は、その未知の闇にいつも大いに惹かれるものの、私にとっては、実行を永遠に留保することによってのみ残される最期の想像的自由領域なのかもしれない。続

  140.  麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのだった。その像は、うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群に重なる。

  141. 結局はそこに想到したまさにそのころ、かわいたアフガンの大地であれほど白銀色に光り輝いていた金属片は沢山の人々の手の汗や脂にまみれて茶色に錆びてきていた。それらはあたかも人の血を吸ったようでもあり、人体の奥深くから剔抉したもののようにも見え、持ち帰った当初よりよほど凄みを増していた

  142. それにしても、昨今のデモのあんなにも穏やかで秩序に従順な姿、あれは果たしてなにに由来するのであろうか。あたかも、犬が仰向いて腹を見せ、私どもは絶対にお上に抵抗いたしませんと表明しているようなものである。 「大量殺戮を前にして」

  143. 見渡すかぎり、やはりジャコメッリの写真や夢のように、景色は白々とそして暗々と脱色され、深閑として音を消されている。友人たちは腰をかがめ、ひとつまたひとつと屍体をみて歩いた。何日も何日も。ひとのおおくはたんに部位にすぎなかったから、ひとりまたひとりではなくひとつまたひとつと覗くのだ

  144. 鈍色(にびいろ)というどすんと重くて冷たいことばを、空がいつもそうだったから、子どものころからからだで知っていた。もともとはツルバミで染めた濃いねずみ色のことで、平安期には「喪の色」であったことなどは、長じておぼえたのである。その空から、はらほろと雪が舞いおりていた。

  145. 「愚者たちの祝祭」と罵っておきながら、犬をつれて不在者投票に行った。投票所ちかくのハナミズキのあたりに犬をつないで、ひとりであるいているとき、不在者投票って面白い言葉だな、とおもった。そうおもったら、じぶんも不在者になった気がしてきて、からだがだんだん透きとおっていくのだった。

  146. 日本社会では不正や不公正への怒りの感覚と表現が、権力と事実上一体化したマスメディアのすぐれて一面的な報道や野党の去勢化の結果、今やほぼ消滅しかかっており、人々はわずかに「怒るべきではないか」→「いや、怒ってもしょうがない」という健全にして穏和な心理プロセスを残しているのみだという

  147. 逆に、いまの為政者たちが社会的な非受益者たちに対して注いでいるまなざしとことばがぼくには納得がいかない。気に食わない。怒りも感じる。あんた方が世界に対してもっているマチエールとかれらのもっているマチエールはちがうよと。高みから見て想定しているものと全然ちがうのだといいたくなる。

  148. 「ちんぴら」という言葉にぼくはどうしても安倍氏を重ねてしまいます。いわゆる“チンピラ”たちは戦争を痛烈に反省したはずの、この国の戦後の成り立ちをまるごと否定し、不戦平和の誓約をヘラヘラ笑いながら靴の先で蹴飛ばしているようです。ぼくはどうしてもそれを諾(うべな)うことができません。

  149. ところで、改憲論の高まりと全く逆の空気もわずかながらあります。『文藝春秋』8月号に岩田正さんの短歌が載っていて「九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか」っていうんです。(略)僕はこういう岩田さんの気持ち、すごくわかるんですよ。「ちんぴらに負けてたまるか」というのが…。

  150. 身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。

  151. さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討する有識者会議なるものをたちあげて同自衛権行使に“合法性”をあたえようとし、マスメディアの多くもこの超右より路線にずるずると引きずられていったことだ。 「メルトダウン」

  152. いま忸怩として思いをいたすべきは、この低劣なる見識のもち主が執政期間中に「美しい国」づくりや「戦後レジームからの脱却」を声高に唱え、教育基本法を根本から改悪して教育現場を荒廃させただけでなく、憲法改悪のための国民投票法を成立させ、さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討−続

  153. 新聞、テレビの垂れ流すいわゆる情報は、改憲をめぐる一連の動きが本質的に災いしつつあることを教えない。このぶんだと人々はクーデターが起きてさえヘラヘラ笑っている可能性なしとしないだろう。「五月闇」

  154. この国の全員が改憲賛成でも私は絶対に反対です。世の中のため、ではありません。よくいわれる平和のためでもありません。他者のためではありえません。「のちの時代のひとびと」のためでも、よくよく考えれば、ありません。つきるところ、自分自身のためなのです。 「いまここに在ることの恥」

  155. 私がいま感じているのは、いわば、鵺のような全体主義化である。そこには凛乎たるものが何もない。右も左も慄然としないことをもって、主体が消え、責任の所在がかくれ、満目ひたすら模糊とした風景のままに「いつのまにかそう成る」何かだ。 「言葉と生成」

  156. 国家とは、その大小と体制のいかんを問わず、おびただしい死体と息づきあえぐ人間身体をどこまでも隠蔽する政治的装置である。戦争を発動してさえそうなのだ。殺した人間の数と殺された者のむごたらしい姿態に一般の想像が及ばないように仕組み、あげく殺戮そのものがなかったかのように振る舞うのだ。

  157. キナ臭くなると、反戦という方向に向かうのではなくメディア挙げて好戦的になっていく。ナショナルなもの、国家主義的なものに訴えていく。これはほとんど宿命のようなマスメディアの流れだ。いまはまさにその渦中にあると思うんだ。これからファシズムが来るというのではなくて、いまその渦中にある。

  158. 現行憲法の主要な論点は、戦後の世代のなかでは自明のもの、あえて論ずる必要のないものとされてきました。(略)護憲を論拠のない観念かお題目のように唱えてきた。あるいは口先だけで理想を語って、改憲の動きとしっかり闘おうとしなかった。その結果が今日の惨憺たる風景になっている。

  159. 橋のむこうに中州があり、そこに岡田座という映画館があった。わたしは『鞍馬天狗』や『紅孔雀』や『ゴジラ』や『二十四の瞳』を見た。映画を見たのを「観た」と気どって書く習慣はそのころ、そのあたりにはなく、わたしはいまも、イングマール・ベルイマンの映画であっても、たんに「見た」と書く。

  160. 他方、このたびの東日本大震災では、未曾有の災厄とか「言葉もありません」というたぐいの常套句が語られるだけで、出来事とその未来にかんする自由闊達な言語化はあまりこころみられず、瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望も感じられません。

  161.  言葉はせめて無骨な樹肌のようなほうがいい。ないし、樹液のようなほうがいい。 私は樹陰に隠れ、想像にふける。樹液のような言葉を、倒木の根かたのあたりに隠れて助けを待っていたという若者はときおりたらたらと赤く薄い唇から吐いていたのではないか。「森と言葉」

  162.  福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の168個分という記事に、わたしはまだしつこくこだわっています。無意識で透明な残忍性をその文面に感じてしまうからです。「膨大と無」

  163. 秋葉原事件についてつづられたおびただしいブログのなかで〈犯人は捕まったのに、なにが“真犯人”かわからないのが悲しい〉という趣旨の若者の文章に私はひかれた。昔日との相違点はまさに、悪の核(コア)をそれとして指ししめすことのできないことなのかもしれない。「幻夢をかすめゆく通り魔」

  164.  酒でもふるまいたかったのだが、麻痺がひどくてできなかった。 すまない、すまないと思い、ぬるい風のなかをよろめきながら帰った。 〈沖縄タイムス記者のインタビュー〉 私事片々(2012/04/10)

  165. 3時間休憩なしで問われつづけ、答えつづけた。このためだけに那覇から飛んできたのだ。手を抜くわけにはいかない。 記者は相当に予習してきた。わたしは静かにおどろいていた。目つき、口ぶり、声。わたしは苛立たなかった。 塩をみやげに頂戴した。 続

  166.  前に回って見れば、あれで結構口尖らせて「けっ、てやんでえ」くらいは、わざと下品に毒づいたりしているのだ。体の前面は誰しも嘘つきだから、威勢のいいふりをする。立ち退きを命じられて、段ボール片手に去っていく男たち。はらほろりと背中に終わりの花が舞う。桜におぼろの、背中たちの溶暗…。

  167.  夜来の雨に散った桜が路面を点々、薄い血の色に染めていた、そんな朝だった。もう半年も前のこと。熟(こな)れのわるい風景として、いまもまなうらにある。 11階のビルの屋上から、若い男が飛び降りようとしていた。 「三点凝視」

  168.  ガスとは、証言者によれば、ガス室で殺された後、穴に埋められたおびただしい数のユダヤ人が、山河の瘴気(しょうき)のように屍から発しつづけたそれのことである。すると地面が波立つ。私の想像では、風景がゆらゆらとたなびくのである。 「記憶を見る」

  169. 夜が、穹窿(きゅうりゅう)形の巨大劇場になって、激しい光の踊りを見せていたのでした。黒い森から、ヒュルヒュルと照明弾が上がり、樹海を束の間の真昼にします。東の丘陵から速射砲が、シュパシュパと次々に青白い火を吹きだして、四十度角の光の斜面で、鋭く夜を切っていきます。「迷い旅」

  170. しかし、病前に重要と考えてきたことのいくつかは、いや、かなり多くのことがらは、実際には、この社会で〈重要とみなされている〉だけの、本質的には虚しい約束事とか符丁(ふちょう)に過ぎず、人間身体が本然的に欲していることとはちがうのではないか、そう思います。「自己身体として生きる」

  171. ぼくはこのことにひどく傷つきましたが、同時にとても神秘的だと思いました。ぼくは年号、日付だけでなく自分の正確な住所、郵便番号、電話番号、銀行の暗証番号、いくつかのメールアドレス、パスワードなど、つまり社会的に必要不可欠とされるIDのほとんどを一時、完全に失念してしまいました。

  172. IT成金のなかには、この世の中にお金で買えないものはないと言放った青年もいた様ですが、確かにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、今の社会のうそ寒さと釣り合うようです

  173. 自分が世界とどうかかわるかは、あらかじめ定まっているのでなく、個々人の想像力が決めると思います。たとえば、恋を語らっているとき、家族で和やかに団欒しているとき、巨大な鳥の黒い影のようなものが一瞬胸をかすめて突然、不安になったり不機嫌になったりして、ひとり沈黙の沼に沈むとします。

  174. 人が亡くなるということはもちろんつらいことですが、それ以上に、今ここにいるはずの人が不在であるという事に私は深い悲しみを覚えます。彼女の存在は私にとっては微光というのでしょうか、ささやかでそれ故とても尊い光のようでした。眩しい光ではなくひとすじの微光がよいと私はいつも思っています

  175. というのは、いま流通している言葉はほとんどコマーシャルな言葉、ないしはほぼコマーシャルに侵された言葉、コピーだからね。これはぼくの言い方で形容すれば「鬆(す)の立った言葉」でクリシェ以下だ。そのような言葉をじぶんは使わない、というより、そのような言葉には使われたくない。

  176. 全的滅亡の相貌。敗戦によっていったんは想い描かれたそれは、2011年3月11日の出来事によって、いま再び想起されているだろうか。どうもそうとは思えない。この社会は大震災による数えきれない死の痕跡を必死で隠し、かつて垣間見た全的滅亡の相貌をきれいさっぱり忘れ去っているのではないか。

  177. 死刑に関するかぎり、この国とそのマスコミは、言葉の最も悪い意味で、“社会主義化”してしまっている。ほら、すぐ近くの某人民共和国顔負けなのだ。国際社会の非難も勧告も聞くものではなく、国内で議論すること自体、なにかとんでもない禁忌をおかしているかのような雰囲気がいまだにあるではないか

  178. ヒャラヒャラと/笑っていたようである/飛ぶ首にかんしては/それ以外の諸現象は事実ではないので/他に伝えるべきではない/一個の首が蒼天を西の方に/ビュービューと飛んでいった/ただそのことのみを想像せよ/首が天翔(あまがけ)た/秋立つ宵/私はじっとそれを見あげていたのだ/私の生首を

  179. しかしながら、米国によって殺された人々のために費やされてきた言葉は、殺された米国人のために費やされているそれに比べ、情けなくなるほど少ない。(略)米国人一人の死は、たとえば、アフガンの住民あるいはイラクの住民百人、いや千人の死に、事実上、匹敵する、ということだ。

  180. 二十世紀百年間における戦争、革命、地域紛争で殺された人間の数は、兵員よりも非戦闘員が圧倒的に多く、ざっと一億人に近いのではないかといわれる。二十世紀は、人類史上、人が最も多く人を殺した世紀であったのだ。では、もっとも多く殺したのはどこの国なのだろうか。(略)答えは、自明なのである

  181. こんないたって大真面目な話をしていると、臭い息をして、腐った眼つきをした男たちがヘヘンと笑う。なんだかがんばってるね、でも意味ないよ、と。冷笑、シニシズムです。そして嬉笑、つくり笑い。あるいは嗤笑、あざけり。これを殺す必要がある。「自分のなかのシニシズムを殺す」

  182. 記者であることの恥辱。あるいは作家であることの恥辱。そして人間であるがゆえの恥辱。ただ見ることの罪と恥。これがそもそもなにに由来する罪と恥か、その淵源を私はしばらく考えなければなりません。だから、可能であれば、今しばらく生きたほうがいいと思うのです。醜く生きればいい。

  183. 若いときには「反戦」を唱えていた文化人が老いてから紫綬褒章かなにかを受勲して、平気で皇居にもらいにいく。旧社会党の議員でも反権力と見なされていた映画監督でも平気でいく。晴れがましい顔をしていく。ここには恥も含羞も節操もなにもあったものではない。 「瀆神せよ、聖域に踏みこめ」

  184. 難しい言葉ですが、日本語に「愧死(きし)」という言葉があります。深く恥じて死ぬ、恥のあまり死ぬ、という意味です。「慚死(ざんし)」ともいいます。愧死する。慚死する。ほとんど死語ですが、そういう言葉があります。「人間であるがゆえの恥辱」

  185. メディアの責任は大きいと思います。ただ、メディアの責任といった場合、どうしても僕らは人格的に考えがちだけど、集合的な意識であって、誰も責任をとろうとしない。結局、僕は個体に帰すると思うんです、「個」に。つまり私はどう考えるか。どう振る舞うべきか。自分はどう思うのか、どうするのかと

  186. 例えば闘牛場に行けば「オーレ」と叫びます。この言葉は誰もが知っています。しかし語源が「神からの」というアラビア語である事を知るスペイン人は少ないでしょう。このように、ある文化の中身を掘り返しはじめると、様々な他の文化からの影響が重なり合って層になっている事を発見する事ができます

  187. もう今更危機感なんかないね。来るものはすでに来たのだから。現在は大いなる日の「事前」であると共に「事後」であるとも考えられる。これから出来(しゅったい)するだろう恐るべき事はむろん多々ある訳だけれども、すでにして生起してしまったカタストロフィだけでも充分、絶望に値すると思っている

  188. けれども近年、世界は私が投影する像をとっくにこえて疾走し、私を置去りにして暴走している。私はキリスト者ではない。が、最近、世界の未来をかんじるには、私の経験則やジャーナリズムのいうことよりも「ヨハネの黙示録」でも読んだほうがよっぽど心の深くに訴えてくるものがあるな、と思ったりする

  189. 背中というのはしばしば他をさえぎる盾になる。無関係を示すには他人に壁のように背をむけてふりむかないことだ。背は、だが、一面の大きな耳になってしまう事もある。私の背後の声がいった。「花の咲く音を聞きにいこうというもんだから…」。花の咲く音というのが面白くて、壁だった背中が耳になった

  190. ここでひとつ現状に抗ってみることーーのふたつは、さしたる異同がないようでいて、この酷い夏の実存の過ごし方としては、大きなちがいがあるようでもあります。で、わたしは前者よりも後者、すなわち、沈黙と忍従よりもほとんど希望のない反抗とふたしかな未来に賭けてみることにしました。7/11

  191. 現状は、私見によれば、すでに堪えがたいものであります。わたしや皆さんが多少これに抗ったところで、明日がどうなるというものでもないことは言うまでもありません。しかし、堪えるべきではない現在にじっと堪えるのと、どうかんがえても勝ち目がなく、きわめて悲観的で不確定でもある未来のために

  192. この酷い夏をどうやって堪えるのか。骨もとける炎熱と「愚者たちの祝祭」=選挙の結果、これからさらに何人が死に、いったいなにが立ち上がってくるのか。わたしは年来の断念癖と気鬱症のなかで、ずっとぐずぐずと想いまどっておりました。

  193. NHKの受信料を払わなければならない理由もわからない。町内会は監視カメラをつけましょうといってくる。防災訓練参加を呼びかけられる。思えば日常というのは吐き気がするような制度だらけなわけです。一切合切を「しないほうがいいのですが」といいたくなる。 「第三の暴力」

  194. 学校では「君が代」を歌わなければならない。日の丸に向かって起立しなければならない。会社ではサービス残業をやらされる。マスコミが国民の義務の様にいう投票。選挙に意味を見いだせない時、棄権はなぜだめなのか。なぜ私達が納税して自民党や民主党の政党助成金を捻出しなければならないのでしょう

  195. でも権力に対する異議申し立てというのは、もっと強い拒絶の意思表示であるような気がします。蚊の泣くような声で、「願わくば、しないほうが助かるのですが」という調子でなされる表現の形式。ここに、かつても今もない苛烈で圧倒的な拒否、世界への「ノー・サンキュー!」があるのではないでしょうか

  196. じぶんは、しかし、亀にならないと信じている。/ 坊主はすでに亀の顔をしているのに、/ じぶんは亀にならないとおもっている。/ 因業坊主の思念の条痕を、/ 右手と右足のない石亀が、/ 水面に首をもたげて見つめている。「回向院の因業坊主」

  197. 坊主は亀を愛していない。/亀は下品だとほとんど憎んでいる。/えさをやらない。/亀たちはとも食いしている。/手足や尻尾が欠けている。/因業坊主は知っているくせに、/えさをやらない。/亀たちは、もとは、ひとである。/佐藤や阿部や亀田や手代木だった、/と因業坊主は認識している。続

  198. まったく悩まずに実行したために罪を犯したという意識が薄い。だから忘却する。そのくだりが私の胸に刺さった。A氏は敗戦後、中国の捕虜収容所でやっと犯行を思い出し、「生体手術演習」で殺した中国人の母親の手紙を読まされたのをきっかけに過去を深く反省しはじめたのだと語っている。

  199. 血がにおいたち、死臭が私の部屋にも満ちてきた。それでもAに対する死刑執行に反対するか、自問した。ややあって自答した。絶対に反対する。そして、眼に見えぬ私への脅迫者に対し、もう一度つぶやいた。おい、くるならきてみろよ。「わが友」

  200. この連載を一冊にまとめた『永遠の不服従のために』の刊行記念サイン会をした。いつもなら、麗々しい儀式を恥じ入る気持ちと闘いながらやるのだが、今回はちがった。事前に「爆弾をしかける」という脅迫電話が入ったものだから、恥よりもなによりも、私は緊張で身構えていた。 

  201.  午前零時、一個だけ食べた。 面相に気をつけて、脂下(やにさ)がらぬように、わざと憮然として。 ああ、でもこれは視界もワイン色に霞む甘さなのである。たちまちに記憶の赤い豆ランプが灯るのだ。 「桜桃の夜」

  202. 出席者のなかに一人、光を失った老婦人がいた。瞑目し、ピアノでも弾くように両の手を塩の棒に伸べている。指先で岩塩の声を聞いている。仰いだ細面は誰よりも遠くを見はるかしていた。まなかいを、おそらく、塩原のあの白い光と熱風がよぎっていたはずである。「魔法の塩」

  203.  あれだけの出来事ですから、やむをえないなりゆきだったのかもしれません。しかし、どうしても腑に落ちないのです。得心できないのです。出来事と己の関係のありようがなにかよくわからない。自分の位置、居場所がわからない。 「内面の決壊」

  204. ああ、わたしは、この廃墟と瓦礫の源となる場から生まれてきたのだなあと思わされたし、わたしの記憶を証明してくれる、あかしてくれるものが、いま、壊されてしまったのだという失意が、自分が見つもる以上に非常に大きく重いものだということを、日々、痛いほど知らされているのです。「記憶」

  205. 「うん、ルリギクみたいに青いね」。私はハッとする。想定が少し乱れる。紙をほおばる人はそのような比喩をしないものと無意識にきめつけていたから。ルリギクとは「瑠璃菊」と書くのだろうか。私は頭のなかで漢字の書きとりをする。瑠璃の偏を一、二度まちがえてから、やっと書けるようになる。

  206. 選挙のたびにもてはやされる能弁でグッドルッキングな若手候補者というのもなんだか苦手だ。ごくごくまれにおそろしく口下手の医師や店員、お役人にであったりすると、立て板に水ではないという、ただそれだけの理由でじわっと情味を感じたりするのだが、これは過ぎたおもいこみか。「声の諸相」

  207. ビクトルは持参のバケツに渓流の水をくみ、沸騰させる。それにジャガイモをいれる。サケの頭を投げこむ。頭を取り出し、こんどは胴。それにウオッカを注ぎ、ウイキョウ、タイム、コショウを入れた時には、待ちきれず、私の喉(のど)がゴロゴロ鳴った。 「美しき風の島にて」

  208. 「でも、あの海の水の量…」サエコが海を指さした。「ほんとうは、理由のある適量なのだと思うわ。いま現在は、あれ以上 1cc でも多くても少なくてもいけない理由があるのよ。この水羊羹の水みたいに」  「赤い橋の下のぬるい水」

  209. だから、本当に取り戻さなければならないのは、経済の繁栄ではないのではないかとぼくはおもうのです。人間的な諸価値、いろいろな価値の問いなおしが必要なのではないか。でなければ、絶対悪のパンデミックは、いったん終息してもまたかならずやってくるだろう。もっとひどいかたちでくるかもしれない

  210. 沢山の失業者が生まれてきているのですが、でも、防衛費の減額というのは微々たるものなのです。一発数千万もするようなミサイルの実験なんかを平気でする。あれをやめたらいいのではないかと僕はおもう。しかし実際にそれをいおうものならば、なにかすぐ怒られかねない雰囲気がどこかにでてきてしまう

  211.  たとえば、人間と人間の関係が商品や貨幣の姿をとってくる。ぼくという人間が、年収いくらの人間であると、それがあたかも僕の生来の決定的価値のように判断されてしまう。そうでしょうか。人間の価値が貨幣で表現できるものでしょうか。

  212. いまの金融恐慌は、負債までも組みこんだような証券をアメリカが世界中にばらまいたことに端を発しています。これはなにに似ているかというとウイルスです。新型ウイルスのように世界中にまき散らした。でなければ、こんな世界の同時不況なんか起きはしない。「価値が顛倒した世界」

  213. 生あたたかな雨がふっていた。飲みのこしのスープのようにしゃきっとしない雨だ。小学校の門を入ると湿った粘土のにおいがたちこめている。投票場になっている教室までの通路にはぬかるみに青色のシートがしかれ、赤土がへばりついたそこをたくさんのアリたちが忙しく行き来していた。「アウラの記憶」

  214. くすんだ赤レンガのその個人医院にはあまり手入れされていない庭があって高木が影を落としている。草ぼうぼうのなかを二十歩ほどいくと待合室である。いつも屈託していて草花などに眼もやらないのにその日歩をゆるめたのは、熱(いき)れる草むらのなかに涼しげな青い花を見たからだ。水中花をおもった

  215. 眼の位置の転換ーそのわけを、うまく説明することはできない。ただいえるのは、うすれゆく意識のなかで路面から世界を見あげる生体が、見おろす者の信条とはまるでかかわりなく、生きたい、生きたいとこい願っていたことだけだ。私はそれを台上でさとった。 「台上にて」

  216. チェットの「My Funny Valentine」は、無垢をよそおった悪魔の吐息とささやきである。(略)チェットは毒物を合成してつくった妖しい香水をまくような歌唱と演奏を、声がかれ、歯がぬけ、神経を病み、怪異な容貌となっても、死んだその年までこりずにくりかえした。

  217. 「ユーゴスラビアのこの戦争はいったいなんなのですか。憎しみだけではないですか」この戦争に宗教は大きな責任があるのではないか。食や性から罪が生じると学ぶよりもっと大事なことがあるではないか。「まず、殺すなとなぜ唱えて歩かないのですか」出て行けと怒鳴られるのを覚悟で私は言いつのった。

  218. およそホテルというところに逗留(とうりゅう)している客で、心から幸せそうな顔をしているひとを、私は見たことがありません。金持ちもそうでないひとも、幸せとは違う、なにか翳(かげ)りある、いわくありげな表情をしているとは思いませんか? 「ハノイ・ヒルトンにて」

  219. 私たちは一呼吸するたびに、一歩歩くごとに、食べ物を一回噛むごとに、愛を語るごとに、詩を一遍書くごとに、死ぬごとに、生まれるごとに、資本主義に奉仕しその延命に手を貸しています。市場はわれわれのためではなく、われわれがもっぱら市場のためにあるのです。「存在の原点」

  220.  いつどこでだれをという予定も絶対にいわない。死刑囚本人に告げられることもほとんどない。ある朝、足音が近づいてきて、そのまま刑場に連れて行かれる。死刑囚は何年もそのときを待つことになる。だから死刑囚にはイメージとしては数万回の死が訪れているわけです。「死刑と禁忌」

  221. 日常の襞のなかに隠れた禍々しいものを、私たちは無意識に無視する傾向がある。それでは日常の深みや日常の裂け目はいつまで経っても見えてこないでしょう。 「忌む」という言葉があります。「斎む」とも書きます。畏敬すべき崇高なものや不浄なものを、神秘的なものとして恐れ避けるという意味です。

  222. ああ、これは涙の色だなと連想したこともある。見ていると正直、気持ちが冴え冴えとしてくる。冴え冴えとしてきはするけれど、やがてはその澄明(ちょうめい)と快感が、まるで薬物のせいのようにも感じられて、そぞろ不安になってくるのだ。美しさがどうも妖しい。「たんば色の覚書」

  223. 大事なことというのは派手派手しい現象の、むしろ陰にあるということ、聞きたい声、聞きたい話というのは凄(すご)いボリュームで語られるその音の陰に、幽(かそ)けき声としてあると考えるようになりました。「視えない像、聞こえない音」

  224. だいたい食料からイヌのえさまで外国につくらせる、世界に冠たる消費国家で、人倫や愛国を語るのがチャンチャラおかしい。 そして、豊かといわれ飢え死にする人もいないのに、人の心性は戦後どの時期より暗い。 「明るい暗がり」

  225. こんなことでは、朝鮮半島や台湾海峡で、一朝(いっちょう)、地域紛争が起きたらどうなるのだろうと暗澹(あんたん)とします。NHKを筆頭に、大マスコミが大本営発表の垂れ流しだけになるのは目に見えている。 「ジャーナリズムの根腐れ」

  226. その秋山さんとお話して興味深かったのは、自分は「普通のオジサンだよ」とおっしゃるような気取らない方なのですが、ミールから見た地球について語りだすと表情がすっかり変わり、「夜の地球は薄いピンクの心臓だった」とか、まるで詩人のようになることでした。私はこれだな、いいなあと思いました。

  227. わからない。おとこがなにを言ったか、おれには読めない。ゴトリゴトリ。碁盤が歩いてくるような音だ。血の気の薄い唇はもう閉じられている。さっきの影の口のうごきのとおりに、おれも口をうごかしてみる。影はもうドアのむこうに消えた。おれは瀕死の魚みたいにまだ口をうごかしている。 「挨拶」

  228. 憂悶はつのり、泣きたいような哄笑(こうしょう)したいような心もちになります。で、力なくぼくは呟きます。「物言うな、かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」

  229. とりわけ、健常であるということと暴力の関係。(略)いまのぼくは誰かに殴られそうになっても、暴力で対抗するどころか相手の拳を避けることも走って逃げることもできない躰になってしまいました。小学生にでも突き倒されるような躰にね。「狂想モノローグ」

  230. ぼくは葦の原にもぐった /うずくまって身を隠した / 入江にはなにもなかった/ 太陽に暈がかかった/ 鼓膜がどうにかなったと錯覚するほど/ 音が死んでいた / 入江がゆっくりと兆していた/ 葦は影絵だった/ 入江は孕んでいた / 入江は疲れを孕んでいた / 入江は疲労であった

  231. 死んだ犬をうかべる渚が / 暮れなずむ陽を映して / さっきほのかに / 思弁めく反照をした / 3シーベルトの水面を /ひとひらの青紫のクロッカスの花弁が泳いでいる /そのそばに殻をかぶったホヤがひとつ /不発弾としてころがっている 「わたしはあなたの左の小指をさがしている」

  232. 音はあったはずですが、記憶にはなぜかのこっていません。無音でした。そうとしか記憶していません。巨きな波の崖は、そびえたったままの姿勢で、なにか海が上下ふたつに別れて、上側がずれるようにして、陸側にせまってきました」 「ーー災禍と言葉と失声」

  233. 「雪がななめにふっていました。その空をたくさんの鴉がみだれとんでいました。鴉は山からとんできたのです。どうしてとんできたかはわかりません。雪は白い緞帳みたいでした。ぶあつく見えたのです。大津波は緞帳をつきやぶり、ぬっと姿をあらわしました。波はまるで断崖絶壁でした。 続

  234. 大震災後、感覚に失調をきたしているのは、わたしだけではあるまい。揺れと大津波のフラッシュバック。破壊と喪失のとめどない悲しみ、不安。悼みと虚脱。原発禍のなか、せまりくる次の大震災。あてどない未来……。人びとの情動は、おそらく戦後もっとも大きなゆれ幅で日々うねりをくりかえしている。

  235. 断たれた死者は断たれたことばとして / ちらばりゆらゆら泳いだ / 首も手も足も舫いあうことなく/ てんでにただよって/ ことばではなくただ藻としてよりそい / 槐の葉叢のように / ことばなき部位たちが海の底にしげった / 水のなかから水のなかへ / 水のなかから水のなかへ

  236. 「これは三年前の、古い粉だよ」彼女の家の小麦畑は戦争でセルビア側に占拠されたのだ。小麦粉と卵と塩を大きな手でこねている。だんごになったところで麺棒で薄くひき延ばす。「水は一滴だって加えちゃいけないの」独りごちるのだが、水はもう入っているのだ。涙がぽとぽと小麦粉に滴っている。

  237. おそらく、少年の首は、闇に潜んでいたピアノ線上に、一個の音符のように、ポカッと浮いたのだ。首が、全音符になった。そして、ピアノ線の下を、首のない胴体を乗せたオートバイが、何事もなかったように通りすぎたのだ。「ミュージック・ワイア」

  238. 「白塗りのトラックが街をヒタ走る/何処までも 何処までも/真赤になるまで」。あれっ?と僕はおもう。秋葉原事件があったからでしょう。ある種の既視感のようなものがわくわけです。人の表現能力、潜在意識みたいなものは、じつはこういう闇の部分というものをふくみもつものだとぼくはおもうのです

  239. ファシズムはじつは魅力的なのです。登場時のいでたちはとりわけ英雄的に見えたりする。腐敗を正して、ゲイやレズビアンを撲滅して、民族の優越性をいいつのって、文化を統制していく。そこに惹かれていく人間たちがいたし、これからもそうでしょう。

  240. それで何十億ものお金を使っているとしたら、その何十分の一でも回して、労働者の馘首をやめるべきではないかと思う。でもそれはありえない。だれもやらない。大臣だって首相だってそうでしょう。経済が回復するまで当分、閣僚級、次官級の給与を半分にし貧困対策にあてるともいわない。絶対にいわない

  241. はっきりしているのは、今日の危うい風景が、激しい議論の末に立ち現れたのではないこと。 黙ってずるずると受け入れてしまったのだ。 「再びテーマについて」

  242. 見れば、麺にからまって蠅の何匹かはすでに死んでいるではないか。単なる事故死ではない。これは自死に近いのだと思う。(略)かつてプノンペンの食堂でも蠅の自殺を見たことがある。うどんのどんぶりに突入してきたのだった。私は助けなかった。蠅を浮かせたままうどんを食った。「風景と身体」

  243. ある特殊事情が「周辺事態」なる奇怪な言葉を無理に誕生せしめ、翻って、この言葉がある面妖な状況を生成せしめている。(略)国家意思は、かくして、なし崩しに受容され始めているのである。文法を敢えて侵してまで「周辺事態」を認知させねばならなかった起草者たちの底意が十分解明されないままに…

  244. 韓国の老婦人が私に記憶を語った。「小川でね、みんなしてね、しゃがんでね、洗うのよ、四十個もね。つらかったですよ、これがいちばん」ラングーン(ヤンゴン)の慰安所で昼間使用した避妊具を、夕食後に並んで洗った。それは連日のセックスよりもなさけなかったという。「記憶を見る」

  245. 大震災後の言葉に名状しがたい気味悪さを覚えるのは、言葉の多くが、生身の個のものではなく、いきなり集団化したからではないでしょうか。ファシズムには、じつはこれと決まった定義はないのですが、言葉が集団化して、生身の個の主語を失い、「われわれ化」してしまう共通性はあるように思われます。

  246. 歴史観、宇宙観、人間観は、時代の進行とともに深まっているのではなく、むしろ退行しているようにさえ感じます。マイカーもテレビもパソコンも携帯電話も原発もなかった昔のほうが、一部の人びとは、いまよりも心の視力にすぐれ、表現が自由闊達であった可能性があります。「時代の進行と退行」

  247. 多くの人びとが呪文の裏の意味を探ろうとしました。目的不明のCMは国家権力が〈放送せよ〉と命じたものではありません。民放テレビ各局が言うなれば「自主的」に流したというのです。しかし、自主的に放送されたはずの言葉は不気味なほど基調が似ていたのです。「心の戒厳令」

  248. たとえば「あいさつの魔法」という歌が、気が遠くなるほどなんどもなんども流されました。「こんにちワン ありがとウサギ 魔法の言葉で 楽しいなかまが ぽぽぽぽーん」という歌詞は覚えたくなくても全国民の記憶にすりこまれました。

  249. ああ。ため息が出る。気持ちのいいことで、恥ずかしくないことなんてあるだろうか。十月の浜辺に横たわり、積雲とその下の海原を薄目に見て、まどろむ。気持ちよくて、気持ちよくて、なにか背中のあたりが気恥ずかしくはないか。「赤い橋の下のぬるい水」

  250. おそらくは無言の鱗茎にかぎるまい。夜は夜のことごと、昼は昼のことごと、こちらがそれと感づく以前に、徐々に静かに生成され、醸成され、ある日気づけば、もはや取り返しのつかない巨大な形象となって眼前にぬっくりと立ち現れることって、この世には存外多いにちがいない。

  251. 通勤者たちは通勤者で一分でも遅れまいとして職場を目指していく。なにがあっても職場を目指していく。新聞記者は新聞記者で職務に一生懸命で、報道車両はいくらでもあるけれども、別にそれで被害者を運ぼうとはしない。背中をさすろうともしないというわけです。「オウム事件とメディアの荒廃」

  252. ホルマリン漬けのあの赤ちゃんたちの凄まじい形象に衝撃を受け、憤りを感じることができても、枯れ葉剤やナパーム弾と戦った兵士が何年も暮らしたトンネルに、ぼくはたったの三十分も耐えられないのでした。「赤ん坊」

  253. この褐色の赤ちゃんも、われわれ日々もの食う者たちの一人なのだ。働き手がない。安全なミルクが買えない。危うい母乳を飲ませてでも、さしあたりいまを生かすしかない。世界にはこんな食の瞬間もある。ほんとうに静かだ。 私だけが震えていた。「バナナ畑に星が降る」

  254. 私はある予兆を感じるともなく感じている。未来永劫不変とも思われた日本の飽食状況に浮かんでは消える、灰色の、まだ曖昧で小さな影。それがいつか遠い先にひょっとしたら「飢渇」という、不吉な輪郭を取って黒ずみ広がっていくかもしれない予兆だ。たらふく食えたのが、食えなくなる逆説、しっぺ返し

  255. そのせいもあって、私の友人の在日コリアンたちの多くはいま、失意のただなかにある。みずからはいささかも関係のない拉致事件について、まるで故国を代表するかのように詫びの言葉を口にする在日二世もいる。そんな必要はまったくないのに。「歴史と公正」

  256. 夜行列車の停車駅はいつだって異境です。軌条の果てにも、無論、空漠とした異境しかありません。どこまで行っても。しかし、そこに降りたちながめると、ひとも街も、荒れていようがいまいが、いつか見たことのあるもののような、不可思議な懐かしみを感じてしまいます。「ナイト・トレイン異境行」

  257. 足下を、骨と皮に痩せた褐色の中型犬が、通り過ぎていきました。膝をガクガクさせ、いまにも倒れそうなほど力なく歩き、海岸におりる階段のついた、防波堤の切れ目のあたりで立ち止まりました。「おい、おい」と、ぼくは声をかけてみました。犬はゆっくり振りかえりました。「遠吠えする人面犬」

  258. 今後は死者を眼にしたら、書くのでも撮るのでも評じるのでもなく、内周の闇に割りこみ、ひたすら黙して運ぶのでなければならない。私がさきに運ばれる身になるのかもしれないけれども、そうでなければ、斃(たお)れた他者を運ぶか拭うか抱くかして、沈黙の闇と臭気に同化するよう心がけよう。

  259. 去りゆくすべてのことは、ときとともに色あせていく昏夢(こんむ)にすぎない。そしてまた、これから起きるであろうことは、昏夢のつづき、つなぎ目のはっきりしないまどろみのつらなり、果てしない残夢である。私の頭蓋のなかには乳色の靄がわいている。かつても、いまも、おそらく、これからも。

  260. 大道寺氏の傑作と言える〈天穹(てんきゅう)の剥落のごと春の雪〉。いや、まいったな、と思わず言っちゃうくらいすごい句です。唖然として、敢えて評価を避けるくらいです。 「短詩に命を賭けること」

  261. だって、よっぽどのものは除いて、評論はつまらんでしょう。苦しんで己が実作してこそなんぼであって、評論や作品選考なんてのは次元の違う、どこか政治的な世界です。彼も、自分は他者の作品を評論する立場じゃないという意識があり、私は私で信条として人のことをとやかく言うのが嫌いというのがある

  262. 僕くらい記者という仕事を派手にやってきて、その仕事を嫌っている人間はいないんじゃないかな。“辺見じゃなくて偏見”と言われているくらい、記者という仕事が生理的に嫌いなんです。詩を書き始めたのは、率直に言うとその反動だったのだと思います。「傷を受けて、ものを書く」

  263. 僕はもともと共同通信社の記者を長くやっていて、賞をいただいて素直にバンザイという感じにはならないような体質に育っているんです。人にほめられたり賞をもらったりすることが恥ずかしいような。とりわけ僕が書くような詩に限って言えば、ほめられるようじゃだめだな、という気持ちがあるんですね。

  264. 二十世紀は資本主義が、想像もできなかった形に爛熟した。ヘッジ・ファンドがもてはやされ、投機が市民権をえて、人々が投機に血道をあげる光景は、しかし、資本主義の病状がかつてないほど危険な段階に入っていることを物語っていはしないでしょうか。「資本主義の病状」

  265. 気がふさぐのは、おもわず口をついてでた、いやに歯切れのよい言い草なのだ。「猛」と「!」をとればうそにはなりませんよ、とうまく相手をいいくるめたやりかた。それは政治であって、人をうやまうまっとうな言葉のありようではない。気の晴れぬもとはそれである。 (「猛犬注意!」の札、所望の件)

  266. 2006年の12月25日、クリスマスの日の午前中に、日本各地の拘置所にいる確定死刑囚4人に対して、一斉に絞首刑が執行されました。これもまた私たちの日常です。死刑の執行はたいてい平日の午前中に行われます。私はお昼にそれを知りました。 「クリスマスの情景」

  267. 北朝鮮はどこまでも悲しい。数かぎりない人びとが飢えと圧政に苦しんでいるというのに、いっさいの政治的たくらみぬきで外から助けの手をさしのべようとする者はごく少ない。(略)飢えて病んだ子ら、悩める個人たちをおもんぱかる慈しみのこころが日本にはぞっとするほどたりない。「悲しみの地平」

  268. プラハ演説でどきりとさせられたのは、核なき世界への努力についてオバマ氏がにわかに厳しい顔になって述べた I'm not naive (私はナイーブではない)というしごく簡明なせりふだ。(略)在日米大使館による参考訳は、まさに名超訳というべきか、「私は甘い考えはもっていない」である

  269. 台上で私は「くくくく」とはばからず声をあげた。痛いのか、とあわてて医者は顔をよせて問うてきた。私は低く「いや」とこたえ、あとはくちをつぐんだ。じつは笑ったのだ。(略)自身の〈生体〉と〈信条〉とのあっけないほどの離反が、いまさらこっけいにおもえたのだ。「台上にて」

  270. ファシズムというのは必ずしも強権的に上からだけくるものではなくて動態としてはマスメディアに煽られて下からも沸き上がってくる。政治権力とメディア、人心が相乗して居丈高になっていく。個人、弱者、少数者、異議申し立て者を押しのけて「国家」や「ニッポン」という幻想がとめどなく膨張してゆく

  271. 私を襲ったあれこれの病気が実際、因果応報であるにせよ、私はそれを哄笑して否定し、生まれ変わったら再びいわゆる罰当たりを何度でもやらかして、またまた癌にでも脳出血にでもなり、それでも因果応報を全面否定するつもりだ。それほど私はこの考えを忌み嫌っている。

  272.  にしても、結果どうであったかを表現できないとしたらつらい。その意思があるのに表現できなくなることと自死できなくなること…いまそれをとても恐れている。逆に、なにがしか表現でき自死できる可能性を残しているかぎりは、軽々しく絶望を口にしてはならないと自分にいい聞かせている。

  273. 末期‥…といってもいますぐの臨終ではなく、おそらく比較的に長い終わりの時が静かにはじまっているのかもしれない。問題はそこだ。これからの終わりの時をお前は何を考え、どう過ごそうというのか。「自分自身への審問」

  274. 私のいう遠音とは、すぐ近くにあってさえめったには耳朶に触れない、ましてはるか彼方にあってはまったくないことにされてしまうであろう、人として本来耳そばだてるべき哀しき他者の忍び音、嘆息、絶叫、吐息、呻吟のたぐいなのである。「遠音を聴き、撮る者たち」

  275. やけに風の強かった月曜のあの朝、私は一体何にたまげたのだろう。(略)倒れた人々を助けるでなく、まるで線路の枕木でも跨ぐようにしながら、一分でも職場に遅れまいと無表情で改札口を目指す圧倒的多数の通勤者たち。目蓋に焼きついているのは、彼ら彼女たちの異様なまでの「生真面目さ」なのである

  276. 思えば「よいこがすんでるよいまちは」の歌を小学校でならったころ、日本にはそんなに「よいまち」なんてなかったはずです。この歌には、だから、どこか哀しい響きがあります。でも、生きることがとても具体的な時代だったと記憶します。 「プレモダン」

  277. 大震災、原発メルトダウンと、それをきっかけにしたいやな気流のようなもので、気持ちがすっかりふさいでいたのですが、その時は大げさに言えば、ひとすじの光を見たように思いました。37歳の若者が堀田善衛が好きで、『橋上幻像』を精読していたとは、わたしにすればまるで奇蹟にひとしい話でした。

  278. 原発の安全、低コストといううたい文句と原発の実体がまるでことなることも、言葉と実体の連続性の破断と言えるでしょう。3.11が、言葉と実体のつながりを破断したのではなく、3.11のおかげで、もともとあった言葉と実体の断層が証されたのです。「存在証明の困難」

  279. わたしは口をパクパクし、しきりに指さすのですが、言葉と対象がまるで合致しないのです。私は胸を濡れた荒縄できつくしばられたような恐怖を感じ、言葉ではなく呻きや叫び声をあげて目覚めました。あの夢はなんだったのか、ずっと考えています。「言えない悪夢」

  280. それは、地平線まで広がっている黒い瓦礫の原にたったひとりで立ちつくしているわたしの夢でした。ひどく怯えました。一面の瓦礫の光景が怖かったのではありません。わたしは足もとの屍体や影やおびただしいモノたちをいちいち指さして、懸命に何か言おうとしているのですが、どうしても言えないのです

  281. あの入江も、いつもなにかを兆していました。いつもなにかを孕んでいた。それは優しさでもあった。けれども殺意のようなものでもあった。狂気も漂わせていました。無人の入江は性的なものであると同時に、とてつもなく清いものでもあった。水が血のように赤くなるときもあった。「畏れ」

  282. ひとを起こしてお金もらえるなんて、はじめる前は気抜けするほど簡単なことと思ったが、どうしてこれがなかなか難しい。安らかに眠り、心地よく目覚める。こんなあたりまえのことを、かなり多くのひとができずに生きているのだ。これはちょっとした発見だった。 「自動起床装置」

  283. 夜、佐渡の濃い闇の中でしたたかに酒を飲んだ。酔って海のきわを歩く。カンゾウの花びらの色が闇に線を曳いてしきりに流れていく。それを闇に見ているのか、黒い海面に見ているのか、いや、ただ眼うらに幻を見ているだけなのか、私にはわからなくなる。次から次へとカンゾウの花びらが闇を走っていく。

  284. 渋沢孝輔の詩はいう。「いまは錯乱の季節だときみはいうか / そうではない いまはただ偽証の季節だ」。私もそう思う。降りそそぐ狂れの菌糸は、じつのところ私たちを単純な悩乱に誘っているのではない。私たちをとんでもない嘘つきにしているのだ。「幻像」

  285. 私の糞バエ発言を暴言というのなら、権力の意を体してゴミネタにたかりつくのでなく、有事法制をなんとしても通そうとする者たちにこそぶんぶんと群がって、欺罔(ぎもう)のひとつでもいい、奇怪な意図のほんのひとかけらでもいい、死ぬ気で暴いてみてはどうか。「糞バエ」

  286. いったん地獄を見て、知ってしまうと、そこから離れることができないということもあると思うんですね。見たり知ったりする必要がなければ、眼を背けたり立ち去ったりすればいいわけですが、しかし、見ないこと、知ろうとしないことくらい非人間的なことはないと私は感じております。

  287. 現行憲法の主要な論点は、戦後の世代のなかでは自明のもの、あえて論ずる必要のないものとされてきました。(略)護憲を論拠のない観念かお題目のように唱えてきた。あるいは口先だけで理想を語って、改憲の動きとしっかり闘おうとしなかった。その結果が今日の惨憺たる風景になっている。

  288. もう語るまいという衝動がつねにある。数え切れない徒労に疲れたのではない。語りの中身に自己嫌悪するのだ。沈黙の底光りに惹かれるのだ。

  289. 大学で学生と接していると、学生たちは映像に関してはきわめて敏感ですね。逆に活字から世界を想像するという作業は、ひどく苦手のようです。それは彼らが不勉強だとかいう問題じゃない。社会全域の、テクノロジーの変化の中で、人間の感性や想像力が大いに奪われていく過程にあるのだと思うんですね。

  290. こんなインチキな国はなくなったっていいじゃないか、棄てちまえ、と。いくらニッポンでも千人に聞いたら一人ぐらい言うよ、この際一回なくなってしまったほうがいいじゃないか。 そういった言説を全部きれいに消していく作業だけは、メディアの連中は見事にやる。みな「自己内思想警察」がいる。

  291. 逆に、大きくならないほうがよい言葉がいきなり膨張して大手をふって歩き出した。「国難」がそうだ。詩についていえば、「震災詩」という呼称からして、ぼくにはなにか生理的に堪えがたい。戦前、戦中の翼賛詩、戦詩みたいなものを髣髴(ほうふつ)とさせるしね。「破滅の渚のナマコたち」

  292. うーん、日本語にね、ほとほとうんざりしたな。詩や散文の世界だけではなく、マスメディア全体だね。まあ当初から予想はしていたし、大震災前からもともといやではあったのだけど、大震災後ここまで言語世界というものが全体にパターン化し萎縮し収縮するのかとおどろいたね。

  293. 私たちの日常とはパラノイアを唯一の精神規範としていながらパラノイアを排除しようとする撓(たわ)んだ時間の総合体である。テレビはそうした時間の実現である。そこでは裁く者のパラノイアがとくに注目に値する。 「自問備忘録」

  294. 私たちの日常はしかと見れば顔青ざめるような恐怖と痛みをその襞(ひだ)につつみこんだ永遠の麻酔的時間のことである。

  295. 青年は手紙の中で(略)自らへの死刑執行については一言も触れていなかった。覚悟を示すのか楽観を示すのかは字面からは量れない。執行を知ったその時、私はどんな顔になるのか、ふと考えた。おそらく憂愁と忍苦の表情などではあるまい。顔は壁のように無表情にして、皮膚の下で絶叫するのではないか。

  296. そして人はよく笑う。わけもなくよく笑う。つまらなそうによく笑う。人が死刑にされた日の昼も夜もよく笑う。イラクで人が何人殺されようと日本の人々はよく笑う。つまらなそうによく笑う。笑い声はたいていテレビから溢れてくる。わざとらしい笑い声の根も、胡乱な視線の根もテレビから生えでている。

  297. 私たちの日常の襞に埋もれたたくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、私の痛みをきっかけにして想像するのをやめないのは、徒労のようでいて少しも徒労ではありえない。むしろ、それが痛みというものの他にはない優れた特性であるべきである。

  298. 私たちの日常とは痛みの掩蔽(えんぺい)のうえに流れる滑らかな時間のことである。または、痛みの掩蔽のうえにしか滑らかに流れない不思議な時間のことである。日常を語るには、したがって、痛みを語るほかない。 「痛みについて」

  299. 私たちは死刑を刑務官に代理執行してもらっている。私たちはやらずにすむ。あの禍々しく悲惨極まる死刑は、人が人を憎んで殺すのではなく、ルーティンワークとして刑務官が代理執行させられているわけです。「黙契と代理執行」

  300. 自分の犯罪を悔いている、足も立たなくなった老人を強いて立たせて、首に絞縄をつけるという行為。これを強いられ、せざるをえない刑務官ら。彼らの存在と悲劇も私たちの平穏な日常の襞のなかに埋まっているのです。「クリスマスの情景」

  301. 選挙はいまや大手広告会社の介在なしには成り立たない。大手広告会社が自民党のコピーをつくる。「美しい国」とか「美しい星」ですか、ああいう実体のない薄気味悪い造語には広告会社がからんでいたりする。 「日常の裂け目」

  302. 大事なのはワシントンであり、ロンドンであり、東京なのでしょう。でも私はそうは思わない。本当に大事なところは、まだ2歳か3歳の赤ちゃんの背中にナパーム弾が落とされるところであり、子どもが飢えているようなところだと思うのです。そういう場所こそが世界の中心であるべきなのです。

  303. CCRが「雨を見たかい?」をつくったのは1970年です。当時この曲は放送禁止または放送自粛曲になります。いまも南部の保守的な州ではこの曲の放送を自粛しています。イラク侵攻の時にもアメリカの一部メディアは自粛しました。アメリカ軍はイラク戦争でもナパーム弾を使用していたからです。

  304. 許しをこうているのではない / 情けをこうているのでもない / 悔いているのでもない / いまさら 命をこうているのでもない / まして 祈っているのでは なおない / 私は私のなかの 遠声の 厳命により / いまひたすら 影を食んでいるのである  「影」

  305. いっそ煮とろけよ、さらに煮とろけよ。/ 煮とろけて、痛みをとかせ。/ 時をとかせ。/ あの闇とひとつに、/ とろとろ煮とろけよ。/ 煮とろけて、/ いつか、一条の / 記憶の列車をみたしていた、/ 泥のような暗闇とひとつになれ。「夜行列車」

  306. 死ぬということは、思うことを消され、悩むことを消され、語ることを完全に消されることである。それでは生きのこった〈生きのこってしまった〉生者とはなにか。それはたれもがひとしなみに喋々と弁ずる者ではない。心はしきりに思い悩むのに声を絶たれた生者もいるのである。

  307. 彼女は掌の錯視にひたすらこだわり、〈実際に掌を見た〉という記憶とのあいだで揺れに揺れて、声をなくした。それは「知」の饒舌より生体の反応として哀しくも潔く美しいと感じられてならない。 「人間存在の根源的な無責任さ」について

  308. さて、わたしたちに過誤はあるのかないのか。過誤はあったのかなかったのか。原爆を投下されたのちに幾たびか試みたように、そのような自問は今度もあってよかりそうだ。廃墟にたたずめば、しかしながら、そのような設問はしない。廃墟にあってはしばらくの間、一切の問いという問いがかき消えるのだ。

  309. 「国難」などという戦前も用いられた怪しげな言葉を蹴飛ばすのでなく、お国と一緒になって絆だとか勇気だとか物書きが言ってどうする、とぼくは思うがね。肯定的思惟を先行させて状況全般を受容するだけでなく、批判的発想を揉み消していく重圧みたいなものが、外側からではなく表現者の内側にある。

  310. 私はこういう躰になってからは映画館に行くのがしんどいものですから、DVDで映画を観るくせがついたのですが、観るのを避けてきた映画が一つあります。それは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という映画です。テーマを知っていたがゆえに観るのがつらすぎたのです。「死刑の実相」

  311. 今日、薄暮れる前の四時五十分、私のなかのミルバーグ公園に来てはくれまいか。ゴンドラが七つついた観覧車近くにある楡の樹の下の赤いベンチに。いや、よそ行きに着がえる必要なんかないんだよ……。

  312. あのころなにかを「見る」といえば、対象は主に自分の躰の暗がりにくぐもっている自分の内奥の貌だったのであり、躰の外の景色はどんなに意味ありげでも私にとって夢のなかで眼をかすめていくとりとめのないもうひとつの夢のようだったのだ。「ミルバーグ公園の赤いベンチで」

  313. 完全性を求める潔癖で隙のない青い観念こそが組織的な殺戮を可能ならしめる。清冽な青こそが人を「正気で殺す」色なのではなかろうか。 「たんば色の覚書」

  314. ふと想う。赤が狂乱を表象し、青は狂気の徴(しるし)だなどといったいだれが決めたのか。だれも決めていないし実証もされていないのである。(略)ギリシャでは青こそ夜と死の色であったともいう。狂気の川の深みにあっては、赤や黄よりむしろ涼やかで濁りない青のほうが狂れの色なのではないか。

  315. 被災地ではまた、燃料が足りず、死者を火葬できなかった。臭くなるので、身元確認もできていない死体を埋めてしまうわけです。埋めざるをえない。手、耳、片足だけの部位を埋める。死者は陸だけではありません。どれだけの人間が今、海底で暮らしているのか。

  316. 炊き出しは当初、人数分の胃袋を満たしはしなかった。人びとはわずかの食べ物に殺到した。配食係があるときいらだって大声をだした。「食いたければ、並べ!」。その言いぐさに、友人は生まれてはじめて〈殺意にちかい怒り〉を覚えて、舌が口いっぱいにふくらんだのだという。

  317. いまさらけっして詫びるな。/ 告解を求めるな。/ じきに終わることを、ただ / てみじかに言祝げ。/ 消失を泣くな。/ 悼むな。/ 賛美歌をうたうな。/ すべての声を消せ。/ 最期の夕焼けを黙って一瞥せよ。 「世界消滅五分前」

  318. すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。 「善魔論」

  319. 光と闇とが意味ありげに見えるのはなぜか。とりわけて、屍体Xを発生源とする光は秘めやかで妖しく、あくまでも見ようによってはだが、秘事をおもわせた。 「閾の葉」

  320. 彼女が頸に腰紐を巻かれたあの不身持ち男を背負って/前屈みになる/深々とお辞儀する/腰紐の両端をぐいと下に引く/そのとき彼女は何といったのか/〈どうだ思い知ったか〉ではないだろうな/幾度も幾度も お辞儀しながら/その度に背中で反り返る彼に/優しく囁きかけたにちがいない「地蔵背負い」

  321. たとえば、発光する糸ミミズの群れが、躰内奥深くの闇の湿地でさわさわといつまでも顫動(せんどう)しつづけ、紅くほのかな明滅をくりかえしているような感覚ーーそれがどうやら恥の記憶に由来するらしいことは、相当以前からうっすら知ってはいたのだ。「いまここに在ることの恥」あとがき

  322. 病院で私は、世のなかから「形骸」と見なされてしまう人びとをたくさん見ました。私などよりずっと大変な症状をかかえています。その人たちの神秘的な心の動きも眼にしました。非常に深い眼の色をしています。微妙な表情をします。形骸に見えて、形骸では断じてありえないわけです。

  323. そういえば、ゆくりなくも彼女と出逢ったあのときには、どうしたわけか故郷の海を眺めていない。花の奥に低い波の音を聞き、潮の香を嗅いだだけだ。もう一度彼女に会いたいなと思う。いまならば、彼女にせよ私にせよ、花の群れに身を隠すことはないだろう。「邂逅」

  324. 今回の震災では特に、言葉が枯渇し、萎縮し、表現の範囲がぎゅっと縮んでしまったと思います。 この状態は戦時下に似ているんですよ。僕は世代的には戦争を経験していないけれど、いちばん意識したのはそれですね。自由であるべき言葉や表現がかなり抑圧されているな、と。「傷を受けて、ものを書く」

  325. 新しいイデーというものが出てくるためには一回、完全に滅亡し崩壊しないと駄目だという思いがありますね。文学的直感にすぎないと言われればそうなんだけれども、徹底的な敗北のなかからじゃないと新しいものはうまれてこないだろうなというのはある。「沖縄論」

  326. キナ臭くなると、反戦という方向に向かうのではなくメディア挙げて好戦的になっていく。ナショナルなもの、国家主義的なものに訴えていく。これはほとんど宿命のようなマスメディアの流れだ。いまはまさにその渦中にあると思うんだ。これからファシズムが来るというのではなくて、いまその渦中にある。

  327.  にしても、言うべきことを言わず、なすべきことをしていない。期待された行為を行わないことによって成立する犯罪を「不作為犯」と言いますが、マスメディアもそうではないでしょうか。それが全体として新しいファシズムにつながっていく。 「新しいファシズム」

  328. ランボー没後百二十年は、ときあたかも、大地震と原発メルトダウンにかさなった。詩人がことばの底から時代を画する災厄を呼びよせたかのように。それかあらぬか、瓦礫の原で「地獄の季節」や「イリュミナシオン」を読んでみるとよい。 「瓦礫の原のランボー」

  329. むろん、人生は買えない。いやな時代だからといって過去に戻ることもできはしない。どこかに逃げようったって、「逃げるな」という声が追いかけてくる。それは他者の声ではない。耳をすませば、それは自分の声なのだ。 「二層風景」

  330. クラスター爆弾の破片を手にした何人かの聴衆の反応と「動作」は以前とずいぶんちがっていた。錆びついたその金属片をいったん自分の膝の上に置いて、まるで仏像にでもするように瞑目して合掌したのである。女子高生もお婆ちゃんもそうした。見ていて私はたじろぐ。「いま、抗暴のときに」

  331. 国家とは、その大小と体制のいかんを問わず、おびただしい死体と息づきあえぐ人間身体をどこまでも隠蔽する政治的装置である。戦争を発動してさえそうなのだ。殺した人間の数と殺された者のむごたらしい姿態に一般の想像が及ばないように仕組み、あげく殺戮そのものがなかったかのように振る舞うのだ。

  332. 僕はいつも力説しているのですが、状況の危機は、言語の堕落からはじまるのです。丸山真男は「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリストの転向からはじまる」と書き、歴史が岐路にさしかかったとき、ジャーナリズムの言説がまずはじめにおかしくなると警告しました。「決壊した民主主義の堤防」

  333. いまさら発見ともいえないごく当然の事実に気づいて動転することがある。世界とは、ときに、当方の迂闊な目によってのみ見るにたえる、胡乱きわまりないなにかである。もし迂闊でなければ、爛々たる狂気に照らされて、こちらは全身わななくばかり。「再びテーマについて」

  334. ふり向かせてはならない。背の哀れをこそいとおしむのだから。死者も棺にうつぶせに休ませる。新聞は人の背面写真のみ掲載する。言葉の根腐れたこの国では、しばらく舌も口も隠したほうがいい。そして、失われた言葉への弔鐘を背に聞くこと。 「背面について」

  335. 私がいま感じているのは、いわば、鵺のような全体主義化である。そこには凛乎たるものが何もない。右も左も慄然としないことをもって、主体が消え、責任の所在がかくれ、満目ひたすら模糊とした風景のままに「いつのまにかそう成る」何かだ。 「言葉と生成」

  336. わたしはずっと暮れていくだろう / 繋辞のない / 切れた数珠のような / きたるべきことばを / ぽろぽろともちい / わたしの死者たちが棲まう / あなた 眼のおくの海にむかって / とぎれなく / 終わっていくだろう 「眼のおくの海」 

  337. 「それぞれが別のものである何かの葉は、すべてがまぎれもなく何かの葉なのである」。昨日もおなじところを読んだ。心にできた角質層が、利いたふうなことばを今日もはねつける。本を閉じる。ことばはもう揮発している。 「おばあさんと若い男」

  338. 黒っぽい「なにか」がやってくるとずっとおもっていた。それはどこからかひたひたと近づいてきて、それまで伏せていたからだをある日にわかに後ろ足でぐわっと立ち上げ、両の手を宙におもいきりひろげておぞましい姿をあらわすであろう。そんな予感とともに生きてきた。「『なにか』がやってきた」

  339. 彼女の思想は、口とはうらはらに、国家幻想をひとりびとりの貧しくはかない命より上位におき、まるで中世の王のように死刑を命令し、じぶんが主役の「国家による殺人劇」を高みから見物するのもいとわない、そのようなすさみをじゅうぶん受容できる質のものであっただけのことだ。「鏡のなかのすさみ」

  340. 自らサインした死刑執行命令書により、その朝、刑場で二人の男がくびり殺された。千葉さんはそれにわざわざ立ち会った。ロープが首の骨をくだく音を複数回耳にし、四肢がひくひくと細かに痙攣するのを眼にもしただろうその足で、あでやかに記者会見にのぞんだ千葉景子さんは全くたいした人ではないか。

  341. 車両のはしの「お体のご不自由な方」用のシートに私はすわり、川面を感じようと足の底に神経をあつめながら、眼はもうじきはじまる光の乱舞を予感している。電車にせよ船にせよ、川をわたるのが好きだ。 「吐く男とさする青年」

  342. かくして私たちは狂っている。そんな大それたことはだれも大声ではいったことがない。だから、そっと小声でいわなくてはならない。私たちはじつは狂(たぶ)れているのである。「私たち」といわれるのが迷惑なら、いいなおそう。この私は、かなり狂っている。自信をもって正気とはいいかねるのだ。

  343. 歩くのが非常に不自由になり、右手を使えなくなっただけでなく、身体が意思にさからってアメのようにねじれるような、右半身がいつも引きつったような感覚なのです。脳の視床下部にダメージがあって、つねに〈偽の感覚〉にさいなまれている。(略)ああいう状態に手足がいつも麻痺しているわけです。

  344. 誤解を恐れずにいえば、ぼくは六十数年間生きてきて、いま、鬼気迫るほどにね、興味深い世界がきているとおもうのです。鬼気迫るほどに、足がすくむほどに怖いこの時代に、どう生きればよいか、自覚的な個であるとはどういうことなのか。 「人智は光るのか」

  345. たとえば、競馬、競輪、競艇、パチンコ、FX(外国為替証拠金取引)…とそれらのテレビCMに犯意はありません。詩人が生命保険をほめたたえるCM用の文章をつくり、テレビが連日それを善面をしてたれ流す。問題ないといえばそうかもしれませんが、怪しい。かぎりなく怪しい。

  346. 世界にはもう現在がない / 世界にはもはや思惟する主体はない / 世界はなにも包摂しない / 世界はなにも内包せず / なにものにも包摂されていない / 主体はもうない / ことばは徒労の管足系として / 無為全般を司る / 世界はしたがって ない 「フィズィマリウラ」

  347. 人間の存在価値というものが、オーバーでもなんでもなく単なる支払能力と等値化されてしまった。金がなくなればガンでもなんでも病院から出されちゃう。(略)結局、おびただしい貧困者の群れは、まだ見たこともない新型ファシズムの大波に呑まれていくのかもしれない。「われわれは狂いつつある」

  348. それはなぜだか似ていた。/ ヒロシマの小学校に。/ 子どもたちがそれぞれの影になって / 石や鉄にはりつけられた / そのときの無音に。 「それは似ていた」

  349. 鉢虫類は意識も記憶も もちあわせないから / 透明に / ただただようだけ / そうきめつけてきた 過誤 / それだから大波が不意にきた / ミズクラゲは千年もまえから / なにか告げていたかもしれないのに / ばかにしてきた 過誤 「還魂クラゲ」

  350. 私たちはあまり多くのことを思わないほうがいいとされるような時代に生きています。テレビや新聞は日々われわれに「思うな!」「考えるな!」といいきかせているようでもあります。あまりに深く、多くを思うと、生きること自体辛い時代です。むしろ、だからこそ「思え!」は大事ではないでしょうか。

  351. うがったことをいえば、戦争の実感を知らせず、戦争を嫌悪させないようにする意図がどこかではたらいているのかもしれない。つまり、爆弾の下には常に柔らかで壊れやすい人間の身体があるという実感が日々に奪われているのだ。 「破片」

  352. 戦後一貫していわれているのは、「新聞記者の心が良ければメディアは良くなる」式の薄っぺらな心情論。つまり心が正しければ報道が良くなるというやつね。それはちがうな、とぼくは思いますね。事故解析能力がなさすぎる。 「マスメディアはなぜ戦争を支えるのか」

  353. 社会心理学者らによれば、二十一世紀現在の人々は、世間がいまなにを考えているか、なにが支配的傾向かについて昔日よりはるかに敏感になっているという。裏をかえせば、人々はかつてよりよほど「社会的孤立」を怖れているというのだ。「沈黙の螺旋」

  354. 核燃料が融点を超えて溶融する事故は、「炉心の一部損傷」と同義ではありません。メルトダウンの定義どおりにきわめて重大な事故が起きていたのに、その事実は長く報じられなかったのです。「心の戒厳令」

  355. 三陸の浜辺に夜半、打ち上げられた屍体があった。それは首のない屍体であったり、手足や眼球をなくした屍体であったり、逆に首だけの、胴だけの、片眼だけの部位だったりする。それが真っ暗闇の浜辺に何体も何体も打ち上げられている。 「死の深み、死者への敬意」

  356. かつて、地震というものは、最大級でも、この程度までしかなかった。従ってそれ以上は想定しないですむ、というのは、データ主義からきた、不遜な行為でした。それは著しく反省しなければいけない。大自然はそんなものではありません。 「入江は孕んでいた」

  357. 故郷が海に呑まれる最初の映像に、わたしはしたたかにうちのめされました。それは外界が壊されただけでなく、わたしの「内部」というか「奥」がごっそり深く抉られるという、生まれてはじめての感覚でした。叫びたくても声を発することができません。ただ喉の奥で低く唸り続けるしかありませんでした。

  358. つまり、憲法とは国家が市民を縛るものではなくして、市民が国家を統御し縛るためのものなのではないか。憲法の大きな目的の一つとは、市民に国家からの自由を保障することではないか。「憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート」

  359. 米国は建国以来二百回以上の対外出兵を繰り返し、数限りないほど他国の政権の転覆工作にかかわってきました。そして原爆投下をふくむそれら歴史的軍事行動のどれについてもおよそ国家的反省ということをしたことのない国です。米国こそが最大級の「ならずもの国家」なのです。「『公憤』の形成と利用」

  360. 夢を見ました。トンニャットの前のゴークエン通りが真っ黒になるほどネズミたちが、つぎからつぎにホテルの回転扉からでてくるのです。大移動を開始したネズミの群れの一番先頭を、髭をピンと立てたあの赤鼻のネズミがいばってあるいていました。全員、まっ青の目をしていました。「毒薬」

  361. 戦争につながる一切のことにつよく反発するのは学生、教職員の権利どころか「義務」でもあるのです。戦争に反対しないような大学、それどころか好戦派にその宣伝の機会を積極的に与えるような大学、「国家からの不自由」「国家への屈服」を実践するような大学にはいかなる存在理由もない。 「抵抗論」

  362. あの歌の詞を私は好まない。(略)まつろわぬ者への暴力をほのめかすような、あのドスのきいた音階が不気味だ。そのことを、おそらくゲルギエフは知らなかったにちがいない。ゲルギエフ・ファンの私としては、正直、少しばかり失望もしたのだけれど、彼にはなんの罪もないのである。 「オペラ」

  363. 私はやはり、Mたちの選択にくみする。すなわち、暗い樹林の底に身も心も沈めて、ああいやだ、ああいやだとあの憂鬱な歌の終わるのを首をすくめて待つほかないのである。かたくなにその姿勢をとるのは、だれのためでもない、自分のためだ。自分の内心の贅沢のためである。 「オペラ」

  364. ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、よく見ると、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも表面は深刻を気取り、リベラル面をしている記事や番組にこそ、めぐりはびこっている。撃て、あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる。 「有事法制」

  365. たくさんの犬の遠吠えを聞くともなく聞いているうち、眠りに落ちた。意識はすみからすみまで冴えているのに、風景がときおり、水のなかの絵のように、ゆらりとたわんだり色を滲ませたりする。私はカブールのダーラマン宮殿前の廃墟を歩いている。 「カブール」

  366. でも、私は誰より静けさが好きだった。寡黙で静謐な人間を好んだ。大声で話す好人物よりもいつももの静かな連続殺人犯のほうがよほど好ましいと思ったこともある。おめく自分を誰よりも軽蔑していた。医師に声帯を抜いてもらおうかと考えたことだってあった。 「自分自身への審問」

  367. 病葉のあわいに漂う闇、あるいは葉と葉の間からふと眼にした闇の深み。もはや、うつつにはいないのだという寂寥と不可思議な澄明感ーーそうしたものは当然ながら言葉も気配も検査室にはかけらもない。あるのは、生でもなければ死でもない、闇でもなければ真性の光でもない、無機質な機能だけなのだ。

  368. そうしたら、今度は癌だときた。私は再びわが身に問うている。運命の過酷さについてではない。病がことここに至っても改憲に反対するか、と問い直しているのである。不思議だ。脳出血で死に目に遭った時よりよほどはっきりと「反対だ!」と私は言いたいのである。 「楽園にはもう帰れない」

  369. 足下のやわらかな土中で屍体たちが低くハミングしている。それぞれ半孵化の雛を口に銜えさせられたまま。ああ、半孵化の言葉たちよ。半孵化のうそたちよ。言葉に腐乱する屍体たちよ。それらが蒸れて埋まっている閾の森を、私は歩く。かかとでぐしゃぐしゃ顔を踏みつけて。 「閾の葉」

  370. 非受益者層と受益者の落差、ひずみが酷くなって社会が闘争化していく現象は世界中で起きている。 好むと好まざるに関わらず人間がどこかで余儀なく行動に訴える時期というのがあるのではないか、そういう契機があるはずだと僕はどこか期待を込めて思っています。このまま眠っているわけはないだろうと

  371. そうこうするうちに3月11日の奈落はまるでなかったかのように塗りかえられ、テレビからはまたぞろばか笑いが聞こえてきている。(略)テレビはバラエティショーおなじみのタレント弁護士を売りだし、チンピラ・アジテーターにすぎなかったかれをヒーローにしたてあげた。「破滅の渚のナマコたち」

  372. あなたは加害者に肩入れするばかりではないか、といわれそうです。そうではありません。私は犯罪被害者および遺族の方々の限りない悲しみ、苦しみを軽視するつもりなど毫もないのです。ただ、それを死刑制度存置に直結させていく発想は完全なまちがいであるといいたいのです。 「永山則夫の処刑」

  373. 私は死刑制度に反対する文章を何度か発表したことがあります。こちらにはさっぱり反響がないのに、ペットの殺処分には皆が涙を流すのです。じつに不思議な国だなぁと私は思います。 「殺人の抽象化」

  374. メディアが絶賛するような政権ができても、かならず悪口を書く。 それがわたしのような作家の責務だし、表現者の根性というものだと思っています。  「政治の右傾化と人間の『個』」

  375. ぼくは散りゆく桜をただ一方的に見ていたのではなく、空も眼も霞むほどの花の舞いに脳裏は茫茫とし眼は魅入られ、さらに言えば、目眩く落花の光景の一隅に、真実、果てかかったぼく自身を見ていたのかもしれません。 「死に魅入られて」

  376. 世論はいま巧みに繰られ誘導されています。マスコミはしきりに当局のお先棒を担いでいる。メディアは住民側に立った監査役ではなく、権力に飼いならされた権力の為のウォッチ・ドッグ(番犬)になりさがった。「メディアが戦争をつくる。戦争がメディアをつくる」というけどますますそうなる気がします

  377. わたしはカヤネズミの眼に問うた/やつぎばやに/ー洗われているのだろうか/ーながされているのだろうか/ー壊されているのだろうか/ーこれは<後>なのだろうか/ーこれは<前>なのだろうか/カヤネズミはキキと笑って角膜のむこうにながれていった/ガラス体が水でいっぱいになった

  378. そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。 いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。

  379. 男は気圏のはるか外に浮かんでいるようであった。もう三十数年間も青い気圏の外をひとりでゆっくりとまわっているのだ。この世のすさみに染まることもなく、死んだ宇宙飛行士のように地球の外をまわらされているのだった。忘れられた、ひたすら忘れられるためにのみある、ひとつの白い花として。

  380. 視線を落とし、私は私の影を見てみる。透明なボーフラどもほどではないにせよ、私の影もだいぶ黒みが薄れてきた気がする。むしろ、だからこそ撤回すまいと思うのだ。「いま、抗暴のときに」といいだしたその発意を、この満目漂白された惨憺たる風景のなかでこそ断じて翻すまいと誓う。 

  381. アジテーターたちは、ほらほら、よく見るがよい、芝居としても鼻が曲がるほど臭く、顔はもはや醜怪そのものである。  「いま再びの声の時代」

  382. マスコミもそうだけど、本当に生きた爛々とした目なんかどこにもない。内面が壊れたのです。みなテレビキャスターみたいに芝居がかり、嘘くさい。人びとの顔貌、目つきが最近ますますおかしくなってきている。閉塞と簡単に言うけれども、じつは狂気ではないのかなと思うね。「われわれは狂いつつある」

  383. 演ずべき役がらはもうない / まだ演じてないのは死体だけだ / わたしはすでに離魂されている / わたしはもうわたしの躰を見ない    「身体醜形恐怖症」

  384. 誤解するな。逝く者のかんばせに死相などない。あれはやすらぎなのだ。気魂はかつてなく凪いでいる。おぼろな牡蠣色の仮象にやわらかにつつまれて、安息の海がさほどまでかぎりなく眼前にひろがっているからだ。もっとも生き生きと生きる者の皮裏の暗面にこそ、ぞっとする死相の分泌がある。 「死相」

  385. でもあんた、椿なんか食うなよ。今度は声にしていってみた。 すると酔いどれた野宿者は、ひび割れた唇の両端に花びらを張りつけ、目尻には涙を溜めたまま、石をこすりつけたみたいな声音で応じるのだ。 おめでとね、あけまして、おめでとね。   「花食む男」

  386. 先日もかたづかぬ思いのまま散歩を折りかえした。道々、ある詩人の年譜の一行を思い出した。死去前月の記録はたしか「酒量さらに増し、失見当識顕著になる」であった。よくいわれる横文字の病名よりも「失見当識顕著」のほうが、洋燈とおなじように、私には深く響く。「絵入り洋燈と観覧車」

  387. もしもわれわれの日々のいとなみと永田町の政治が真にわかちがたく結びついているとするならば、安倍晋三氏の首相辞任表明は、喩えてみれば、原発におけるメルトダウン(炉心溶融)なみの一大衝撃であるはずであった。あの唐突な辞意表明、辞任理由の支離滅裂、政権全体の周章狼狽ぶり.. 2007

  388. 私は荒野をいく一条の黒い列であった。列はうすれゆく記憶の粗い縫い目であった。列は箱を運んでいた。箱は棺だった。箱には窓がなかった。なかで私が裸でうつぶせていた。私は蒸れてくされていた。  「箱」

  389. あぶない病気になり病室でよこたわっているしかなかったとき、こころにもっとも深くしみたのは、好きなセロニアス・モンクやマイルスではなく、好きではなかったチェットの歌とトランペットであった。 最期にはこれがあるよ、と思わせてくれたのだ。 「”うたう死体”チェットの奇蹟」

  390. 「世界の涙の総量は不変だ」。ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。いま、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増えつづけているかもしれない。 「人の座標はどのように変わったか」

  391. 私はだれもが口をそろえて正しいとすることを、たぶん、であるからこそ、いぶかしみ、はなはだしくは憎むという長年の悪い癖がある。だれもがゆるやかに認めざるをえない中間的で安全なゾーンに隠れ逃げこむ詩や思想を、であるからこそ、私はまったく信じない。 「破局のなかの”光明”について」

  392. この世界では強者の力がかつてとは比べものにならないぐらい無制限なものになりつつある。一方で、弱者が、かつてとは比べものにならないぐらい、ますます寄る辺ない運命におとしいれられている。そうなってきた。富者はますます富み、貧者はますます貧しい蟻地獄に落ちていく。「価値が顛倒した世界」

  393. 問題は、むろん、NHKだけではない。この国の全域を、反動の悪気流が覆っている。日常のなにげない風景の襞に、戦争の諸相が潜んでいる。人々のさりげないものいいに、戦争の文脈が隠れている。さしあたり、それらを探し、それらを撃つことだ。  「加担」

  394. ごく稀な例外を除き、新聞の社説というものが発する、ときとして鼻が曲がるほどの悪臭。読まなくてもべっして困ることはないのだし、中身のつまらぬことはわかりきっているのだから、いっそ読まずにおけばいいのだけれど、ひとたび向きあってしまえば、かならず鼻につく、独特の嫌み、空々しさ、偽善。

  395. かれがかれであるとついに同定されることになるのは、かすかな望みであった。 いったん同定されてしまえば、新たな苦しみがはじまる。 わたしはそれをうっすら予感している。 無限の孤絶は凄絶な苦しみであるとともに、うつつの時間という絶えざる腐爛をまぬかれるための、皮肉な救いにもなる。

  396. 腹話術師も死んだ。くぐもった声を/海原にのこして。 その顔の砕けた涙骨が、/牡蠣飴屋のうらの空き地に/ひとしれずうちあげられた。 六月、/涙骨のうえに/ムラサキ科の/五弁の花が/やかましいほど/たくさん咲いて、/だれかの声で/うべなうべなと/うたった。 「腹話術師の青い花」

  397. しずかに長い髪を梳いた / スイースイーと音がした / 夜を梳いた / 髪が海に流れ / 海はすべての / 死者の夜の / 内部となってながれた     「髪梳く」

  398. いま格差というけれども、もともと本当に平等があったのか。 じつはなかったとおもうのです。ベーシックな差別というのは非常に古くからあった。いま必要なことは、繁栄を取りもどすことではなく、新しくなにかをつくることなのです。 「無意識の荒み」

  399. ならばいっそ「暴動」は起きたほうがいい。見わたすかぎり眩く明るい闇を破り、本来の漆黒の闇たらしめるために、試みにいっちょう大暴れしたほうがいい。顔を醜く歪め、声を思いっきり荒げて、これ以上ないほど整然とした街を暴れ回ったほうがいい。 「自分自身への審問」

  400. この国の全員が改憲賛成でも私は絶対に反対です。世の中のため、ではありません。よくいわれる平和のためでもありません。他者のためではありえません。「のちの時代のひとびと」のためでも、よくよく考えれば、ありません。つきるところ、自分自身のためなのです。 「いまここに在ることの恥」

  401. つまり / 誤りのために / すべてを賭す気があったか。 言ったかぎりのことを / 一身に負う気組みがあったのか。 殺る気はあったのか。 その問いに幾たび / 蒼ざめたか。 骨まで蒼ざめたか。 後ろ影が遠ざかる。 はるかに遠ざかる。 闇に空足をふむ。「残照」

  402. 小径の端に佇み行列を眺める私Yは / じつのところ / 口のなかにまだ黄身の割れていない / 生卵をひとつ含んでいる   「黄身」

  403. おびただしい死者たちは、それぞれの声を彼の世にもっていきはしなかったのである。声は結果、水中や瓦礫の原に、耳やかましいほどにとり残されてしまった。ごくまれにそれらの声を聞きに海際の瓦礫の原を訪う。月夜がよい。友らの声がキノコのように繁茂しているから。 「声の奈落」

  404. わたしはすでに死んでいるのではないだろうか。死んで瓦礫の原をさまよっているのではないか。この世はもう滅んでいるのではないか。また、こうも思った。わたしはわたしの骨を踏んでいるのではないか。カシャカシャいう音は、死んでなくなってしまったわたしがたてている非在の響きではないのか。

  405. 東京にはいま、その闇がない。つながれる暗がりがない。夜がほぼ完璧に抹殺されたからだ。まばゆい光線が遠慮も会釈もなくすべてをさらしつくし、人がそれぞれ体内に密やかに溜めていたい自前の闇さえ、光に侵されつつある。人々は、だから、狂うのではないか。 「闇に学ぶ」

  406. 新聞、テレビの垂れ流すいわゆる情報は、改憲をめぐる一連の動きが本質的に災いしつつあることを教えない。このぶんだと人々はクーデターが起きてさえヘラヘラ笑っている可能性なしとしないだろう。 「五月闇」

  407. 悪が悪として見えない。 悪はおそらくもっとも善のかたちをとって立ち現れているのだと思う。 とくにメディア。その集団性のなかにぼくたちは隠れることができる。 わかりやすいメッセージだけ探ろうとして、ものごとを単純化する。 テレビの作業はほとんどそうです。 「無意識の荒み」

  408. 思えばむごい夏ではないか。 塀のこんなに近くにも、時計草や白粉花や立葵やカンナが咲き乱れて、烏揚羽は光に黒い粉をきらめかせ、亀は亀とて、生あくびしながら甲羅干しだなんて。 さなきだに、この狂おしいばかりの蝉時雨。 「骨の鳴く音」

  409. ただ、よく考えてみれば、われわれはあのような者どもを税金で多数飼ってやり、贅沢な生活をさせてやっている。いや、逆に、われわれはいつしか彼らに飼われ、ほしいままに扱われ、繰られ、もてあそばれている。 そのことは恥ではないか。 「いまここに在ることの恥」

  410. わたしの死者ひとりびとりの肺に / ことなる それだけの歌をあてがえ / 死者の唇ひとつひとつに / 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ / 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを / 百年かけて / 海とその影から掬え「死者にことばをあてがえ」

  411. ★管理者から… BOTの上限になりましたので、以降は4時間毎の反復になります。随時更新の予定です。 辺見庸の言葉が貴方の「独考・独航」の指標となり道標となりますように。

  412. アジテーターはすでに発せられた過去の声を、いま再び発するというわけだ。あるいは、かれらは過去にはたらきかけられて、いま発声しているのである。声が運ぶ文脈も過去からそう変わっているわけではない。無神経で無内容、強圧的で狂信的。つまり、相変わらず愚かなのである。「いま再びの声の時代」

  413. 樹皮はカメレオンの皮膚のようだった。体色を変えるもの。光を反映するもの。斑のうつろい。わけなどはない。名状の仕方を考えることもない。樹皮で光がゆらゆらとうごいていた。それだけでじゅうぶんではないか。哀しむことも悦ぶことも言葉をてらうこともない。事実とも錯覚とも決めることもない。

  414. 私の痛みから他の痛みに橋を渡し、他の痛みから私の痛みにかえってくるもの。それは主体的な疲労、あらかじめ不可能な結果をはらんだ主体的な無駄ともいえるかもしれません。けれどもその主体的な疲労こそが愛なのではないかと私は思うようになった。「私の痛みから他の痛みへ」

  415.  他とどうちがうのかと、このたびは考えた。 あまりに私的に暗い孔をうがちすすむために、執筆というより、それは純粋な犯罪に近い。いや、疲労度からいっても、執筆というより、それは犯罪そのものだ。犯意があるのだし。(2011/11/11)

  416. わたしは狂者の錯乱した暗視界の奥から、いかにも正気をよそおう明視界の今風ファシストどもを、殺意をもってひとりじっと視かえすであろう。晴れやかな明視界にたいする、これがわたしの暴力である。

  417. ともあれ、かねて予感していたものがついにやってきた。それは言いかえれば、狂気がどんなものでありえたかがわからなくなる日であり、それがまさに現在である。ことここにいたって抵抗などという、そらぞらしいもの言いをする気はない。

  418. わたしはそれとなく待っていたのだ。いまもそれとなく待っているのかもしれない。世界のすべての、ほんとうの終わりを。目路のかぎり渺々(びょうびょう)とした無のはたてに立ってはじめて、新しい言葉 ー 希望はほの見えてくるだろう。

  419. 自分の記録を残すということは絶対にいやなのです。年譜を書いてくれといわれたことがあったけれども、すぐに断った。年譜なんて恥ずかしい。ぼくが望まなくても残るものは残るのです。  「年譜や碑文はいらない」

  420. わたしは手さぐりでつたない詩作をつづけております。おきすてられてしまったことばをひろいあつめて、すぎてゆく風景を追いかけるようにしむけております。それがなにも甲斐のないことにせよ、わたしはいま、なにも甲斐のないことだからこそ、のこされた体力をついやしたいとおもうのです。

  421. 私は息がとまるほどおびえた。紙片は次第に増えていき、幾枚も幾枚も水羊羹色の宙を私の顔の方にひらひら舞いおりてくるのだ。口のなかで舌が牛のそれのように膨らむ。悲鳴をあげたいのだがもう声がでない。私は死んだ唖の汽船の舳先の下で紙吹雪を見あげている。白い紙はいつまでたっても着水しない。

  422. 何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか、それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意さえ抱いたものです。「狂想モノローグ」

  423. 含み笑い、冷笑、譏笑(きしょう)嗤笑(ししょう)憫笑(びんしょう)…。くっくっくっ。ふっふっふっ…。この国では人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると恐らく誰が教えた訳でもなく戦前から続いている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い笑いが聞こえてきます。

  424. 老いると総じて不機嫌になるわけがこの頃わかってきた。風景を若い時のようにまっさらなものに感じなくなるからだ。驚きと発見が減ればへるほど老いは深まる。現前する事どもを既知の景色、あらかた経験ずみのことあるいはそのバリエーションとしか思えなくなる時、人は(略)心が錆びつき不機嫌になる

  425. ぼくはあらゆる機会をとらえて侵略戦争反対と自衛隊派遣の不当性を主張し表現してきました。別に正義漢ぶってそうしたのでなく、不正義が最も露骨な形で実行されていたから面倒だけれどやむにやまれず反応しただけです。(略)ぼくはあくまでぼく一人の責任と発意で異を唱えたかったのです。

  426. 珊瑚樹のいけがきをあるいて / 珊瑚樹にささやかれる / おまえは あらかじめ気圏にとびちれ / みえない微塵になれ / 屍よりももっとむなしい非在になれ / うたえ / サンゴ キサンゴ スイカズラ「珊瑚樹のいけがきをあるいて」

  427. 北朝鮮は悲しい。地獄のような朝鮮戦争がおきたとき、これぞ日本の経済復興にとって「天佑」だといって相好くずしてよろこんだのは当時の吉田茂首相だけではない。おおかたの人びとが戦争特需をもろ手をあげて歓迎し、米軍の爆撃機が連日、日本から発進していくのにこれといった反戦運動もなかった。

  428. この国の政治家の多くは中国や朝鮮半島を〈見る〉ときに〈見られている〉事をほとんど念頭に置かない。記憶でもそうですね。われわれの記憶の帯(おび)の短さをアジアの他国にも勝手に適用してこちら側の記憶領域を軸にものごとを判断しようとしている。いくら何でももう忘れてくれているだろう、と。

  429. 特に、拙いながら書いてきたことについては、さしあたり大きな修正の要をみとめることができません。自身の傲岸、過信、衒いを憎むけれども、いささかの頑迷は、この現世にあってはいたしかたなかろうと申し上げておきます。ぼくはこの先も、なにがしかのことどもを書くでしょう。「心の喪明」

  430. というふうな取材をしたら、その段階ではくそみそに言われるよ。会社からも余計なことするなって言われる。誰もかばいはしない。ますますそういう時代になってきている。でもいまぐらい特ダネが転がっている時代はないと思うよ。権力がいい気になって調子にのっており、わきが甘くなっているからね。

  431. 水のきらめきに眩めいて、刹那、はたと思いいたったのは、なぜだか言葉の不実だ。貧寒とした、私の言葉の洞だ。贋金のように安っぽく光る言葉の表皮だ。深山の、これこそ水の教えである、とひれ伏すほど私は素直ではないから、ふふんと笑ってみたら、水面の男の顔は波紋に割れ散らばった。「森と言葉」

  432. 一生懸命額に汗して働けば何とか生きていける時代はとっくに終わっている。富裕層は富裕層、貧困層は永遠に貧困層だ。階級闘争なんてどこにもない。ごく散発的に痙攣の様な発作の様な暴動がおきるだけである。参加者は「反社会性人格障害」に分類されて病院でポラノン系の注射をうたれる。それで凪ぐ。

  433. 九条とか憲法とかが抜け殻のようになってきた。これではまるで偽善者のお飾りです。それでも俺は九条を守るべきだと思う。憲法を俺は現在も有用であると考える。自己身体を入れこんでそう思う。同時に、有用なものを実行することができなかったのはなぜなのかと問う。「虚妄に覆われた時代」

  434.  黒ほど多彩な色はない。セロハンのように軽い黒から、銅の煮黒(にぐろ)めのように重い黒まで、千態万状の黒がある。それらのなかで、最も心的で、セクシーな黒はどれであろうか。やはり、闇の黒なのだ。できれば、その黒に、熟れに熟れたパパイアやパラミツのにおいがたっぷりと染みているといい。

  435. いつかまた、こうやって硬ゆでの卵をポクポクと食う夜がやってくるだろう。いくつものゆで卵を食って、やがて俺も死に、俺の死んだその夜も、どこかで誰かがポクポクとゆで卵を食うのだろう。そいつもしみじみと、ああ、今夜生きているなと思うのだろう。それでいい。「ゆで卵」

  436. 朝鮮人の傷痍軍人や軍属たちに支給されていた障害年金も一方的理由でうち切られ、彼らはすさまじい差別と困窮のなかに投げだされる。朝鮮人傷痍軍人らは窮状をうったえ救済をもとめるデモンストレーションをする必要があった。駅頭の白衣の兵士たちの多くはそのような背景をもつ朝鮮人であったという。

  437. 駅前に異様な男たちがいた。(略)男たちはたいてい痩身に白衣をまとっていた。多くは金属や革でつくった粗末な義足や義手をつけているか松葉杖にたよっていた。義足も義手もつけず、茶色のこぶ状になった手足の切断面をむきだして、地べたに座るというよりごろりと置かれた男もいた。「消えゆく残像」

  438. 多少、ブレも乱れもなくはない航跡を振り返り、私は生来のだらしなさを忘れ、いまさらのように自問するのである。記憶と言葉への責任ーそれは、ひとりで航海する者の最低限の作法かどうか、記憶と言葉に果たして時効はないものかどうか、と。「独航記・あとがき」

  439. 子供のころの夢は作家になることでも記者になることでもなくて音楽家になることだった。作曲家というのでなく演奏者、それも場末の闇で雨に濡れた犬のように惨めな目をして曲を奏でている、なんとか弾きといわれても、なんとかイストとは決していわれないような男がいいと思っていた。「銀色の夢の管」

  440. 入江は無のけわいであり、なにかのなごりであった。そのかぎりにおいて実体とはいいがたかった。入江にはつねに重力異常があった。標準重力からかなりはずれていた。空間がふいに重るのだった。入江はときおり、音ではない音、声ならぬ声を、水底から水面へと吐きあげた。「赤い入江」

  441. 「放射能?ぜんぜん問題ないですよ。ここの食品はすべてキエフから運んでますから」原発30キロ圏の野菜、果物などは絶対使っていない、と陽気な女性食堂長のリリヤが真っ白な手を大仰にふって言う。「この建物もだいじょうぶ。事故のあと二、三ヶ月かけて汚染除去作業をしたから」「禁断の森」

  442. 北京は雨と薄汚れた空気に煙っていた。空港から高速道路で都心に向う途次林立する高層ビルを眺めていたら不思議な既視感を覚えた。映画『ブレードランナー』の情景と重なったのだ。環境の悪化で人類の一部は地球外の宇宙に脱出し地球に残った人々は人口過密の高層ビル街で劣悪な生活を強いられるシーン

  443. 貧しく弱い者たちに真実よりそい、権力や資本や栄誉を静かに、しかし、きっぱりとこばむ人物は、おおかたわれわれの視界の外にいる。彼や彼女らは恥を知っている。称賛をよろこばない。組織を代表しない。まったくの個人である。寡黙であり口べたである。ただ魂が底光りしている。微光として。

  444. 食うにも困る様な収入しかなくなってきているのに何故か世の中全体がそのつらさというものをコーティングしてしまう。塗料で塗り固めてしまう。主にマスメディアが資本の潤滑油みたいになっているから、見ている側もメディアがこれでもかこれでもかと浴びせてくる虚像の世界を実像だと錯覚してしまう。

  445. その底にはアメリカ型のグローバル化を進めてきた人達、あるいは金融資本主義というものをよしとして、それが経済社会の活力になるのだと盲信してきた人達の責任がある。それを宣伝してきた政権にも責任がある。それを天災のようにいって天災には責任が問えないからと考えるのは間違いだと僕は思います

  446. アメリカでは小学校から投資の仕方を教えている、だから日本もそうやったほうがいい。その中で勝ち組、負け組というものが決まっていく。それが資本主義の活力というものだという様な報道をテレビだけではない、新聞でもやりました。ハイリスク・ハイリターンが人の勇気の様に語られたりもしました。

  447. 一方で、世界とその日常への嫌悪はますますつのる。絶縁したいと思う。鞏固(きょうこ)な無関心を、死に赴く犀の沈黙のように、あくまでつらぬきたい。だがとても無理だ。死に赴く犀の沈黙を夢見ながら、私はなお黙すことができないでいるだろう。死に赴く犀の沈黙よ。「自問備忘録」

  448. オイルショックの1973年に観た『仁義なき戦い』の菅原文太、松方弘樹、金子信雄の目つき腰つきには喧嘩慣れした者達の不逞でいやに用心深い気配があったものだ。前年に浅間山荘事件がありその前年には動員警官2万5千人デモ隊三万人という成田闘争があった。目つき腰つきに留意する時代だったのだ

  449. みなと一緒に安息をえようとしてはならない。みなとともに癒されてもならない。他とともに陶酔するな。他とともに変質するな。他とともに変色するな。唱和するな。号令に応じるな。気息を世界に合わせるな。記憶を彼らに重ねるな。リズムを合わせるな。声調を合わせるな。語法を合わせるな。「垂線」

  450. 私が脳出血で倒れた時の事だが、ふと眼が覚めたらもう桜の季節になっていた。目覚めたとはいえ意識が又とぎれていく感じをまだよく覚えている。それが何とも頼りなくよるべなくひたすら孤独だった。車椅子で外にでた時にはまるであの世とこの世のあわいに音もなく散りしく名残の桜のころなのであった。

  451. 表現をする人間、表現芸術をする者はだれもが、そのことに気づかなければならないだろう。虫を描こうが動物を描こうが、むこうも見ているぜということに。とりわけひとという生き物は、一方的に〈見る、撮る、表現する〉という特権行為にたいして、ときに歯むかうことがあるということに。

  452. まだベトナム戦争の時には、ナパーム弾落とされて服焼かれて子供が国道を裸で走っている有名な写真があったでしょう。(略)あの時は一日で米国も世界も動きましたよ。ベトナム反戦に向かってね。それは正しい動き方だと思うんだよね。それに涙するセンチメントというのをアメリカ人はまだ持っていた。

  453. 想い出をたぐっては、ひとりひとりの顔をなぞっております。ああ、寒かろう、つらかろうと毎日、毎夜、想います。これというわけもなく、逝った人びとを「あの死者たち」と総称したくない思いが最近、頭をもたげ、胸のうちでは「わたしの死者」と呼んでおります。「わたしの死者」

  454. 月に到達する技術がありながら、私たちはまだ、私たちがどこから来て、どこへと歩んでいるのかさえ知らない。市場原理を尊び、経済のグローバル化を語りながら、日々蔓延(まんえん)する心の病にはいまも打つ手をもたない。「私たちはなにを見なかったのか」

  455. たとえば特異な刑事犯罪のときの雪崩の様な取材方式は一向に改まる姿勢がない。容疑者の直接の関係だけではなくて、被害者宅も含めて数百人の取材記者たちが入れかわり立ちかわり押しかけていって、正常な生活を破壊していくというやり方を、情報消費者は面白がりながら慨嘆し、かつ怒っているのです。

  456. わたしはこの綿雲の下でぐっすりと眠りたいと思う。この空の下の赤い砂漠に行くのだ。(略)わたしはひとりで砂の崖を登ろう。意味のない砂の斜面を登れるだけ登る。歩くだけ歩く。歩くだけ歩いて疲れきり、横たわって夕陽を待つ。からだが朱にそまっていく。あまねく赤に目眩く。「3072日の幻視」

  457. ぼくらは一緒にずっと銀の鏡を見ていただけ / そうしたら / 鏡面がピリリと割れて / 水と火とたわんだ気体が鏡からふきだしてきただけ / 見たこともない水柱と瘴気が / 鏡のうらに回ってたしかめようにも / うらにはひとつぶのナンテンの実が / 水の椅子にすまして座っているだけ

  458. その問いは薄暗いところにあります。私の言葉でいえば、思考があゆむ前方、のばした手がやっと接触しかけたフロントラインに靄(もや)のかかる暗がりが無辺際にひろがっている。思考の薄暗い前線。できれば、そこに私はいたい。「〈不都合なもの〉への愛」

  459. 同居する犬が死んだら私はたぶん、さめざめと泣くであろう。しかし明朝だれかが絞首刑に処されたのを知るにおよんでも、悩乱をつのらせることはあれ、涙を流すまではすまい。私もまた悲しむことのできる悲しみしか悲しんではいないのだ。(略)犬と眼が合う。私はなごみ、同時にぞっとする。

  460. その青いバラを見たことがある。感想はひとことで足りる。悪趣味。青いバラは、どす青い死者の首だ。切れない竹光でむりやり斬りおとしたぎざぎざの斬り口のどす青い死者の首である。どす黒いどす赤いとはよく言われる。しかしどす青いとはあまり聞かない。でも、人工の青いバラはどす青い死者の首だ。

  461. 先日天声人語を読んで執筆者である記者の見識のなさにひどく落胆しました。それは金子光晴を絶賛した文章でしたが、日本の侵略戦争によるアジア諸国の陥落を歓喜とともにうたった金子光晴の詩を記者は読んでいない。金子光晴がそういった詩を戦後になって改竄しあるいは抹消したという事実も知らない。

  462. 躰によい天然水と偽って、弁舌さわやかに悪い水をくばり歩くのが政治ではないか。どのみちすぐにはバレやしない。バレたらいくらでもいいわけすればいい。善にせよ悪にせよ、水は透明である。すさみは透明に広がるから眼には見えない。悪水をくばる当人も、そのうちおのれのすさみに気がつかなくなる。

  463. たかだか数ヶ月の不在だったのに、世界の全てが一変してしまったように見えもはや僕の居場所はなくなったとさえ感じました。しかし最初に疑ったのは自身の事です。入院中に前頭葉白質かどこかを密かに手術されてしまったのでないか。だから世界の一切に気味の悪い変調を感じてしまうのではないか、と。

  464. 白ネコがきた。丈の短くはない草むらの上を涼しい顔でゆったり滑るようにちかづいてくる。ネコは緑の原にふわりと白く浮いていた。そのマジックのわけを私は知っている。ネコの足は草ごしにレールの上を歩んでいるのだ。置きさられた記憶の筋を、しなやかな四肢がそっとたしかめながら進んでくる。

  465. たぶんうがちすぎであろう。けれどもなぜか確信にちかく私はおもった。彼は横断歩道の私をつかのま自身の影とみたて、その影をひきたおそうと車をばく進させ、「死ね、ばかやろう!」と発作的にさけんだのではないか。私にではなく、おしなべてたちゆかなくなった彼自身への呪詛として。「交差点にて」

  466. 「する」ことをわざわざ「させていただく」と言うようになったのはいつからだろう。ファックする、ではなく、ファックさせていただくと言うことで事態がいったいどれほど改善されたというのか。「させていただく」は、およそこころの実をともなわない、無意味な悪弊である。「青い花」

  467. 大使のハグ・シーンが何度も映された。Qー見た、見た。まるで国務省の広報番組やったね。アメリカ大使館も大喜びだったやろな。対日広報予算数億ドル分の価値があったな。 庸ー石巻の僕の友人はひねくれものだから、憮然として言ってたよ「石巻がレイプされているみたいだ」って。僕はドキリとした。

  468. 事故から二か月もへてから、東京電力と政府はやっと燃料は三月時点でメルトダウンしていたと発表しました。マスコミは驚きあわてたかのように、一斉に東電や政府の “メルトダウン隠し” を批判しはじめます。このなりゆきにそらぞらしさを感じたのはわたしだけではないでしょう。「心の戒厳令」

  469. わたしはおそらく他の人よりは多くの戦場を見てきている人間です。中国とベトナムの戦場も見た。カンボジアの戦場も、ボスニアの紛争も見た。ソマリアの内戦も見た。飢えて死んでいく子どもたちも見てきました。いつも奈落の底で、自分一個の存在の無力を思い知らされました。「記憶」

  470. 「不幸なことに核保有と、国際問題に及ぼす管理能力とを同義語にした」のは「世界秩序の守護者を自任する諸国」であり国連安保理は「核能力を持つ国々の独壇場と化した」という。印パの核実験はそれへの挑戦でもあり「あの爆弾」を持つ事が「ステータスシンボルと見なされるようになった」と指摘する。

  471. 驚いたのは、この国で絞首刑が行われているなんて知らなかった、という手紙であった。私よりかなり若いと思われるその読者は「注射か何かと思っていた」のだそうだ。むべなるかな。マスメディアは「絞首刑が執行された」とは述べずに「死刑が執行された」とのみ伝えるのが普通だからだ。「背理の痛み」

  472. ひょっとしたらもはや言語さえ通じていないのに皆で何かが成り立っているかのようなふりをしているのが現在ではないだろうか。170年前の『経済学・哲学草稿』は言葉の最もよい意味で文学的でさえあった。それではいまブンガクってなんだろう。途方もなくおぞましい政治にそれは似てはいないか。

  473. 秋立つ宵のこと / 蒼穹を西の方によこざまに / 一個の生首が飛んでいった / 軍鶏のちぎれたあたまみたいな / 筋ばった人の首であった / 紺瑠璃の空を / 東から西へ / 首がわたりきるのに / 三分と四十一秒を要した / その間赤いものは / なにも滴ることがなかった

  474. かれ身障者四級、私二級。ともに躰に逃れられない痛みをかかえる。工藤さんの痛みと私のそれは質的に異なるのだろうけれども、厳寒の雪原をならんで半裸で歩いているようなおもいは、痛みあってのものであり、疼痛はたまゆら反転して熱い湯のような悦びになることもあるのだから、ひとというのは謎だ。

  475. 静かだった。小鳥の声さえなかったと思う。実際には、ほんの数秒間の情景であったろう。でも、私の記憶では、たった1シーンの時と空間が、永遠のもののように膨らんでいる。その数秒間、私の気はまるで永遠のように惚(ほう)け、幸せに霞(かす)んだからだ。「銀糸の記憶」

  476. 日本政府は、在日朝鮮人に国籍選択をみとめなかったため、在日の傷痍軍人や朝鮮人軍属の日本国籍もこの時点でなくなってしまう。「皇軍兵士」として戦争に駆りだし、使うだけ使って障害まで負わせて、戦後はホンモノの日本人ではないとして日本の庇護下から切りすてたのである。「消えゆく残像」

  477. これはおそるべき映像群である。ここにあるのは〈壊れゆく人間〉あるいは〈死に行く人間〉の諸相である。とり散らかした部屋、乱れた髪、曲がりきった腰、顔面に黒々と刻印されたしみ、無数に刻まれた深い皺、死の様な眠り、虚無の笑い、深淵をのぞきこむような眼…「死にゆく者の側から撮られた風景」

  478. 関東の「動物愛護センター」というところに行ったら、犬を殺して焼いているところでびっくりしたことがありますが、こういう実態と裏腹な名前のつけ方がいま蔓延している。かつての「サラ金」は、実質はさして変わっていないし、多重債務や自己破産が増えているのに「消費者金融」。

  479. 僕の目から見ると平成の天皇は本音では天皇制や「君が代」を嫌がっている様な気がする。その事をメディアは隠蔽している(略)相当の見識と批判的問題意識を持っているかもしれない。皇太子もね。でも誰もそれを支えないし制度から解放してあげようという人がいない。天皇一家の人権を考えようとしない

  480. そんななかで、突如 9・11が起きたのです。ことの本質が善かれ悪しかれ、自己身体を破砕してまで何かを表現しようとするテロリストがね。(略)で、死ぬ気で表現しようとする者に対し、死ぬ気どころか怪我するのも怖がっているようなオヤジどもが何を言ったって無効だなって僕は思っているんです。

  481. 2030年を一番近い破局の指標として、実際にはもっと恐ろしい予測がなされている。新しい細菌が出現する。生態系が完全に乱れる。台風やハリケーンの被害が極端化する。(略)寒い時には非常に寒くなる。暑い時には耐え難いぐらいに暑くなる。私達の日常というものはもはや耐え難いものになっている

  482. 「雨を見たかい?」という曲は日本のテレビのCMで使われました。(略)日本車のコマーシャルで使われたそうです。ベトナム、アフガン、イラクでの殺戮。死者。回り回って日本のCM。(略)それは、残虐な死の記憶を背負った曲でさえも、大企業の資本というものは平気で呑みこむということです。

  483. すきまなく善意だけでなりたつことを建前とする集団や組織、運動にときとして戦慄をおぼえるのはなぜだろうか。それらは黙契生成の温床ではないか。すきまない善意はおそらく死刑の存続を願わぬふりをして、そのじつ、こよなく願っているのではないか。

  484. ひきかえに、私は影を実体と、あるいは、実体を影といいつのる権利をえたのではないか。あの黒い森のはるかな際(きわ)を稜線であるときっぱり断言する神経をえたのではないか。さっき蹴躓(けつまず)いた根株を、切断された馬の首と、ただちに感覚する自由をあたえられたのではないか。

  485. それにしてもここは昏い。あまりに昏くて詮ない。「ディオニュソスは夜の闇のなかに姿を消したからこそ幸福なのだ」とグルニエは書いた。いまについても明日についてもおのれについても問わないことは幸せである。なにも問わずに、答えのない問いごと、この身体と心を溶暗すべきときがきた。「解体」

  486. 知的障害ーー私はこのことばをもっとも嫌う。だれが、脳裡の宇宙を精査したというのか。だれが、そんなことを決められるのか。なんにでも◯◯障害、××シンドロームといった病名をつけてこと足れりとするような、そんな世の中にいつからなってしまったのか。「〈見ること〉と〈見られること〉」

  487. 脳出血して躰が動かなくなって風呂に入れてもらうと、涙がでるくらいうれしい。こんな幸せだってあるのだなと感動しました。おそらくいくらも給料をもらっていないだろう女性が私を洗ってくれる。「頭痒くないですか?」といってやさしくしてくれる。(略)私にとっては至福の時間でした。

  488. でもたぶん末端で犬を焼いている人、あるいは末端で死刑囚の首に麻縄をかけている人物よりも、手を汚していないという点で、われわれはとても罪深いのだと思います。われわれは手のきれいな、無意識の死刑執行人ではないかと思ったりすることもあります。「殺人の抽象化」

  489. 状況が変われば東京はどうでしょうかね。(略)君たちはアフガンだからやってるんじゃないかと。その発想はおそらくイラクにも適用されるであろうし、北朝鮮にも適用される。もしそこが市場原理で発展中の豊かな現代都市で肌の白い人間が沢山住んでいたら、同じことは絶対にできないと思うんですよ。

  490. 暗がりで妙齢の女性が裸足のおじさんたちに給仕している。飲んでいるのは、驚くなかれ、塩入りのコーヒーなのだった。(略)お試しになるといい。コーヒーに塩味はよく合う。後口(あとくち)がじつにさわやかだ。砂糖みたいにコーヒーそのものの香りを消すことがない。「麗しのコーヒー・ロード」

  491. はっきり言って吉本さんの3・11論、大震災論はつまらない。(略)新聞なんか本当に笑っちゃうんだけど、巨大な思想家が亡くなったという書き方しかできない。彼はずっと原発というものに対して肯定的な立場にいて、反原発運動を「マス・ヒステリア」と罵倒したこともある。「演出者なきファシズム」

  492. 救援活動への謝意と基地という軍事戦略上の問題、つまり次元の異なる二つの問題をごっちゃにして、それで沖縄に普天間基地の問題でほとんどものが言えなくなるような状態をキャスター自身がつくってしまっている。それこそが米側の狙いだったのです。「日米の心性」

  493. 僕が特に呆れたのが2012年1月のNHK。夜九時のニュースキャスターがルース大使にインタビューして大使の被災地訪問、米軍の救援活動は感動的だった、本当にありがとうと何度も感謝表明した。それだけならまだしも大使の被災地訪問と沖縄の普天間問題を結びつけて言う。あれは明らかにおかしい。

  494. それをやっている。私はそれをかばいたい気がします。許せないのは首相官邸に立ってあのファシストの話を黙って聞いていた記者たち。世の中の裁定者面をしたマスコミ大手の傲慢な記者たち。あれは正真正銘の立派な背広を着た糞バエたちです。彼らは権力のまく餌と権力の排泄物にどこまでもたかりつく。

  495. 糞バエにも受容できる糞バエがある。女性の裸専門の雑誌に書いてブンブンとタレントにたかりついている糞バエ。私は彼らの悲哀をわかります。フリーランスの記者が物陰に隠れて何時間も鼻水を流しながら芸能人の不倫現場を押えようとする。それは高邁な志はないかもしれない。でも、生活のために続

  496. 私の右手は脳出血による麻痺でつかいものにならなくなっている。残る左手には点滴の管がつながれ、おまけに入院後のストレスで歩行障害、感覚障害が高じて、身体全般の不如意はもはや耐えがたかったのに、私は病室で連夜パソコンに向かいチューブが絡み付く左手でポツリポツリ文字を打ち込んだ。

  497. 大地はフライパンのように灼けていた。植物が枯死するみたいに、次から次へと人が身まかっていった。非嘆は、ないわけがなかった。しかし非嘆も慟哭も暑熱に涸らされていた。赤ん坊がよく死んだ。死ぬ前からハエがたかりつき、熱病の赤ん坊の顔面で交尾したり眼窩に産卵したりした。「炎熱の広場にて」

  498. さほど革新的な新聞とは言えない河北新報でさえ、東北と沖縄の近似性を指摘しはじめている。国策推進のなかでサクリファイスの構造をお互いにもっているということです。苦難の当事者になってはじめて気づかされたことは、中央政府は何もしない、国策遂行のためには「棄民」をするということです。

  499. 戦前戦中は国家権力が有意の雑誌、単行本を多数発禁処分とし、戦争協力に積極的な翼賛新聞、出版物を大いにとりこんで国策宣伝に利用した。いまは権力の弾圧などいささかもないのに、伝統ある各雑誌がただに売れないからといって版元みずからあっさり休刊、廃刊をきめる。「なんのかんばせあって…」

  500. 国論を反映するものではない」という菊竹の指摘は、昔日の翼賛新聞だけでなく、“世界一の発行部数”とやらを誇る讀賣新聞をはじめ今日のマスメディア全体にひろがる精神の根ぐされ状況への痛烈な警告である。「雲泥万里」

  501. 世論は腐敗したメディアに誘導されるのであってはならない。読者にまずもっと事実を伝える。事実をもとにした自由な言論を保障しなければならない…。菊竹の訴えはあたかも七十数年後の今にむけたもののようにさえ思える。「一枚の新聞をよけいに売ること以外、なんの考慮もなき新聞の論調は、決して続

  502. おそらく、BF症候群により相当に鈍くなったわれわれの皮膚感覚は、この国の実際の“水温”を大いに誤解している。もはや冷水でもぬるま湯でもなく熱湯、しかも沸点に近づいているのではないか。「熱死を避けるために」

  503. 選挙を“禊ぎ”として、当選すればそれまでの過誤や罪状が洗い流されるという、民主主義とは縁もゆかりもないおかしな考え方が日本というムラにはいまだに残っている。お祭り騒ぎでこの国の真の病根がかえっておおい隠され(略)有権者の方もあっさり忘れてしまうといった悪しき習慣も変わってはいない

  504. 私個人はといえば、あの時期、数万の群衆が一斉に起立したり、声をそろえてひとつの歌をうたうというかおめくというか、おびただしい人間たちのそうした身体的同調が、おそらくその種のことをのべつやっていたかつての中国を知っているせいもあろう、正直、鬱陶しくてしかたがなかった。「抵抗」

  505. 学校では教員が校長の意向に沿うているかどうかを待遇に反映させる人事考課制度が導入されようとしており「思想および良心の自由」も「表現の自由」もほぼ根こそぎ奪われつつある。見た眼は谷川俊太郎の詩のように優しく何気ないのだけれどこの国のどの領域よりも早く不可視の戦争構造を完成しつつある

  506. 死体は洗い浄められ、白い布に覆われ、右の脇腹を下にし、顔をメッカの方向に向けて寝かされ、埋められるという。右にせよ左にせよ脇腹というもののない死体だったらどうするのだろうか。顔のない死体だったらどうするのだろうか。私は欠けた埴輪みたいな形の死体の影を脳裡に描いてみる。「カブール」

  507. 問題はジジイとオヤジ。かつてはそれらの言葉を他者に浴びせかけていたくせに、その後宗旨替えしみんなで反動を支え、みんなで変節し、みんなで堕落し、しかも、それを組織や時代のせいにして、のうのうと生き延びている年寄り連中をこそ、構うことはない、容赦なく撃つべきである。「堕落」

  508. 寒天のような無意味のみを残してほぼ消滅するにいたったのだ。善なるものがなくなったからには、悪はもはや悪たりえない。単体としての悪は、単体としての善が存在不可能なように、それ自体の意味をなくし、同時にそれ自身の闇を失う。善なるものの反照のない悪は、闇でさえないし、むろん光でもない。

  509. まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。まず善なるものの座に悪が居座り、次に悪がいけしゃあしゃあと善面をし、さらには善面の悪が本来善なるものを悪だといいつのり、この勢いに負けて、善でありえたものがどこまでも退化し、いまや、それは蕩けくずれた続

  510. 夜ふけの浜辺にあおむいて / わたしの死者よ / どうかひとりでうたえ / 浜菊はまだ咲くな / 畦唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな / わたしの死者ひとりびとりの肺に / ことなる それだけのふさわしいことばが / あてがわれるまで 「死者にことばをあてがえ」

  511. 本来、政治的発言は大嫌い。オピニオンリーダーとかアジテーターと思われるのもまことに心外だね。が、文学や哲学という装置は無限に大きくて政治をも包み込める懐を持っている。状況を政治の言葉ではなく、詩や哲学の言葉で語ることを選んだ。「政治は人の内面に容喙してはならない」

  512. あのとき首相は派兵の法的根拠をこともあろうに憲法前文に求めて、前文の一部をさも得意そうに読み上げてみせました。居ならぶ記者団からは反論も質問もなく、デタラメな憲法解釈にマスメディアが抗議の論陣を張るという動きもなかった。言葉の力もジャーナリスト宣言もあったもんじゃない。

  513. テレビとは、恥の花が時の別なく繚乱している世界なのですね。無恥のばか花が咲き乱れ、まっとうな知が駆逐されている。ただし、これを見れば見るほど無恥状態に麻痺し、恥知らずという濾過性病原体に骨がらみ感染してしまって、かつては赤面の至りとされていたことさえ、いまは当然至極とあいなる。

  514. 不思議なもので、こうも多重にしんどいことに遭うと、もう死んだほうがましだとか思いつめる集中力というか余裕もなくなって、ぼくの場合、逆にヘラヘラ笑ってしまったりする。自嘲(じちょう)とか自棄とかの暗い笑いじゃなくて、これが案外明るい笑いなんです。腹の底からゲラゲラ笑ったりもします。

  515. ヒリヒリするような心臓が飛びでてきそうな程ものすごい言葉と言葉の真剣勝負をなぜ社会は怖れるのでしょうか。テレビCMやバラエティーショーや携帯メールふうの聞きなれ使い慣れた言葉でないと安心できないのでしょうか。我々は本当の所は言葉に真に切実な関心を持ってはいないのではないでしょうか

  516. 想像力の涸渇した年寄りはもうどうしようもないけれども、若い人は、まだ報じられてない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。「ほんとうはカブールで何が起こっているか」

  517. わたしはいま、被災地から遠く離れた東京にいて、いわば快適な環境から、かぞえきれない死者たちの霊と、すべてを失ってしまったたくさんの被災者、友人たち、不安にかられている人びとにむかってなにかを書こうとしています。正直、そのことがなにか罪深いことのようにも思われてなりません。

  518. 一般に日本の警察は在日朝鮮人を十把一からげにして公安対象者として見ている節がある。たまたま外国人登録証を携帯してなかった在日朝鮮人を身柄拘束して最高懲役1年というデタラメな罰則をちらつかせながら「××組織の情報を教えてくれればなんとかしてやる」と恫喝するのは古くて新しい手口だろう

  519. あばら骨って、かりにナウマン象のものであっても子うさぎのそれでも、どこか薄ら寂しいものだ。私の好きなある詩人は、自分のあばらの中にはかげろうみたいなものが棲みついていると書いているが、それはあばらに囲まれた暗い空洞にひとり屈(かが)んでいる自己存在自体の寂しさをうたったのである。

  520. そして、日々の業務として犬を焼かなくてはならない年老いた職員の、眉間の皺(しわ)の深さはどうだ。言葉はほぼ無力なのである。この仕事をして残虐と呼ばわるのなら、残虐の根っこは消費社会の土中をこそ這いめぐっており、残虐の芽は飼い主の気まぐれにこそ兆(きざ)しているとはいえないか。

  521. 尖閣を東京都が買う、という石原慎太郎都知事の発言もそうでした。「政府にほえづらかかせてやる」という石原発言にマスコミは喜んでとびつきましたが、尖閣を買って、その先をどうするのか、じつは大した展望がない。(略)勇ましい発言をすればするほど大衆受けする時代がすでに来た気がします。

  522. しかしドイツで私は繰り返し自問した。日本にもドイツのように650万人もの外国人が住んでいるとする。しかも毎年数十万人もの難民が押し寄せてくる。景気は低迷、失業率も高いとする。それでもゾーリンゲンの放火殺人事件のような犯罪は絶対に起きないか。ネオナチに似た民族拝外主義は高まらないか

  523. 「ちんぴら」という言葉にぼくはどうしても安倍氏を重ねてしまいます。いわゆる“チンピラ”たちは戦争を痛烈に反省したはずの、この国の戦後の成り立ちをまるごと否定し、不戦平和の誓約をヘラヘラ笑いながら靴の先で蹴飛ばしているようです。ぼくはどうしてもそれを諾(うべな)うことができません。

  524. 人間は歴史に学ばないものなのだろうか。被害の歴史に学び、その途方もない痛みと嘆きの記憶から、金輪際(こんりんざい)、加害の側にはまわらないという決心ができなかったものか。「一トン爆弾」

  525. この夜、電話が入った。Aさんの勤める会社が倒産した、と。Aさんは黙々と長くデラシネたちの生活を助けている人だ。悄然(しょうぜん)としていると、遠い雪崩のような音がガラス戸を揺する。雷だ。目眩(めくるめ)く紫の閃光が銀の雪景を射て、鴉(からす)が驚き雪中に飛び立つ。「花食む男」

  526. 本当のこと言うとね、作品評価も本の売れ行きもどうでもよくなった。病気さまさまだね。少しは腹が据わったかな。これからは書きたいことだけを書かせてもらう。百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。

  527. 1988年5月、アムステルダムのホテルの窓から歩道に転落、死亡する11ヶ月前、チェットは生涯で最高といわれる演奏を東京公演でなしとげている。それはジャズの分野にとどまらず、音楽全域における一大秘史であり、詩的にも哲学的にも我々の内面を震撼させずにはおかない出来事であったといえる。

  528. 口パクやのうて、ちゃんとうたいます。選挙いきます。棄権しません。受信料はらいます。半年分一括でおしはらいさせていただきます。タトゥー消します。規範意識もちます。デモに行けというなら、反原発デモでも尖閣、竹島守れデモでも、なんでも行かせていただきます。せやからポラノンください。

  529. ポラノンをくれ。一錠でいい。たった一錠でええ。たのむ。ポラノンくれたら、にっぽんチャチャッてさけびますかい。PCしっかりまもります。もっともらしくまもります。「肌色」あかん言わはるんやったら「ペールオレンジ」てすぐに言いかえます。「明日は咲く」かてうたいますけん。

  530. 二つだけ、死んでもやりたくないことがありました。それはなんでしょうか。私が読みたくないもの、書きたくないものです。それらはいわゆる「人生論」と「闘病記」です。これが大嫌いなのです。「時間感覚が崩れてから」

  531. 「アヒルの池が突然、血のように真っ赤になったら、それはどこかで戦(いくさ)の始まるしるしなんだって。西洋ではそんな言い伝えがあったんだよ」  彼は静かに怒るひとなのかもしれない。立ち聞きしながら私は彼について新しい発見をしたように思った。「ミュージック・ワイア」

  532. おとこは瘠せて青白かった。おどろいたことには、あの美しかった若者がすっかり白髪になっていた。まるで透明の絹糸だ。自己の埋葬をつとにすませた者のみが発する妙に澄んだ波動が部屋をはしった。そのかみ、荒川鉄橋上でヒロヒトを爆砕しようと企てたおとこは(略)まるごと吸いとるように俺を見た。

  533. 女に振られるのと、政府が原子力潜水艦の寄港を受け入れると対米通告したのがほぼ同時期。二つは本質的に全く異なる問題であるにもかかわらず前者の悔しさが後者への怒りを増幅したのだから青春ってまことに厄介という他ない。デモ参加、逮捕、仕送り停止(略)機動隊とぶつかっては殴られてばかりいた

  534. 棺は いちばん安いプリント合板の / 不浄屍体用平型並棺 / 婆たちは知っている / つづいてあるく私も承知している / あの棺には窓のないことを / なんぼ安くたって / 寝棺は窓つきがあたりまえというのに / あれには 不浄屍体用平型並棺のきまりとして / のぞき窓がない

  535. 民衆は困窮し、飢え、指導者は豪邸に住み、豪華な宴会を開き、なに不自由なく暮らしているのである。ニュース映像が証明している。人民が貧困に苦しむ国の指導者ほど腹がつきでているという事実を。つまり、サンクション(経済制裁)は責任ある指導者ではなく、全く罪のない民衆を直撃するという事だ。

  536. でも、ひどく病的な組織アレルギーはあっても、完全な組織否定じゃない。たしかに、僕は署名とか、ただ名前だけの発起人だとかを一切拒否してます。それでお茶を濁して、何かに参画しているんだなんて思いたくないのです。(略)弱いのは組織ではなくて、あくまでも「個」だと考えているものですから。

  537. 昏夢(こんむ)を消すな。記憶の野辺の暗翳(あんえい)をそれとして残しておけ。意味不明の翳りをそれとして陰らせておけ。ほら、かつて脳裡にえがいたいくつかの暗くおぼろな情景と不可思議なノイズが、よくない菌におかされた樹皮にうかぶ不規則な斑(ふ)のように今も私の中に散らばっているだろう

  538.  われわれはただ際限なく悲しい。失意の底に沈まざるをえないのは、ただ虚しく、茫漠として悲しいのは、この悲しみの、この悲劇の芯を言いあてようとする言葉がないからではないのかと思うのです。わたしたちは 3.11 でいったいなにを失ったのだろうか。「解体と無化」

  539. 波濤に洗われて心の居住地が年々せばめられていくような焦りが私にはある。浸食感というやつである。心の居住地とは、いいかえれば、そこで観想し、思弁し、妄想し、反逆もする、内面の自由な領域のことである。あるいは、不埒であれ崇高であれ、好き勝手な書きこみのできる心の余白のような場所。

  540. 「殺すくらゐ 何でもない/と思ひつゝ人ごみの中を/闊歩して行く」高校の授業中にこんな歌がのった本を教科書の下に隠して、どきどきしながら読みふけったことがある。(略)「自分より優れた者が/皆死ねばいゝにと思ひ/鏡を見てゐる」という歌も本の手触りやにおいの記憶と共に今なお諳んじている

  541. 人びとを病むように育て導きながら、健やかにあれと命じる資本主義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて“狂者”を(正気を装った狂者が)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるのか…ぼくはそのことがとても気になります。

  542. 若い人が身のまわりの物を入れた紙袋をもって、途方にくれている。どうしても目が泳いでしまう。ひとつのところに焦点を当てられないのです。ベンチに座っていても目がうつろになっている。自分がどういうふうにふるまえばいいか、すぐに決められないぐらい揺らいでいる。それは見ていて非常につらい。

  543. ディソンの話は、山での調理から「食器」へと広がった。「バナナの葉に載せて手で食べるとなんでもおいしいですよ。あのにおいと手触りで食欲がわくし、終わったら捨てればいい」再定住地生活のいまは、救援機関からもらった食器がある。いいにおいはしないし、洗わなければならないので面倒だという。

  544.  では、どうすればいいのか。私にはわかりません。ただ、私としては冒頭の言葉に戻るしかないのです。視えない像を、眼を凝らして、なんとしても視なければならない。聞こえない音を、声を、耳そばだてて聞かなくてはならない。想像力の射程をもっともっと伸ばさなくてはならない。

  545. そういったマスメディアの中では、正確な、見事な表現で現状の病巣を摘出するというような事が、あまり奨励されない。木で鼻をくくったような文章で、全てを書いていく。記者クラブに配られる官庁の発表文書をそのまま記事化したりする。(略)官庁の広報担当のほうが記事スタイルがうまかったりする。

  546. わたしたちの心は夜ごとにたわんでいた。心は他の心を鎖す。心は他の心に鎖される。鎖されて心は悽然とすがれていく。乳色の鬱懐の林の、どこかしらわたしの内部のような夜の内部をあるく。常時未明の林をあるくのだ。「もういいかーい?」。すがれた心なのに、両手とも、さも決意めくこぶしをかためて

  547. イラク戦争がはじまったころに、アメリカの軍関係者が記者の質問に対して「われわれは死体を数えない」と発言しました。いちいち敵の死体なんか数えない、と。「イラク・ボディ・カウント」という名前はそれに反発してつけられ、あらゆる情報を集めて無辜(むこ)の市民の死者の数を数えつづけている。

  548. あるいはだれかが言ったけれども、「天罰」がきた、とかいう形で、われわれの経験を回収していく発想です。こういう思考のプロセスは俗耳に入りやすい分、大変危険でもあります。そうではない。天罰でも天恵でもありえない。(略)死者たちへの礼にも欠けます。それから、抱くべき絶望もなくなります。

  549. 密室を想像する。(略)遮光のあんばいで声音が変わる。出席者の貌が影で毒々しく隈取られる。外光がさえぎられるかげんに応じて、声がくぐもっていく。そして、戸外の光が完全に遮断されたとき、人の死ないしそれにむすびつく話、すなわち〈戦争〉が話し合われる。「でたらめ」

  550. 世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供がたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。

  551. ある夜、避難所の外でふるえながらトイレの順番を待っていた。ふと空を見あげたら、目に突き刺さるほど近くに銀色の星々があった。友人の生涯でもっとも美しく、もっともたくさんの星々が、にぎやかに闇夜に降りつづけていた。死者たちの星々。果てない命の生滅…。「影の行列と目に刺さる星々」

  552. 細かな事だが読者は注意したほうがいい。三浦氏はさりげなく人種差別的な表現をするのが得意なのである。「姜という在日の大学教授」という、当然記すべきフルネームを省略した無礼な個所がそれだ。日朝交渉についてまことに道理にかなった発言をしている姜尚中さんに対する、これは軽侮の表現である。

  553. わたしはかけた。胸をはってかけた。わたしは英雄だった。しあわせで気が変になりそうだった。そのときが絶頂だった。バス通りをかけた。道は舗装されていなかった。みな、まずしかった。だが、道にこんなにもひとが死んでたおれてはいなかった。学校も病院も焼けただれてはいなかった。

  554. 若くて、からだがこんなでなかったら、ニッポン脱出をかんがえるよ。ここにいるいまは、武田泰淳が言ったみたいな全的滅亡を夢みてる。いままでのような部分的破滅じゃだめなんだ。徹底的な滅亡、泰淳が表現したみたいな「目にもとまらぬ全的消滅」を、おれは心のどこかで待ってるんだよ。

  555. ぼくの場合は切実だったんです。「秀逸」という本名には本当に長年迷惑してまして、中学、高校在学中は先生にしょっちゅう殴られていました。「名前負けだ」と。成績も素行も悪いもんですから。いまさら題名の脇に黒々と「秀逸」もなかろうと、凡庸の「庸」です。これで楽になった(笑)。

  556. イエス・キリストの鏡像。おのれに見入るイエス。主よ、あなたは鏡を見たか。主よ,見なかったはずがないではないですか、主よ。キラルとアキラル。あなたの鏡像。合わせ鏡。鶏姦。鏡像異性体。主よ、あなたはきっと見たにちがいない。性交とともにもっともいかがわしいものとされる鏡というものを。

  557. 時々私、大学などで学生達と話すと少し胸が痛む思いをするのですね。彼らは非常に敏感な心の共鳴板というのでしょうか、感じとる力を持っているのに、それを隠すのですね。例えば一人でも堂々と反対意見を手を挙げて言うとか、そういう事をしないのです。それを美徳としない社会的強制力すら感じます。

  558. ジープから一本道に降り立つ。無人の街道をたったっと走ってみる。下手なタップダンスを踊ってみる。すると絹地みたいにてらてらと黒く呆れるほど長い影が悪鬼みたいに街道上を走り踊るのだ。こんな黒豹みたいに立派な影を私はこれまで見たことがない。身に帯びた事もない。私は影を新調したのである。

  559. 「国を愛する」というときの国の実体が僕にはわからないのです。どこに愛すべき国の実体部分が、手触りできるものとしてあるのか。(略)両手で抱きしめて愛するには、この国はあまりにもむなしすぎるのです。「何を子どもたちに言うのか」

  560. 風景が反逆してくる。考えられるありとある意味という意味を無残に裏切る。のべつではないけれども、風景はしばしば、被せられた意味に、お仕着せの服を嫌うみたいに、反逆する。刹那、風景は想像力の射程と網の目を超える。「反逆する風景」

  561. 何より情けないことは、大マスコミの多くがあのファシストの尊大、倨傲(きょごう)、横暴にろくに文句も言えず、舌鋒(ぜつぼう)に怯(おび)えていることです。張り子の虎に怖気(おぞけ)をふるっている。「日本的ファシズムの怖さ」

  562. メディアや知識人の思想上の視力が日に日に落ちている。(略)石原にとってのアジアは台湾しかない。他は全部脅威。しかも軽蔑しています。他民族蔑視をこうもあからさまに口にする人物も珍しい。こういう人間が文学をやるのは勝手ですが、政治をやらせてはいけないと思う。続

  563. アフガンにいけばわかります。戦術核並みの破壊力をもつ爆弾を平気で使用し、アフガンを兵器の実験場にした。あれは戦争なんかじゃない。信じられないことですが、害虫駆除のような感覚です。タリバンなんて言ったって、兵士の多くは干ばつでろくにものも食えなくなった農民たちです。

  564. 多数決で決めてしまえば、内心の自由の領域に属することでも我慢するしかないのか。僕は我慢するべきではないと考えています。我慢すべき性質の問題ではないからです。「個々人の実践的なドリル」

  565. 老人は目を細めて笑った。一回転・一日延命の伝説はほんとうにあるのか私は問うた。「あるにはある。だが、愛しい人だけなのだよ。恋人でもいい。親でもいい。兄弟姉妹でもいい。心から愛しいと誰かに思われている者だけが、ゴンドラの回転でほんの少し命を延ばせるのだよ」

  566. もっと遥かの、あの空よりもっと濃い、ずんぐりとした灰色の塊がたぶん原発であろう。雪に隠れて形はおぼろだ。でも、四号炉は罅(ひび)割れたコンクリートの棺のなかで、いまも死なずに熱しているはずだ。「オーブン」(1995年)

  567. 鈍色の空の下に、雪に覆われた無人の街が、音も色も消されて広がっている。死んだ電線がたわんで、幾筋も意味もなく空中を走っている。遠くに病んだ森が雪にかすみ、どす黒く帯状に延びている。この部屋の主は、病む前のあの森を見て、ショスタコビッチを聴いたのかもしれない。続

  568. でも、何度もいいますが、「外部」はそうは見ていません。北朝鮮だって、米国の軍事戦略に完全に組みこまれた「キツネのような帝国主義者」として日本を見ている。彼らから見たら、アメリカと日本は常に仲間なんです。「平和主義で問題を解くとき」

  569. 「私ら毎日殺処分しとります。鳴いているのは来週月曜に処分される連中です。わかるんですな、間もなく焼かれるという事が。焼いてるんですわ、ここで、八百度以上で。何年も何年も焼いとります…」捕獲された捨て犬が毎日ここに搬送されてくる。処分してくれと直接もってくる若い飼い主も少なくない。

  570. 彼は、テロリストとして(昭和天皇)裕仁の暗殺を謀ったわけですが、そこには彼ももう触れて欲しくないだろうと僕は思っていたんです。でも今回の句集に、それを彷彿させる句を彼は入れてきたんです。しかも、それが最近の2011年の作です。〈大逆の鉄橋上や梅雨に入る〉。「大逆の鉄橋」

  571. 神話を信じているほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑り、苦しみ、闘うという主体的営みの対極に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。(略)その近代神話の頂点にあるのが原発だった。原発神話はほころびが出てきたけれども、まだ破られていない。

  572. 遠くにぼた山がある。頭上をメガネウラに似たいやに大きなトンボが飛んでいる。ターコイズブルーの胴体。薄い柴色(ふしいろ)の複眼。あのトンボを一匹捕まえたいけれども、わたしはぼた山にいかねばならない。わたしが生を得るまえから、あちらにぼた山がいくつもあるのだ。「ぼた山」

  573.  ぼくはぼくの表現をまったく評価しない。自分の人生というものも、物語としては本当に駄作なのだと、最近あきらめがついた。もっと上質の作品でありたいと、たいていの人間はそれなりにそうおもう。物語にしたい。でもぼくのばあいはない。そんなものはもうないな。「〈不都合なもの〉へのまなざし」

  574. 末期症状の現代資本主義に生きているぼくらは、どのみち、いまの階級矛盾から逃れることはできません。階級対立のただなかにあっては、つきるところ、一般的に救うか救わないかではなく、闘うか闘わないかしか選択の余地がないともいえます。闘う事により変革の主体としての自己を救うしかありません。

  575. いまは猫も杓子もテレビやCMにでていなければ価値が劣るみたいに考えている。だんだんお声がかからなくなると、自分が社会的に追いつめられているように思わされているタレントたち。人を商品価値としか見ていない、倒錯した社会。極論すれば、まともな人間は昔はテレビやCMなんかにはでなかった。

  576.  サテンの手が上肢をさすっている。私は半睡したまま宙に浮いている。水の底のように声は遠い。「どうして月とか火星とか、外側にばかりロケットを飛ばすんですかねえ。…人の内側にも探査ロケットを飛ばせばいいのにねえ…」。宇宙より人の内奥のほうが未踏なのに、といっているらしい。「青い炎」

  577. 世界はこの映画よりもっとブラックかもしれない。『博士の異常な愛情』には少なくともノーベル平和賞を授けられた現職米大統領はでてこなかったのだから。臨界前か否かを問わず核実験・開発を行う者たちの理屈は金正日の北朝鮮であれオバマの米国であれその貧寒とした嘘のレベルにおいて大きな差はない

  578. テレビに政治家の顔が大写しになった。うすらにやけている。ただ芝居がかっているだけで、眼にも声にもそのじつ真剣みはない。〈犬以下だな〉といったんはおもい、あんまりだとすぐに撤回する。政治家みたいに。本音はむろん変わらない。「老人と犬」

  579. わが群系の もっともおぞましい密事に / 死ぬ気もないのなら / ゆめ触れてはならぬ / 暈色は暈色として 妖しく おぼろに / 反射させておけ / どうしても語りたいのなら / 以下を忘れないことだ / ー最善の色から 最悪の汁が / 日々に にじみでていること「halo」

  580. 万引き防止のために。それでも盗む奴がいた、梯子をかけて。ぼくは親父の書棚から盗んだ坂口安吾の『堕落論』の、確か初版本を文献堂に売り払い、それで映画観て、ラーメンライス食った記憶があります。「新聞言語と小説言語の狭間で」対談・日野啓三

  581. 昔、早稲田に文献堂という左翼本専門の書店がありまして、ほんとにいい古本を置いてました。主人は、もう亡くなりましたが、たいへん目利きだったですね。涎が垂れるような本ばっかり揃えていた。埴谷雄高さんの『死霊』や、もちろん日野さんの本もあって、いい本ほど本棚の高いところに置いてある。続

  582. 原爆投下に関する昭和天皇の言葉(1975年10月)もまた、いまでも考察にあたいする軽みがあると言わざるをえません。「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

  583. こんな事をしていていいのでしょうか。心の中にメディア世界にはどんな真実があるのだろうと思うのです。「真実」の底というものが見えない。五分ごとにCMが流れる。なんだろうこれはと思う。そこには恥とか文民統制という生まじめな精神は何もない。全部お笑いとCMと一緒に溶解してしまうのです。

  584. 梶井は闇に感官の全開を感じ、埴谷は闇に宇宙をなぞるのだけれども、とまれ両人共に闇を追う視線の強さはどうだ。いい闇といい眼がかつてはあったのだ。さて又、私も今闇に埋まりこんだ記憶と忘却を見てはいる。だがきょうびのこの闇ときたら「ぬばたまの」ではない「善」で灰色に修正されたそれなのだ

  585. もうひとつは、主要メディアがのべつやっている世論調査の影響も大きい。世論調査は、実は世論誘導の機能を持ち合わせていて、数字は客観的な調査の結果たりえないと思う。「決壊した民主主義の堤防」

  586. さあお乗りなさい。二十いくつかのドアがすべて惜しげもなく口を開く。ひかりが溢れでてくる。だれもいない車内に、ぼくは勿体ぶって足を踏みいれる。特別の招待客みたいに。そうしたら、すでにだれかいた。皓皓とひかりを浴びて、老婆がひとり当然のように座っていた。「自動起床装置」

  587. 「瞬膜ができたらしいの…」/ 言いつつ、きみがまばたきした。/ 乳色の半透明膜がそのときも、/ きみの目玉を掩った。/ 鮫のように。/ 蛇のように。/ 「一瞬だけだから、支障はないのよ」/ きみは寂しく微笑んだ。/ 三日後、おれにも瞬膜ができた。/ 母の眼にもやがて瞬膜ができた。

  588. でも言うべきであろう。顔を取り戻せ、言葉を取り戻せ、文体を取り戻せ、恥を取り戻せ。反乱の勇気がないのなら、その場で静かに穿孔(せんこう)せよ。(略)まっとうな知の孔を開けよ。孔だらけにしてしまえ。そのように呼びかけるべきである。ひょっとしたら、呼応する者が幾人かいるかもしれない。

  589. みんなが絶対安全圏でものを言って、本当に語りにくいことについては触れない。革新派、護憲派が特にそうです。(略)だから、若い人間が、「この人はひょっとして腹をくくっているのではないか」と錯覚して小林よしのりあたりに行く感じは、少しわかるような気もする。「安全圏から語るな」

  590. 経済格差がかつてなくすすみ、その日の生活にも難儀している貧困階層が拡大しつづけているというのに、彼らの味方を標榜する共産党や社民党は、なぜ支持層をのばす事ができないでいるのだろう。(略)いや党勢などなくてもよい。せめて底光りする存在感が欲しいのだがそれも見えない。「底光り」

  591. だがしかし、一人、また一人と身まかり、風のように逝き、かつて心に描かれた紅い、眼が焦げるほどに紅い絵図を視た者、知る者はもはやごくごく少ない。過誤を語るに足る記憶も、いつか散らばり失せつつある。時が逝く。へらへら笑いながら過ぎていく。「記憶と沈黙」

  592. わたしはぼんやりと骨をさがした。骨のような石のような死んだサンゴのようなものが無数にあった。しかとは言えないけれども、それらのなかに知人の骨もあるはずであった。(略)しらじらと白化してしまった骨たち。踏むとカシャカシャと乾いた音がした。蹴るとカラカラと鳴いた。「死と滅亡のパンセ」

  593. 宗教だってそうですよ。例えばローマ法王でも誰でも、出てくるべきですよね。枢機卿なんかが身体はって何か根源的なメッセージを発するとかね。それをやろうとする人間がいない。滑稽かもしれないけど、案外そこは大事だと思います。言説の大きな流れを作っていく突破口が、未だにないんだと思うんです

  594. 日本ではペットが死んだとかいって大泣きして葬式をやったり、ミネラルウォーターを与えたり、ペットの万歩計を作ったりね。これで市場が成り立つ。でもこれも市場原理がこしらえている倒錯の世界だと思う。カブールというアフガンでも最も経済的に発達した所でさえ普通の人々は日本のペット以下ですよ

  595. その事については、吉本さんだって関係がないわけじゃない。吉本さん自身「ぼくは戦中派ですが、まだ生き延びています。その理由は、うまくやったからです」(『大状況論』)と白状している。うまくやったやつらだけが、いまへらへらしゃべって空しく生きているのですよ。「《アメリカ》を生理が拒む」

  596. そうね。それと言説は身体を重ねた場合、必ず「死」に向かうと思うんですよ。三島由紀夫がそうだったようにね。吉本隆明がいってるでしょ。三島の自死で「思想は死んだな、無効だな」って。 彼は連合赤軍が浅間山荘事件で銃撃戦のすえ逮捕された事についても「命がけの思想は死んだな」というのです続

  597. それは次期首相が確実視される安倍晋三氏の言う「戦後レジーム」からの脱却どころか、戦後の成り立ちの根こそぎの転覆ひいては不戦平和の誓約の破棄ではないのか。政治を「重大に扱ふのは莫迦々々しい」とうそぶいている間に、気がつけばレールは敷かれいまや情勢は「重大に扱はなければ危険」の段階だ

  598. みなとともに叫んではならない。みなと同じ声で泣いてはならない。みなと一緒に殺意をいだいてはならない。みなと一緒の認識には、かならずといってよいほど錯視がふくまれているから。みなと一緒の行動にはたいてい救いがたい無神経とヒューブリスと暴力ないしその初歩的形態がひそんでいる。「垂線」

  599. だれにでもなく、自身にくりかえしいいきかせなければならない。改めて記すまでもないことだけれども、残りの生を意識し、ここにあえて書きおく。みなともっと別れよ。みなからもっと離れよ。人をみなと一緒になって嘲(あざけ)ってはならない。その彼か彼女をみなと一緒になって指弾してはならない。

  600. もし核兵器と原発という二つの分野の次元が違わないのならば、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の対象に原発を加えてもいいんじゃないか。もちろん、これも仮説に過ぎない。でも、今はそこまで考えなきゃいけない時期だと僕は思っているんです。「〈3.11後〉忘却に抗して」

  601. 大した事は起きないと言ったが、わけのわからぬ事は起きないでもない。先日、こんな事があった。四階から五階への階段の途中に瘠せた女がいた。階段に直に腰かけ、脚を開きかげんにしていた。干し柿のように皺だらけの顔に蓬髪が垂れている。(略)女を避けようと私は左の手すりのほうに寄っていった。

  602. いや、背景を背負っていてもダメなのはダメなわけですよ。それほど過酷だということです。どんなに人徳があって高潔な人でも、下手なものは下手。泥棒でも人殺しであっても、よいものはよい。これはしょうがない。作品に下駄を履かせてはいけない。「突きつけられる“生”と“死”」

  603. お参りに行きたくとも行けない墓。ねんごろに弔いたいのに弔えぬ死者たち。金網が境(さか)う日本の「内」と「外」。BEGIN のメンバー三人の目はしかたなく境界を超え、基地内の地下に眠る魂に近づき質問する。そこからなにが見えますか。わたしたちは誰ですか。ここはどこですか。

  604. もしジャコメッリに会うことができたなら、かれがムッソリーニをどうおもっていたのかを、たずねたい。日本では戦後、少なからぬ詩人が自作の戦争詩を改竄し、多数の画家は戦争画を焼き捨てて、戦争協力の証拠を隠滅しようと躍起になった。「表現者はいかにして資本と権力から自由でありえるか」

  605. 人間のために、人間が生きてゆくために、商品やマーケットは生まれた。ところが、商品やマーケットのために人間が存在するのが、現在の世界である。この倒錯を証明するためにはマルクス主義者である必要も共産主義者である必要もない。それは事実であるから。そのことを誰が否定できるのか。

  606. 九条のみならず、憲法はいまや、ほとんどの条項にわたって、ぼろ布のように破壊されている。それなのに護憲学者たちは憲法をあたかもまだ健常体であるかのごとく語っている。彼らは有事法制反対にも自衛隊派兵反対にも起ち上がらず「困ったものです」とリベラル面をして嘆いてみせる。

  607. 2030年に暑い夜がいまの三倍になっても、しかし、快適に暮らす人間たちはいるでしょう。それは貧しい人たちではありません。富裕層だけが環境の快適さを享受するわけです。これは資本主義の単純な原理です。「資本による環境収奪」

  608. お辞儀もしなければ葉も閉じないのでは、もはやオジギソウともいえない。ひょっとしたら、自己主張というものを自らに禁じ、特徴のないただの野の草として、皆と和して平穏に群生していたいだけなのかもしれない。含羞も怒りも知羞もなくセンシティブでもない、「無感動草」になりたいのかもしれない。

  609. 盛んに踊りを踊ったのは民衆なのであった。こうした動きに異を唱える者らには隠然たる国家テロがなされたが、これに対してもメディアは単に無力だっただけでなくおおむね無批判でもあったのであり、権力によって次から次へと屠られる異議申し立て者について、民衆は一般に無知か無関心か冷淡であった。

  610. 1931年の柳条湖事件はこの国を中国との十五年戦争に誘導していった。後の歴史は、事件が関東軍の謀略であり、民衆の意思に逆らい、戦争へと導いていったのは、あたかもひとり軍部であったかのように教えている。だが、軍部のお先棒をかついで戦争を大いに煽りたてたのはマスコミなのであり、続く

  611. テレビに関しては追従どころではない。裁判がはじまると被害者側の談話ばかりをまるで誘導のようにカメラの前でかたらせる。そうして被害者感情に限りなく同化し報復感情を煽りたてておいて、裁判で死刑判決が下されなかったときは裁判官に非があるかのような報道をする。

  612. したがって、「君が代」だって「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」とあいなるわけであり、この押しつけがましい情緒を、「たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち」と断じて補強し、文句はいわせないぞという語調になるからしまつがよくない。

  613. 谷川俊太郎の文章に「たんか」という不思議なひとくさりがある。『詩ってなんだろう』という本のなかに、短歌の解説の体裁でさりげなく収められている。はじめて眼にしたとき、半透明の灰汁(あく)のようなものを感じ、考えこんだ。なんだか油断がならないのである。

  614. 樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼(けいがん)でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。「国家の貌」

  615. あのエリック・サティはナマコを食わんかったかもしらんけどもや、ナマコが鳴くことを知ってはった。ほんでもって、サティは「ナマコの胎児(ひからびた胎児)」というピアノ曲を実際に作曲しているんだよ。意外にリズミカルで、なかなかこの曲からナマコを連想するのはむずかしいけどな。

  616. ベトナム戦争の時は沢山の仏教徒が焼身自殺したんです。サイゴンでガソリン浴びて。日本でも由比忠之進さんというエスペランティストがやっぱり抗議の焼身自殺をしたんです。エスペランティストの間ではいまでも語り継がれています。身体ごとの思想ですね。そういう抗議の強さがいまはない。

  617. 今後は絞首刑の執行をテレビで全国津々浦々に実況中継すべきではないか。正視できない、あまりに酷(ひど)すぎる、無残だというのならば、放送ではなく死刑を即時廃止すべきではないか。そうできぬものはなにか。もう一度問う。そうさせないものはなにか。「自問備忘録」

  618. 死ぬと、多くは木の皮に包まれ、バナナ畑に埋められる。バナナの肥やしになる。私は精製の悪い黒ずんだ砂糖と石鹸と安ものの毛布を担いで、土中の仏たちを踏み踏み、一面のバナナ畑を漕いで歩き、患者の家にそれらを配っては話を聞いた。「飢渇のなかの聖なる顔」

  619. バートン監督は『リターンズ』で、バットマンをあろうことか主役の座から引きおろし、偽善実業家やフリークスと同様の脇役にしてしまったといっても過言ではないだろう。それは、バットマンが、悲しいかな、あまりにも役立たずであることがはっきりしたからだ。「アメリカの夢の終わり」

  620. 男によると、このあたりの自販機の下の「お宝」は、板きれをもった別の野宿人らによって、払暁すでにかきだされてしまっているのだという。これからどうするのか、私は東京弁で問うた。自販機の下のお宝をかきだしに、隣町に、そのまた隣町に、またまた隣町にも板きれ片手に歩いて行くのだと彼は答えた

  621.  一見してきらびやかな消費資本主義の実相は、人に愛想を尽かされ、棄てられ、野ざらしになったモノたちの山にこそある。ゴミに本質が宿る。世紀末資本主義の、それが臓腑(ぞうふ)であり、内面の風景なのだ。「棄てられしものたちの残像」

  622. 歴史とはかくも不公正である。祖国が植民地とされ、皇民化政策にさらされ、日本名を名乗らされ、言語を奪われ、強制連行され、重労働を強いられ、そこここで人種差別され、故国を見ないままピカドンを落とされ、屍まで差別され、あげくからすに食われる。「歴史と公正」

  623. 報道によると、首相官邸正門と反対側の歩道で、由比さんは立ったまま胸にガソリンをかけ、ライターで火をつけて、仰向けに倒れたのだという。七十三歳だった。私は新宿の喫茶店の白黒テレビでニュースを見た。画像は舗道上で瀕死の状態で横たわっている由比さんをためらわず映していた。「抗うこと」

  624. 天上の星座は私たち二枚貝のロゴスなき「循環死」のしるしである 私たち二枚貝はまったく高等でも あまりに下等ですらない 私たち二枚貝にはとりとめのない追憶があり かりそめの涙があるにはある しかし時制はない そして ときどきピュッピュッとけちくさく潮を噴いている 「星座」

  625. だがしかし、世は空前の“エコごかし”だ。朝野あげて二言目にはエコ、エコ、エコの大合唱。貧者の生血をすって肥えふとる環境ヘッジファンドや穀物・種子メジャー、原油高騰の背後でうごめく投機ファンドなど元凶の所在をつきとめようとする視力も意欲もあったものではない。「ごかし社会」

  626. あれは、人間チェット・ベイカーというより、超過剰摂取のすえに、ついに身体ごと麻薬そのものと 化してしまった究極の“麻薬体”がうたい、吐息し、ブローしていたのではないか。とすれば、それに酔いつづけた私だって、スピードボールの間接中毒のような状態にあるのではないか、と妄想するのである

  627. 怒りをなえさせるものーそれは語ることの容易ではない深い羞じの感情である。西の大都市の知事に当選したという得意満面の青年が、傲岸不遜を絵にかいたような東の大都市の知事に、あいさつと称してぺこぺことゴマをすりにいき、取材陣、というよりテレビと新聞の糞バエどもがぶんぶんとこれにたかった

  628. われらは青緑の巨きな卵めざしてあるく / われらは青緑の巨きな卵をめざして / われらは青緑の巨きな卵のなかをあるく / いま穹窿はマラカイトグリーンにぬめり / ヨーロッパコマドリの卵殻の色に晴れわたっている / われらは卵中にあって 卵をあなぐっている 「ドーム」

  629.  人は奪われると、奪われたものに対して、かえって敏感になる。彼は単に固定空間に収容されているのとは違いますよね。迫りくる死刑、悔恨、自責、病気といった二重三重の責苦がある。それらを僕らは手探りし、想定しながら読まなくてはいけない。「突きつけられる“生”と“死”」

  630. いくらやっても、歩くのが上手にはならない。しかし、自主トレをやめると歩けなくなるおそれがある。いくらやっても目立った向上はない。が、やめると自滅。これって、悔しまぎれにいえばだね、嫌いじゃないな。ちょっと形而上的というかね。「“無”を分泌し、ただ歩く」

  631. 有名な詩人が大手生命保険会社のテレビコマーシャルのためにもっともらしい文章を寄せる。(略)ぼくはあれほどひどい罪はないと思う。あれは正真正銘の“クソ”なのです。堪えがたい詩人のクソ。そう思いませんか?そう思わないという人はしょうがないけど、ぼくは思わないということが怖いのです。

  632. 皆さんもサダム・フセインに絞首刑が執行されるシーンを見たと思います。あまりにもひどい光景でしたが、あの映像にはガーンという音しか入っていない。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はもっと細部の音まで入れているわけです。それは頸骨が折れる音です。バキッという音を入れている。「死刑の実相」

  633. 資本は資本の運動と市場維持にそぐわない、すなわちもっぱらもうからないという理由からのみ、本格的戦争を回避している。中国資本はすでに疲弊した米資本主義の枢要部までおよんでおり、あたら宿主(しゅくしゅ)としての米国を殺す必要はない。(略)問題は「中東大戦争」の新たな可能性である。

  634. ところで、改憲論の高まりと全く逆の空気もわずかながらあります。『文藝春秋』8月号に岩田正さんの短歌が載っていて「九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか」っていうんです。(略)僕はこういう岩田さんの気持ち、すごくわかるんですよ。「ちんぴらに負けてたまるか」というのが…。

  635. が、本音は、むろん石牟礼道子さんその人の体内に、生まれついてこの方その様な湖底があるのだと思っている。そこから『十六夜橋』の物語は沸き上ってきたのである。人が生きるという事の例外のない不首尾が、ここでは濃艶な美として見事に造形された。なんという深く哀しい湖をお持ちかと私は驚嘆する

  636. ふと、わたしは捨てばちになっているのだろうかとおもい、そう自問してみたが、どうもそうではない。自棄(やけ)というのではない。わたしはとても凪いでいる。「青い花」

  637. わたしは諍(あらが)わない。だが、祖国防衛戦争にはしたがいたくない。老人と各種障害者には応召義務はない。もっけのさいわいである。空はむしろ妖しいほうがよい。敵影は見えない。機影なし。続く

  638. 暗闇のことを、「ビロードの衣装のような」とか「黒革の艶のような」とか形容する作家がいるけれども、私にはできない。こぎれいな比喩表現は、たまさかの闇ならまだしも、たとえば、停電が一週間もうちつづくとなると、心理的に不可能である。相当に散文的にならざるを得ない。「自力発電装置」

  639. 僕は石原を主敵だなんて思わない。賞味期限の切れかかった空っぽの暴言居士にすぎない。それより石原のような者に票を投じる「市民」といわれる人々の心の動きに関心がある。石原その人よりも、彼を都知事にし、さらに首相にしたいと願う民衆の方が、言葉の正確な意味で「モンスター」だと思うのです。

  640. これを省略するのはいうまでもなく筆者の自由ではある。促音ひとつ落とすか落とさないかは、しかし、しばしば趣味をこえて生き方と思想にかかわる。その一語でたちまちにしてすべてが露見しすべてが饐える。fuck you! はファック・ユー!である。ファク・ユー!ではない。(09.6.26)

  641. 世間は感情的です。世間はきわめてエモーショナルで、それに歯止めをかけるのは大変に難しい。世間は異物を排除し、同時に私たちは世間から排除されることをもっとも恐れる。その恐怖心が私たちこの国で生きる者の行動を心理的に拘束している。しかし、私たちはそれを踏み越えなくてはなりません。

  642. 明日世界が滅びるとしてもマスコミは日常を維持しようとするでしょう。なにも考えないように、けっして振り返らないように、笑いさんざめき、浮かれ騒ぎ、視線を落とす幕間すらないようにCMが流れ続ける事でしょう。なんという恐ろしい日常に私たちはいるのか。なんと世間とは得体のしれないものか。

  643. 存在しない思念のカナル。それらとともに、それらに惹かれて、わたしは線路上をあるいている。とても眼がわるいのに、気がついたら、眼鏡をかけていないのだった。さなきだに惛い局面上の夢のようなうねりを、わたしはのろのろと裸眼であるいている。「青い花」

  644. それとも、私が加害者への愛ばかりを偏重して話しているので、もっと被害者のことをかたるべきとおっしゃるでしょうか。たしかにそうかもしれません。私はしつこく死刑囚のことばかり想像しているのですから。しかし、被害者への配慮と死刑囚への愛をひとつの次元でかたるのは誤りだと私は考えます。

  645. 詩人も受勲し褒賞を受ける。シンボリックにいうと〈幸せな詩人たち〉私はこの人たちが最も罪深いと思っています。〈幸せな詩人たち〉ほどひどい人間はいない。〈幸せな詩人たち〉はどこに人を殺すと書く事もなく、なにを悪辣な言葉で汚す事もなく、きいたふうな言葉で世界を綺麗なものに装わせてしまう

  646. 私達は永田町に集約されたものを平気で政治と呼ぶけれども、あれは政治でしょうか。(略)政治ではなく世間ではないでしょうか。自民党と民主党が議場で主張を戦わせていると思いきや、そのじつ党首が料亭で会合をもち連立政権の相談をしている。建前と本音が画然と分かたれた、これは世間に違いない。

  647. ひとつの試みとして、たとえば普天間飛行場のようなものが米国内にあるか、と問うてみる必要もあると思います。そういう非人間的なことを君らは自国でやっているか、耐えられるかと。「原点としての『肝苦(ちむぐ)りさ』」

  648. 朔の夜、死んだ唖の汽船があった。ひとつの街のようにじつに巨大な、無声の、死んだ汽船が、スチールグレイの重い影になってまっ黒な海原に浮かんでいたのだ。汽船にはひとの気配がないばかりか一点の灯火もない。それにこの海には潮が満ち引く兆しもない。「紙吹雪」

  649. あれだね、あれ。あれを気持ち悪い、怪しいと言ってチャンネルを変えるというのはあまりないだろうな。チャンネル変えたってどこもろくなものをやってるわけじゃないし、「花は咲く」なんてやめろ、気色悪いと言うのはかなり難度が高いというか、相当の孤立を覚悟する必要がある。

  650. ウサーマ・ビン・ラーディンことウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディンの美しい顔が一枚、今朝方アラビア海から大津波でいたんだこの小さな河口に流れついた。どこにも銃創はなかった。

  651. ちょっと格好よくいえば、そういう見た目、不格好な自己像は、比較的許せる。(略)許せる自己像をもったのは、おそらく自分が生きてきたなかで初めてではないかとおもう。だからね、倒れるまえに戻りたいなんて毫(ごう)もおもわない。走っている夢をみたりするけれどもね。「無を分泌し、ただ歩く」

  652. 人間は、どうしてもこれまでの日常がいまもつづいているのだという意識をもちたがる。マスコミはだからそういう報道をする。(略)とりわけテレビが、事態は基本的にはなにも変わっていないかのような番組をたれ流す。不景気だって、半年、あるいは一年待てば終息するだろう、取りもどすだろうと。

  653. 体制のいかんを問わず、どんなに政治情勢が厳しいにせよ、経緯がどうあれ、また僕らがいかに正しいと思ってとりもっていた人づきあいであれ、かりに仕事の延長線上で、結果的に友人やニュースソースに迷惑がかかるとしたら、その仕事は最低だと思うのです。零点です。「情報はどう取るか」

  654. 眼鏡をかけたあの青白くやせた青年は我々と同じ(略)ヒトとして分類するのが困難な、悪魔ないし悪魔と同等の「人間性のかけらもない」生き物という事なのか。どうも按配がおかしい。顔写真をしげしげと見る。もちろん悪魔になんかみえない。あまりに普通すぎるほど普通なのだ。「秋葉原事件求刑公判」

  655. 蛍はたとえ何百万匹が同時に光ってもけっして燦爛(さんらん)としない。闇は明るまず、蛍火によって夜はかえって暗む。蛍が励起しているのは光ではないからだ。未来でもない。過去だ。過去をいざない、過去にいざなう。そのことを私は知っている。「闇と蛍火」

  656. 右肩に激痛があるのだから患部は右肩であると当の本人もしばしば勘ちがいしている。しかし、私の患部は正しくは脳にあるらしい。入院したとき、脳出血後遺症の視床痛が右肩に感じられているのだ、と若い医師が教えてくれた。世に二大激痛というのがありましてね、末期ガンの痛みと視床痛がそれです。と

  657. 赤い砂漠は今も記憶の視圏にはてしなくひろがっている。風紋に見入り、ふと思いいたったのも赤い砂漠のただなかだった。私はおおむね過去の反映のなかでしか生きてこなかった。反証ではなく傍証をのみよりどころとして、受けるべき苦しみをなるたけさけるように、じつは退行しつつ生きてきた。

  658. これだけの不条理をはらみながら、さしたる問題がないかのようによそおう世間。もともと貧窮し、こころが病むように社会をしつらえながら、貧乏し、病むのはまるで当人の努力、工夫、技能不足のようにいう政治。「プレカリアートの憂愁」

  659. 身を沈めるとは、 / 葦の原に、/ 気とおき無辺の葦の原に、/ 雛鳥みたいに醜い裸身を一体、/ あたうかぎり / 低くしゃがみこませることである。/ じっと卑屈に、/ 葉と葉のあいだから / 「他」の顔色をうかがうことだ。/ おののいてのぞき見ることである。「夏至」

  660. 心因性の失語症という。話はそれだけである。それだけ話してもらうだけでもじゅうぶん残酷であり、私はただ聞いているだけで犯してはならない罪を犯した気がした。波に呑まれた小学生の娘は、大震災における行方不明者 3493人のうちの一人であり、死者 15841人にはふくまれていない。

  661. こうなったら、荒れ廃れた外部に対し、新しい内部の可能性をあなぐる以外に生きのびる術はあるまい。影絵の人のように彷徨い、廃墟の瓦礫の中から、たわみ、壊れ、焼け爛れた言葉の残骸を一つ一つ拾い集めて、丁寧に洗い直す、そうする徒労の長い道のりから新たな内面を開く他にもう立つ瀬はないのだ。

  662. 日本ではいま、とても空疎な政治家により「最小不幸社会」とやらがもっともらしく言われる。笑止。「美しい国」どうように、どのみち言われなくなるだろうけれども、最小とはいったいどのくらいか。最大とはどれくらいか。「生きのびることと死ぬること」

  663. ぼくが言いたいのは「繊細」ということなんだ。セケンというのは案外に敏感で繊細なんだと思う。怖ろしいほどね。きみは以前、バークレーでだったか「ナマコには目も耳も鼻もないけれど、鈍感ときめつけてはならない」とか言ってたね。セケンだって鈍感ではない。「ナマコと国難」

  664. 2011年3月11日と同じ海がいまは、ひねもすのたりのたりかな、なのである。ぜんたい、造化の主などというものがどこにいるのだろうか。わたしはもう悲しくはない。くくくと、なにか笑いのようなものさえこみあげてくる。「神なき瓦礫の原にて」

  665. 疎開先はどこも物価高だ。若者に比べ、老人は放射能の影響が少ないと、農民たちは信じている。口減らし。立ち入り禁止区域にそうして戻ってくる老人も多い。緩慢な死を待つ。だが、体のこの痛みはなんだろう。泡立つ不安。だれにでもいい、そのことを訴えたいのだ。「禁断の森」

  666. …二年前にモスクワから学者が来て食品を調べてもらったら、この土地のものはなんでも食えると言った。だから野菜も果物も魚も食べているが、現在ほとんどの住人の甲状腺が腫れたり熱をもったり、どうもおかしい。疎開先の者も含めると、事故前千人以上いた村民の百人近くが死んでしまった。

  667. 夜 / 眼がひとつ どろっと 浜に在った / 眼窩はべつの浜辺にくぼみ / 他の湾として潮をためた / まぶたとまつげは消えた / 眼はもう見ず それとして見られず / ただ どろっと 海牛のように夜の浜に在った / 宇宙の法はそうやってはじめてあきらかにされた 「眼球」

  668. 額に汗して働くという事を、こんなにも小バカにして、投機と消費を、生き残る唯一の術のように語る。国を挙げて消費や射幸心をあおり、消費者金融が大もうけしている国が、いったいぜんたいどんな道徳を語ることができるのでしょうか。それは今の社会的荒廃といった事と地続きの問題だと思うわけです。

  669. たとえばエコロジーという概念がある。意識産業によって、ある種よいことをしているという幻想を植えつけられてひとびとは、“ エコ商品 ” を買うことが善であるとおもいこまされる。結果、エコはいつしか強制的な概念となる。 「資本、メディア、そして意識」

  670. やっぱり寺山修司じゃないですが、「身捨つるほどの祖国はありや」なのですよ。僕は、僕自身もこの国も誇ることができない。現代史にも胸を張れない。これには十分な理由がある。いわゆる立派な公民、立派な国民に僕はなれないし、なる気もないし、ならなくていい自由が欲しいのです。

  671. 安全なところで屁理屈をこねたりしないで、自分が一兵卒になってどこかの前線にでも行けよと言いたくなる。あんな結構なお育ちじゃあ、戦場ですぐ腹こわして、そこいらの着弾音だけで腰抜かすんじゃないですか。「日本的ファシズムの怖さ」

  672. 余談ですが、石原、福田両氏並みに下品に言わせてもらえば、お二人にはいずれも三島由紀夫ほどの覚悟はないと思うな。死ぬ気がね。その気があればいいというのじゃないし、死ぬ気なんぞなくていいのですが、僕は彼らの話にはどうも興味がもてない。(略)そんなに戦争やりたきゃ、若者をけしかけたり続

  673. 血がでてゐるにかゝはらず/こんなにのんきで苦しくないのは/魂魄なかばからだをはなれたのですかな/たゞどうも血のために/それを云へないのがひどいです/あなたの方からみたら/ずいぶんさんたんたるけしきでせうが/わたくしから見えるのは/やっぱりきれいな青ぞらと/すきとほった風ばかりです

  674. 別れぎわにあの青年は最期の質問をしました。「3・11 後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」。わたしは宮澤賢治の「眼にて云ふ」(『疾中』所収)という詩にとても感動した、と迷わず答えました。(略)その詩の最後の十行はこうです。 続く

  675. 猿とは、アルゼンチンの詩人レオポルド・ルゴーネスの皮肉な仮説によるなら、何らかの理由で言葉を話すことをやめてしまった人間なのだそうだ。いまから九十年以上前の寓話的な散文「イスール」でそういっている。「言葉の退化」

  676. 表裏は哀しいほど一致しない。昔はダブルハットといったね。後ろ姿見て、すてきだから、はっとして、前見たら、ちっともすてきじゃないので、再びはっとして、だからダブルハット。でも、なべて人とはダブルハットであるとわかるのに二十年、表より背面が本当とわかるのにさらに十数年もかかった。

  677. 天然のウラン中の存在比を人為的に変える事とはなにか。それは反宇宙的所業なのではないか。そうした核をもちいる発電が、本当に根源的に安全かどうか。宇宙の摂理に照らせばどうなのかということを、もっともっと謙虚に考えなければならないと思うのです。「気配と予感」

  678. 妙に涙もろくなっている。心が際限なく悲しい。はっきりしているのは、よるべなさだけです。そこはかとない無常感と浮遊感。私をふくむすくなからぬ人びとがあたかも失見当識か離魂病のような“内面決壊”の症状を呈しているようです。そのことと言葉にはなんらかの関係があると思わずにいられません。

  679. が、私がもっとも憎むのは、「やつを殺せ」という蛮声に眉をひそめるふうをしつつ処刑をいたしかたのないことと内心受け容れて、日ごとの思念から不祥(ふしょう)の影をこそげ、おのれはうるわしく生きようという「知」のありようではないか。

  680. 言論状況は好転どころか、著しく悪化している。天皇、いわゆる「従軍慰安婦」、死刑制度という三大テーマは、かつてよりよほど語りにくく、身の危険を覚悟することなしに、公然と本音をいいはなつことは難しい。事実、まっとうな議論を臆せずしたがために、理不尽な攻撃を受けている人々がいまもいる。

  681. それは子どものお絵描きにもならないようなものでしたけれども。そこに私は2002年4月何日と書いたのです。その日の記録のつもりでした。それを見た友だちにごくひかえめにいわれました。「ことしは2004年だよ」と。私はゾッとしました。嘘だと思いました。とても傷つきました。

  682. やっとのことで帰ると自宅は火事で、奥さんは焼死していた。夫が玄関に外から鍵をかけていったので妻は火の手からにげる事がかなわなかったのだ。火事のもとは妻の火の不始末にあったらしい。夫は夜も日も悲しみ、のたうつように苦しんだ。玄関に施錠したのには訳がある。妻の不意の徘徊を防ぐ為だった

  683. 国家権力とジャーナリズムは絶対に永遠に折り合えないものです。折り合ってはならない。国家機密はスッパ抜くか隠されるか、スクープするか隠蔽されるか、です。記者の生命線はそこにある。いまは権力とメディアが握手するばかりじゃないですか。記者は徒党を組むな、例外をやれ、と僕は思う。

  684. 皆さんご存じだと思いますが、障害者用の風呂にはクレーンのようなもので吊り上げられて入れてもらうのです。浴槽の高さですからべつに高く吊り上げられるわけではないのですけれども、あおむいているからか脳がやられたからか、肉体的には非常な高さを感じます。「『潜思』する人びと」

  685. 「半端ねえ。まじ、半端ねえよな…」なにが半端ではないというのだろうか。課題本の内容か。レポートのむずかしさか。世の中の急な暗転の不気味さか。聞き耳をたてた。話のはしばしからテキストが小林多喜二の『蟹工船』であることはわかった。声をひそめて彼らはいう。「あんな船、まじ、あったの?」

  686. 高校の授業料無償化について朝鮮学校は当面その対象外とするという最近の方針も、北朝鮮当局のありようと在日コリアンの教育をどうやら意図的に混同しており、初歩的合理性にも最低限の道義にも欠ける。(略)にしても悲しく、苦々しい。「ニセの諸相」

  687. 抽象的にいえば、私たちの神経細胞は、同じ天皇を頂点とする世間の湿った土壌から生まれ、派生し、ひるがえって、同じ世間へとのびていく。そのなかでは、個人は薄い。愛は、とりわけ見知らぬ他者にたいする愛は薄い。他者の苦しみに思いめぐらせる気持ちは薄い。本当の意味で権力とのたたかいもない。

  688. キース・リチャーズもかつてよく木登りをしたものだ。たまに樹から落っこちてけがをして救急車で病院にはこばれた。キースって好きだな。ネコをずっとカエルだとおもいこんで飼っていたらしい。 「青い花」

  689. 白い布地には黒字で細かに経文が刷られています。風が吹くと経文が迷界をさまよう霊魂のもとに運ばれるというのです。長い年月を経た幟は、風雪にすり切れて、布地に記された幾千幾万語の経文もさすがに消えかかっています。まさに、風が文字を霊魂の元に運んでいったのだと信ずべき根拠になるのです。

  690. 僕は復興という言葉はあまり好きではないのですが、瓦礫のなかで一生懸命言葉を拾い、自分の思いを言葉にするということ自体、素晴らしい人間の能力です。自分に備わった能力を確認していくことこそが、人間の希望なのだと思います。「傷を受けて、ものを書く」

  691. 街頭での無差別殺傷事件の加害者と被害者は、次の時点には立場が逆転している可能性がある。類似の事件と相克は止揚されることなく、いま無限に反復されている。われわれはそんな世界に住んでいます。 「来るものはすでに来た」

  692. 人類がかつて経験したこともないアノミー状態にあるのに、しかし、マスメディアはそうではないかのように言い張っていますね。あたかも合理的世界がまだ現存しているかのように。我々にはまだ未来や希望や救い、従うべき人倫、共同体、規範、悦ぶべき物語、歌うべき歌があるかのように言う。

  693. 眼もあやな緋ぢりめんの長じゅばんをばさりとはおり、大股であるいてくる男を見てどぎもを抜かれたことがある。木造三階だての女郎屋とよばれていた家屋から男は前かがみででてきた。眼がすわっている。首から足首まで、それはみごとな彫りものがあり、まるで全身に青緑の肌着をつけているようだった。

  694. 死刑は地方自治体や中央裁判所が執行するものではありません。では誰が執行するのか。私はこう考えています。死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家に与えるということです。私たちがその権利を黙契によって国家に与える、これが死刑なのではないでしょうか。

  695. そんな大学構内で学生が反戦ビラをまく。また学生以外の人間がイラク戦争反対のビラをまく。それは反社会的行為なのだろうか。教職員がすっとんでくる。警察に躊躇なくすぐ電話する。パトカーがすぐきて捕える。そんなばかなと思う。「瀆神せよ、聖域に踏みこめ」

  696. プール 午後一時 紺青の水が 大いなる水がねの 溜まりと化して 浴むひとびとの 窩(くぼみ)という窩を 音なく侵す 思考はもう気化せず 液化せず ただ無化して きらめき狂う 思考は 一片たりとも 水がねの質量に担保されず 水がねの残滓の無意味としてのみ ただいたずらに発声する 

  697.  例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた。 「仮構」

  698. 社にも作家にも誠実で眼前の男の本がなんぼ売れるか売れないかを反射的に計算もできる、有能な編集者たちばかりだ。空虚だ。あまりにも空虚である。記者が編集者がディレクターが、連夜、飲み屋で評論している。「うちはだめになった」と皆がいう。「うち」ってなんだ、うちって。

  699. 元慰安婦の人たちの話というのは、言葉のレベルでは、それは違う、そんなはずはないなどと、いろいろ言われます。ただそんなの当たり前なんですよ。僕らだって一週間前の自分の経験を記憶だけで言えって言われたら全部不正確になりますよ。それが五十年前ですからね。「身体的記憶の復活」

  700.  忘れ去られた死を、もう一度、自覚して死んだほうがいい。精神の死を内面で再現し、深く傷つくべきである。そして、心の傷口で現在を感じてみる。無謬(むびゅう)の者の眼ではなく、根源的挫折者の暗い眼でいまを見てみる。すると、(略)現在のなみひととおりではない危機が見えてくるのである。

  701. いつのまにかひとびとの「無意識」に入りこんできているものがある。どんどん潜りこんできている。それは芸術でもなければ神でもない。「資本」である。資本は無意識をうばい、無意識を変型しつつある。「『無意識』に入りこむ資本」

  702. 1997年にバチカン市国は三浦朱門に対して聖シルベスト勲章を与えています。バチカンがいかにその人物を細部にわたって検証していないかという事が明確に証明されている。(略)キリスト教の宗教家が「宗教は宗教、死刑は死刑、法律は法律」と言ったとしたらそんな宗教を果して人は求めるでしょうか

  703. 枕を買いに行く。せめては枕だね、枕。寝苦しければ枕を替えるにかぎる。道すがら汗をかきかき思う。ひと口に枕たっていろいろあるな。ええと、陶枕、木枕、草枕。祝いの枕に船底枕。香枕、箱枕、羽根枕。 「マイ・ピロー」

  704. 永山の死に際し「特に感想はありません。法律は法律だし、文学作品を書く人の業績は業績です」といい放ったという作家某氏の酷薄は、おい、亀よ、ゴキリと骨の鳴く音をよそに、おつにすまして咲き群れる、この塀の外の、真白き立葵の心根にどこか似てはいないか。

  705. おそらく、われわれの遠い先祖たちの時代には、〈現〉のなかに〈異界〉が自然に入りこみ、たがいに仲よく親しんでいた時代があったのである。そしてそのかすかな〈記憶〉から、いまわれわれは、〈異界〉や冥界が身近にあるような風景を意識下で欲しているのであろう。

  706. 「むこうはこちらを見ていない。こちらはむこうを見ている」と考えるのは、相手を撮影するときのカメラマンの、あるいは表現する人間の救いがたい特権意識である。撮影行為や表現行為というもののなかには、そんな意識せざる特権意識がある。それは私のなかにもあったし、いまだにあるだろう。

  707. 小説の素人である私は、おそらく、この残酷さのなんたるかも、底知れぬ怖さも、まだ見据えてはいない気がします。だから、書くのだと思います。いくつも、いくつも書いて、私というもののケタの小ささを知り、虚しくなり、結局もう書かなくていいという理由が見つかるまで、書き続けるのだと思います。

  708. 国家の権力機関が人々の自由な表現や行動を抑えつけ、問答無用と獄に繋ぐやり方は確かに地獄に違いない。政治家や社長さんが勤労者から搾取して私腹を肥やし、人々が貧困に苦しむのも地獄だ。具体的に痛みや怒りを感じる地獄であり、こんな権力は壊さなければならない。大震災も地獄、大火事も地獄だ。

  709. 最近の若い記者を責めている訳じゃないんです。いまの道筋を作ったのは、結局、旧世代、我々だったわけだから、我々に責任がある。でも最近とても気になるのは、マスコミの会社に自分が帰属するという事と、彼方には権力というものがあるという、その境界線がほとんど意識されていない、という事です。

  710. そして、新たな災厄は、十中八九、約束されている。新たなテロの襲来は、アフガンへの残虐な報復攻撃により、かえって絶対的に確実になったといえよう。報復攻撃開始前より、いまのほうがよほど確実になった。なぜか、だれもがそれを知っている。心のうちで災厄の再来を予感している。

  711.  ときには、うすら陽に街の輪郭がみすぼらしくたわみ、どこからか鉄粉かなにかの焦げいぶるにおいが流れてくることがある。空気がいやに重くて、音という音がアスファルトに沈みこむ。ほんとうのところ、いまは朝なのか夕方なのかいぶかってしまう。「音なく兆すものたち」

  712. これは不思議なことに資本の運動法則によくなじんだのです。迂遠な苦労とか苦心とか、そういうものがなくなって、情報の伝達と情報の受容が、資本の移動同様に、パソコンで即座にできるということが当たり前になってしまった。ぼくはむしろそこに恐ろしさを感じます。「時・空間の変容」

  713. このくだり、シビれるよね。あんた、シビれないかもしれないけど、おれは超ばかだから、とってもシビれるね。上まででっかい石をもちあげて、山頂までやっと運んだとおもったら、それがまた下に転がっていく。それをまた拾いにいかなければならない。(「シーシュポスの神話」を読んで)「思索と徒労」

  714. 多少屈折はあっても、彼の思想は維持されている。逮捕されてから37年間変わらないものがあるとしたら、国家に対する徹底した不信でしょう。内面化するにしたがい、彼の句から抵抗の精神が薄まっていったかというと、そうではない。明らかに句境は深まっている。「深化する言語、維持する思想」

  715. 拉致問題にからみ、われひとり「善政」を敢行せり、みたいな顔つきで連日善玉パフォーマンスに余念のない安倍晋三官房副長官が、平壌から帰国後、テレビ番組に出演して慇懃(いんぎん)かつ冷淡に語っていた。コメ支援など「検討すらしておりません」と。「恥」

  716. だって現実にいま、首都直下型地震が起きてもおかしくないわけだから。2011年の3月11日を起点にした情勢だけで、これからをはかることはできない。もっと三連続地震みたいなものを前提にしなければならないとしたら、原発だけの問題にとどまらない。「記憶の空洞化」

  717. 世間の成員に求められている姿勢とは諧調、ハーモニアスであること。協調的であること。なによりも大勢にしたがった意見をいうこと。大勢の人がすることが世間にとってただしいことになるわけです。大勢の人がしないこともまた世間にとってただしいことになる。「ギュンター・グラスと恥の感覚」

  718. 世の中がコーティングされていることにたいするいらだち。そのコーティングの一枚下はもっとひどいもので、人の血や涙が全部ペンキで隠されている。あるいは若い人たちの孤独感、世界からの切断感、それがみんなコーティングされている。「駄作としての資本主義」

  719. ぼくも経験があるけれども、編集会議にでると、みんな一面から三面まで暗い記事だから少し明るいニュースも入れようよという。そんな事実がどこにあるのかとおもうのですが、かならずそういう無意識の演出と操作がある。マスコミが日常を操作し、その色合いを決める。これはある種のコーティングです。

  720. 自分にはモニター画面しかない。顔も体臭も感触も分らない。不特定多数の人間がモニター画面の向うにいて、その人間と書きこみで交わる。それが真の交感になるでしょうか。ぼくはならないとおもう。交感にならないことを毎日毎日やらねばならない。そして、モニター画面でその孤独の埋めあわせをやる。

  721. 私は青森県にあった永山則夫の住まいを見に行ったことがあります。見るからに貧しい家でした。家中にトイレのにおいが充満していました。その家で彼は母親と暮らしていた。母親は魚市場に行っては落ちている魚を拾い、それを売って生活費にしていたといいます。たいした金額にもならなかったでしょう。

  722.  当時政府は、「国旗・国歌法ができても強制はしない」と言っていた。しかし実際に国旗・国家法が通ってみると、案の定、学校現場では徹底的な強制が行われて、少しでも反対する教員には、情け容赦ない処分が行われているという状況です。「個々人の実践的なドリル」

  723. 私が驚いたのはエイズウィルスが混入している恐れのあった非加熱製剤の在庫を、厚生省がある段階で調べて、何億円に当たるかを計算していた事。そして加熱製剤を認可するまで、その危険な非加熱製剤の出庫を野放しにしておいた事。被害者達は在庫処理のために犠牲にされたんじゃないかと疑いだしている

  724. 青年はときおり演説をやめようとして口にわが手を必死であてがうのだが、口は別の生き物になっていてたえまなく話しつづけた。かれは鼻筋のとおった美しい面立ちをしていた。白昼の夜戦はじつに熾烈をきわめた。青年はいまや涙を流していた。おれも泣いた。「夜戦」

  725. それよりじきに / 口中いっぱいに割れた黄身がひろがって / ぽとぽと喉へと滴っていく幸せの予感に / 私 Y はおもわず眼を細めてしまう / 喪の列の私 X がそれとてもつとに察知して / いよいよ憤慨し / いとどに泣いているのも知らずに 「黄身」

  726. だれかが猫の首を切ったとか報じられることがあるけど、もっとシステマティックに大量に、しかも “公的に” ペットは殺されていて、その全行程を消費資本主義が無感動に支えている。あの殺しの装置は各自治体がもっていて毎日毎日、この国の空にはペットをやく煙が上がっているわけですよ。

  727. 国家が個人の心のありようまで覗きこもうとし、無遠慮に容喙(ようかい)してくる傾向は時とともにますます著しくなっている。このままいけば、私がよりどころとしている内面の自由の領域は、ちっぽけな孤島のようにたよりないものになる恐れもなしとしない。

  728. 当時、「あの弁護団にたいして、もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と、視聴者にうながした弁護士が大阪府知事に就任しました。テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさもこの国に特有の日常です。

  729. 私はふたたびマザー・テレサの言葉を思いだします。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」。ほの明るい病棟を想起しながら私はこの言葉にうなずくしかありません。私たちは自分に都合のよいものだけを愛していると彼女は告発します。やさしさというよりも凄みがにじむ至言ではないでしょうか。

  730. 私は本書ではこころみに「愛と痛み」というもっぱら痛覚の深みから死刑を考えてみる。死刑にふれることは私という思考の主体がそのつど痛み傷つくことである。しかし、死刑を視野にいれないことは、思念の腐敗にどこかでつうじる、と私はおもっている。痛み傷つくのは、したがって、やむをえないのだ。

  731. ひとつ…観覧車はいくら回転しても1ミリだって前進しはしない。永遠に宙を浮いては沈み、ひたすらにめぐり、めぐるだけだ。(略)ひとつ…観覧車は大地の裂け目から突然に生えでた花の、その残影みたいに、儚い記憶でしかない。ひとつ…観覧車はなにも主張しない。ひとつ…観覧車にはなんの意味もない

  732.  そのものたちの眼の沼にはぷかりと私が浮いていた。彼らのぬるい沼に私はたゆたっていた。私はうごうごとしていた。私は海鼠であった。彼らの眼の沼を泳ぐ海鼠の影であった。言葉は溶けていた。惨(みじ)めでさえなかった。すべてうごうごとしていた。

  733. 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定どおり絞首刑を行うような狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ。「自問備忘録」

  734.  助手席にはベトナム人アシスタントのT君がいて鼻唄をうたっています。ときどき、「雨のシトシト降る寒い日には、犬を食えといいます。ねえ、こんど犬食いに行きましょう」などと、雨なんか降ってもいないのに話しかけてきます。「葬列」

  735. 人という生き物は、まったく同じ条件にあってさえ、他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができるふりをするのがどこまでも巧みだ。孤独の芽はそこに生える。慈しみの沃土に孤独の悪い種子が育つ。

  736. 湾岸戦争、アフガン、イラクへの攻撃がある。アメリカが落としている爆弾投下量というのは本当にすさまじい。そして、爆弾というのは熱量でもあるわけです。私はずっと思っているのですが、核実験も含めて戦争で使われた爆弾から生じる熱量は、環境全体に計り知れない影響を与えてきたに違いありません

  737. 突きつめて考えてみれば、いまの私には彼に話すべきことがらは多くはなかったのだ。死についていいおよぶのは、どうあってもためらわれた。同じ理由から晴れやかな生について語るのも無神経なことに思われた。とすれば、どうしても話さなければならないことなど結局なにもなかったかもしれない。

  738. さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討する有識者会議なるものをたちあげて同自衛権行使に“合法性”をあたえようとし、マスメディアの多くもこの超右より路線にずるずると引きずられていったことだ。 「メルトダウン」

  739. いま忸怩として思いをいたすべきは、この低劣なる見識のもち主が執政期間中に「美しい国」づくりや「戦後レジームからの脱却」を声高に唱え、教育基本法を根本から改悪して教育現場を荒廃させただけでなく、憲法改悪のための国民投票法を成立させ、さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討−続

  740. その意味合いでは、詩を書いている方が自分の内奥に正直なのだろうと思います。ただ、私は記者時代のノンフィクションが長いわけですけど、もともと書く事にボーダーを作らない。純文学とか大衆小説とか、あるいは詩とか散文とか、そういうジャンル分けの様なものを最も意識しない人間だろうと思います

  741. 新たな眼の戦線ができるとすれば、眼の自由、意識の自由から構想されるだろう。私たちの眼はもはや自分の眼ではない。他から埋めこまれた義眼である。操作されつくしているこれまでの眼球は棄てるべきである。眼窩で現状の白い闇の奥を見とおさなくてはならない。「謎と自由」

  742. 老者はあのとき、ビーフジャーキーのような手首に、手錠をはめられ、連行の途次であった。にやけた刑事によれば、老者は人殺しであり、五年の無言の行のすえに、ついに狂れた、インチキ行者である、という。刑事は押し殺した声でいった。悪いが話しかけるな。聞くな。見るな。ただ忌め。ただ忌めばよい

  743. あの姿は、かれらにとっては、ひとつの美であり、文化であることだろう。それをわれわれは同時代にいきなり引きずりこんで、カメラで、テレビで写したがる。そのような特権意識はどこからきたのか。なんのことはない。すべて金に置き換えただけの話ではないか。「倒錯した状況のなかで」

  744. もう一つ、メディア状況で僕がいけないなと思うのは、さっきの権力との境目がなくなってきた事に加えて、執拗さがなくなってきた事です。事件を追いかけたり、調べたり、構想したり、跡づけしたりする時の、物理的、時間的、精神的な執拗さが、著しくなくなってきた。怒りにも持続性がなくなってきた。

  745.  しばらく前、新幹線にのってその人に会いにいった。延命治療はすでにことわっていた。身内によると、その種の治療をほどこすかどうか医師に問われたとき、その人はやや恥いるように、消えいるように、けれどきっぱりと、「もういいです…」といったらしい。「キンモクセイの残香」

  746. なにごとにおいても私は過剰なものですから、リハビリも全力をつくしてやりました。一日一回、かならず階段を上り下りしないと、それができなくなるものですから、近くのデパートまで行って上ったり下りたりを繰り返しています。「瞬間と悠久と」

  747. 護送車やパトカーの窓から、大抵は手錠や腰縄をかけられたまま、大都会の風景を眺めたことが何度かある。デモで逮捕された東京で、公安当局に連行された北京で。いうまでもなく、それは護送車やパトカーが走る大都会の風景を、通りを自由に歩きながら眺めるのとは大違いである。「書く場と時間と死」

  748. だれのものでもないはずの、つまりだれのものでもあるべき水が商品化されて、貧困者が清潔な水を飲めなくなってから久しいわけです。いまや、水でさんざ金儲けした企業が、「ミネラルウォーターを買ってアフリカの子どもたちに清潔な水を届けよう」などというキャンペーンをやっている。

  749. おそらくぼくを見れば、「ああ、なんてひどいんだろう」と、多少のショックを受ける人は少なからずいるでしょう。でも、傍目(はため)で感じられるほど、本人はそうでもなくて、それはぼくのいやなところでもあるのだけれども、妙に建設的なところもある。「“無” を分泌し、ただ歩く」

  750. 逆に、携帯もパソコンも非常に快調に受信し発信できているとき、検索もスムーズにいくとき、なにか妙に朗らかになったりする。つまり、自分の生体というものがデジタル機器の端末と化している。その好不調で自分の内面の色あいが決められている。それはおかしい。「端末化する生体」

  751. 「〈思い〉はみえないけれど〈思いやり〉はだれにでも見える」という宮澤章二の詩行も、まるで洗脳のように反復放送されました。わたしはこの反復放送がとても気になってなりません。これはサブリミナル広告のような社会心理学的に重要な効果を生んだと思われます。「言語の地殻変動」

  752. 愛国心という精神の統御の問題は、国家が個人の内面に土足でずかずかと干渉してくるという面だけでなく、この偽造された精神がかならず国家によって物理的に回収されるという目的性のあることです。すなわち「愛国」の一点で悪しき国策への同意や服従を求める、ということ。「惨憺たる昔と『いま』」

  753. 「このあたりの水は、海がすぐ近くなものだから、塩水も淡水もまざりあってるのね。海でも川でもあるというわけよ。変な水ね。汽水というらしいわ」(略)「汽水っておいしいのかしら。来てはいけない魚が来てしまうの。さっきのイシダイみたいに。でも汽水には汽水の魚しか棲めないのよ」

  754. 身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・ 基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。

  755. でも中国と戦争やるのか、ロシアと軍事力を競うのか。(略)そうしてこの国がいくら軍備を増強したって、あんなマンモス象みたいなのにどうやって対抗するのだと、その非科学性を言っているんです。九条死守より軍備増強のほうが客観的合理性を欠くのです。

  756. 先ほど、私は原発の話をしたけれども、あの福島原発と、多くの他の原発の前提には、事故は impossible という、非常に不遜な、傲慢な前提があったにちがいありません。これは過誤、誤りと、科学技術の過信、自然に対する傲慢さときめつけがしからしめたものではないかと私は思います。

  757. 三月を生きぬいた / 青い蛇たちが夏 / 牽牛星アルタイルのもとに / 距離十五光年の夜を / くねくねと飛んでいく / 宙はいま あんなにも深い / 木賊色だ / うねくるいくすじもの / 青い蛇の径を見あげて / こころづく / ーーものみな太古へとむかっている

  758.  命を捨てて国を守る意識って大事ですか? 僕はそうは思わない。この国が命を捨ててまで守らなければならないような内実と理想をもった共同体かどうか、国という幻想や擬制が一人ひとりの人間存在や命と引き合うものかをまず考えたほうがいい。沖縄戦の歴史のなかに正しい解答があるでしょう。

  759. たそがれどき、南千住の界隈を歩いていると、腰から足もとにかけて不意にべらぼうな重力を感じ、地中にひきこまれそうになったり、空足を踏んだりすることがある。だから逢魔が時なのだというより、正確には、その頃からしののめにかけて、たぶん、地霊のたぐいがうち騒ぎ、独特の磁場を生じるからだ。

  760.  男とばかり思っていた野宿人は、男を装った、中年の女なのであった。野宿人がこのところ増える一方だけれど、女性はじつに珍しい。男を偽装してまで、東京を流浪しているわけはわからない。つらいな。ひどいなと思う。 翌日、女は消えた。存外に大きい乳房の形が私のまなうらに残った。「目玉」

  761. 私より十五年は長く生きている会社の役員が嘆くのを聞いた事がある。愛だの恋だのへちまだのといいおって。春闘だの賃上げだのへちまだのと冗談じゃないよ。…これは、いわゆる、へちま文である。打ち消したい事実や行為、主張を指す名詞の羅列の最後に、へちま、この一語をさりげなく配するのである。

  762. 懺悔するな。/ 祈るな。/ もう影を舐めるな。/ 影をかたづけよ。/ 自分の影をたたみ、/ 売れのこった影は、海苔のように / 食んで消せ。/ 生きてきた痕跡を消せ。/ 殺してきた証拠を消却せよ。/ しずやかに、無心に、滑らかに、/ それらをなすこと。 「世界消滅五分前」

  763. それはなによりも、新聞連載時の最初から最後まで、読者の方々から予想外に多くのお手紙を頂戴したからである。ものを書くという孤独な航海で、これほど励まされ勇気づけられることはない。読者こそが航海の友である。それはときに羅針盤になり、ナビゲーターになり、気つけ薬にすらなりうる。

  764.  いっそ政治など一言も語らず、柄ではないが、低徊(ていかい)をもってひたすら趣味としたくもなる。しかし、そうするのはなんだか滑稽な気もしないでない。言葉吐く息の緒が、吐いたとたんに腐り、変色するこの空気から、誰が逃れられるというのだろう。「言葉の退化」

  765. かくして「死刑執行」の四字は、痛みも叫びもなく、修正液であっさり人名を消すかのような印象しかあたえない。すなわち、国家は背理の痛みを感じさせない隔壁をしつらえており、マスコミの多くは隔壁を突破するどころか、隔壁の重要部分を構成して恥じない。「背理の痛み」

  766. 川端康成さんが自死した事件で、僕は割合早く現場に駆けつけた記者の一人なんです。驚いたのは現場が当時としては非常に近代的なマンションだった事。さらにギョッとしたのは、そのマンションの周りに人工芝が敷いてあった事です。川端さんの小説に対する僕なりの想いがありましたから、不思議でした。

  767. 実体的な扇動者がやっているわけじゃない。大阪の橋下という青年がやっていることは憤飯物なんだけど、彼だけが元凶ではないね。彼は真犯人ではなくむしろファシズムのピエロなのです。じゃあ誰が操っているのかというと、誰でもない砂のような大衆と選挙民個々の無意識が操っているんじゃないかな。

  768. 乳を搾っては、夜、川に流す。牛乳は脂肪分があるので川面に浮かぶ。川面が真白になってしまう。夜がすっかり乳くさくなる。月光に川面が白くてらてら光る。一面の妖しい川明かりだ。「川さ、乳ば、牛乳ば全部流すんだよ。ふふふ、天の川さ、ミルキーウェイだべさ。いままで、なぬやってきたんだべ…」

  769. …牛を殺すわけにはいかない。生きていれば、乳がはる。ほうっておくと乳房炎になるのだ。かわいそうだから毎日搾乳してやるわけだ。何缶も何缶も牛乳がたまる。線量はわからない。線量なんてもう測らない。どうしようもない。値がいくら低くたって、だれも買うわけがないのだから。しかたがない。

  770. その点、チェットはちがった。彼は最初から最期まで崇高な目的をもたず、むろんそのための努力もなんらすることなく、屁のように無為であった。音楽表現、人物ともに、どこか客観的実在性を欠いた、なにやら仮象のようなミュージシャンであったのだ。

  771. おそらくいまの若い人たちは小銃弾というものがどのぐらいの大きさをしているかも知らないと思う。小銃弾が人の身体を貫通したときの穴の具合も知らないでしょう。被弾した男はどういうふうに悶え泣き叫ぶか。それから迫撃砲で吹っ飛ばされた人間の肉というのがどういう色をしているか。

  772. むしろ、デビッド・リンチとうまくつきあうには、フリークスを笑って楽しむ遊び心が必要だ。自分を笑うように、または日本のツイン・ピークス、永田町のフリークスをへらへらと笑って眺めるように。リンチ自身、そう望んでいる。懊悩なんかいらない。もともと意味も謎もありはしないのだから。

  773. 悠然と泳いでいるから、てっきりワニかと思ったら、オオトカゲなのだそうだ。あろうことか、たった一匹で大海原を渡っている。地をはう格好のまま、首を潜望鏡みたいにぐいっともたげて、波間を進んでいく。見ようによってはネッシーのようである。ゴジラのようでもある。「オオトカゲ」

  774. 画素や走査線が増え、解像度が高くなったというテレビ映像が、その分だけ、内容が薄っぺらになり、想像力を喚起しなくなったのはなぜなのか。あれほど映像鮮明にして、ばかげたテレビ番組を流すことのできる人間精神はどのように形成されてきたのか。

  775.  犬の灰の一部はこの施設の花壇にひっそりと撒(ま)かれていた。せめては土に還り、土を肥やし、花を咲かせて、その霊がとことわに宇宙をめぐり循環するよう私は念じる。「棄てられしものたちの残像」

  776. 空前の大ペット関連市場をもつに至った日本では、一方で、公的機関が毎年数十万匹の犬と猫をガス室で殺し、焼却処分している。捕獲された捨て犬、捨て猫がほとんどだが、少なからぬ飼い主がペットに飽きてしまうか、飼育の手間を厭うようになるかして、自ら「処理」を依頼してくるのだという。

  777. にしても、ゴミ袋のなかからハンバーガーやフレンチフライを選り分ける男たちの背中が、切なく、そして気のせいかやや禍事(まがごと)めいて見えてくるのはなぜだろう。この消費資本主義では、膝を屈してモノを拾うよりも、景気よくモノを棄てる方を正常とする、思えば不思議な常識があるからだろう 

  778. とすれば21世紀にも観覧車は死に絶えるという事がないのであろう。それどころか地球のあちらこちらに色とりどりの花のように開花するかもしれない。大いに咲き乱れるといい。迷妾という迷妾をゴンドラにのせて宙を巡りめぐるがいい。一回転すれば一回転分だけ迷いが静まるだろう。私はそう信じている

  779. きっと、走るという光景は、人になにか切迫した異常を告げるのだろう。走るために走るなど、到底信じがたい虚構なのだ。摂りすぎたカロリーを燃焼させるために走るなど、できそこないのSFに等しいのだ。「走るというフィクション」

  780. いっそ、ヌーヴェル・ヴァーグ初期のフランス映画みたいに、モノクロ映像、音楽なし、最小限のナレーションなんてTVニュースをじっくりと観てみたい。色、音ともに潤沢なニュース映像よりよほど想像力がわきそうだ。豊富すぎる情報でぼくらは判断力を奪われっぱなしなのだから。

  781. 自分のグラスは自分で洗いたいですか、といった調子の、媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いなのでした。僕は記銘にかなりの問題ありと言われていて、事実、言われた先から物事を忘れるのですが、この「セーキは自分で洗いますか?」は記憶としてすぐに深く体に着床しました。

  782. この臆病者めが。この2年でお前は体重を15キロ失い、少なくても10年分は老けた。頬は深くえぐれ、頭髪の多くを失い、首の皮膚など死んだ亀のようにたるんで、かつては怒り狂って火を噴くようにも見えた両の眼はいま、まるで濁ったまま涸れた沼のようだ。「自分自身への審問」

  783. 眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」に向かい、視界が反転するなどという、調理中の烏賊(いか)のような躰のめくり返しが、全体、人間にもあるものなのでしょうか。脳の病のせいでしょうけれど、ぼくにはそれがあったのです。「内奥を見る」

  784. ジョジョ。ジョジョは死んだ。あとがまのファーファも死んだ。痕跡もない。アモイからメールがきた。アモイにもコビトがいる。ハマグリもいる。青いウツボもいる。アモイのコビトもふくみ笑いをする。ウィーンからメールがこない。ウィーンの雪はかわいている。小麦粉のように。( 11.2.4 )

  785. 蛸を鈍感ときめつけるのは、しかし、ひどい偏見かもしれない。蛸は死なないどころか、実際は短命である。ストレスが高じるとみずからの足を食ってしまうほど感じやすい。無脊椎動物のなかではもっとも高い知能をもっていて、記憶力も抜群である。その血は青く、詩的でさえある。(09.6.30)

  786. 信頼できる友人らによると、東京拘置所は拙稿「犬と日常と絞首刑」所載の新聞(6月17日付朝刊)を黒塗り(閲読禁止)とはしなかった。たしかめえたかぎり、少なくとも一人の死刑囚が拙稿を読んだという。その事実の性質、軽重、示唆するものについて、あれこれおもいをめぐらせている。「私事片々」

  787. 毎年三万人以上の自殺者、なんらかの精神疾患をもつ人は一説に八百万人ともいわれ、増えつづける一方の失業者、貧者たち。震災・原発メルトダウンは「棄民」に拍車をかけています。これがこの国の実相です。

  788. NHKが巨額のお金を投じて制作した「坂の上の雲」には開いた口が塞がりません。日露戦争における日本人の勇ましいこと、美しいこと。満州・朝鮮の支配をめぐって戦われたじつに悲惨な戦争なのに、本質が隠され、民族心昂揚があおられている。被災地でも「坂の上の雲」が人気だといいます。

  789. 「いっしょに骨拾いをしてくれます?」。いっしょに七並べをしましょうといった調子の軽やかなその声が、荒亡の果てに佐渡に引きこんだ彼の、不意といえば不意、予期したとおりといえばそうでもある死に様には、なんだかとてもふさわしいようにも思われたから、私はすこしも悪い気がしなかった。

  790. 戦時下でも、たとえ核爆発があっても、ワールドカップ・サッカーとオリンピックはつづけられ、大いにもりあがるだろう。大手広告代理店が戦争関連CMをつくるだろう。日本人宇宙飛行士のコメントと日本の新聞の社説は、ひきつづき死ぬほど退屈でありつづけるにちがいない。

  791. どういうわけだか、ものみな拉(ひしゃ)げて見える、ぬるく湿気った夜、ホームの端に立ち、朧に歪んだ三日月を眺めていたのだ。月というより、あれはまるで夜空の切創(せっそう)。傷口から光沢のある黄色の狂(たぶ)れ菌が、さらさらきらきら、駅に降りそそいでいる。伝染性の狂れ菌糸だ。「幻像」

  792. 非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

  793.  風景が波濤にもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。

  794. わたしは長い間、この言葉を意識してきました。『眼の海』を書いているときもずっと意識していました。「自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代」とは、市民運動をも巻き込む新しい形のファシズムなのではないか。そんなふうに思っています。

  795. これが真景なのです。こうした現実は報道されません。ですから、報じられたものは偽造なのだと。なぜマスメディアは死を隠すのか。地獄や奈落と向き合わないのか。それは死に対する敬意がないからだと思うのです。(略)二万人の死体を脳裡に並べてみよ、と言いたい。

  796. 戦争という、人の生き死にについて論じているのに、責任主体を隠した文章などあっていいわけがない。おのれの言説に生命を賭けろとはいわないまでも、せめて、安全地帯から地獄を論じることの葛藤はないのか。少しは恥じらいつつ、そして体を張って、原稿は書かれなくてはならない。「社説」

  797. いつか父を誘った。葦の原にしゃがんで父を殺すことをおもった。ここでならやれるとおもった。父もわたしがそうおもったことを丈の高い葦ごしに気づいているのをわたしは知っていた。父はわたしにやられるのを、魚のいない入江に釣り糸をたれながら、まっていた。「赤い入江」

  798. それは、芸術であれなんであれ、ジャンルやカテゴリーに分類せずにはおかない現代風なやりかたにたいする、強烈なアンチテーゼであるといえよう。じっさい、ジャコメッリの創作は既成のどこにも分類しようがない。かれは、そんなやりかたに関心がないのである。

  799. そんな昼下がり、おじいちゃんおばあちゃんはなにをするかといえば、ロビーに車椅子を並べて無言でテレビを見る。グルメ番組、旅番組。しかし、だれもそんな番組を面白がってはいない。テレビからの音だけが虚しくロビーに響く。一人として笑わないし、みな眼はうつろだ。

  800. グルメ番組、くだらない解説、CM。みんながテーブルに一列に並んで、世の中についてこもごも喋る。弁護士が、よくこんな暇があるなというくらい登場する。国会議員が朝から晩まででている。あれも恥だと思います。口を開けて見ているぼくも恥だと思うのです。恥辱というのは、そういうものです。

  801. どうして…と私は訝しみ花の奥を探ると、A子さんは顔を伏せ近寄りがたい程寂しげな眼差しをして、木槿に身を隠すようにゆっくりと遠ざかっていった。紅紫の花の色が映り横顔が燃える様だった。私達は又も言葉を交わさずに別れてしまい、やがて木槿の事も彼女の事も記憶の抽斗の暗がりに消えてしまった

  802. こんなにも暗いのに、タールみたいな水面が葉影を映している。畔になにかが膨れて浮いていた。人か。水にうつ伏せている。やっ、首がない。S.S か。だが、大きすぎるし、体型がちがう。あれは S.S ではなく、たぶん私だ。「閾の葉」

  803. 現に、口が裂けても歌いたくないはずの「君が代」を歌うことが制度化されてしまったとたん、みんなが平気で歌っている。泣きながら歌うわけでもなく、歌うことで魂が傷ついているようにも見えない。挙げ句の果てに生徒に教える。それが戦後民主主義の集合的な不服従の実態だったのではないでしょうか。

  804. 阪神大震災でも、あるいはアメリカのハリケーン被害でも、良好な居住地、堅牢な家に住んでいる富裕層はひかくてきに被害が少なかった。禍は万人をひとしく襲うのではない。貧困階級と弱者をねらいうちにしてくる。あらゆる災害から貧困層や弱者はひどい苦しみを受ける。そこに被害が集中する。

  805. 垂線からもっとも遠いところにいると思いこんでいる無邪気な者たち、すなわち、自己を無意識に免罪している者たちや幸せな詩人や良心的ジャーナリスト、インチキ霊能者らの内面よりも、私が人殺しのそれのほうにより惹かれるのはなぜであろうか。

  806. 男のつぶやきが聞こえてくる。「この顔は、なぜ顔でなくてはならないのだ。なぜ人はなによりもまず顔を見ようとするのだ。存在のなかで最も存在をうらぎる顔というものを存在の証とするのはなぜだ。ない顔に想像の顔をかぶせてまで顔をつくろうとするのはどうしてなのだ…」。臓腑に響く低音であった。

  807. 日常はすでに壊滅しているはずである。なのに、皆が口うらあわせて日常が引きつづいているふりをするのはなぜか。黙契をこれまでどおりつづけているのはなぜだろうか。「自問備忘録」

  808. そこで絞首刑に処されてさらに深い奈落へと落ちてゆく。泣き叫ぶ声も鉄板が二つに開く音もロープが軋(きし)む音も頸骨(けいこつ)の折れる音も読経の声も、刑場の外にはまったく漏(も)れはすまい。そしてそこもやけに明るいのだろう。奈落はたぶん妙に明るいのだ。「側」

  809.  ふと訝(いぶか)しんだ。彼は地下の刑場に連行されるとき、このエレベーターに乗せられるのだろうか。まさか。おそらくどこかに確定死刑囚を地下刑場に下ろすための特別のエレベーターが隠されているにちがいない。ここの死刑囚は予告もなくある朝突然に、死のエレベーターで地下刑場に移送され、続

  810. そんなある日、私はある〈行為〉にでくわした。いつも私の前に例の質問をされている〈認知症〉のおばあちゃんが、どうしたことかその日は質問の最中に眠っていた。いや、それは「寝たふり」であり、そうすることによって彼女は質問に耐えていたのである。「生に依存した死、死に依存した生」

  811. きれいなじつにきれいなある晴れた朝に、9.11 のような壮絶なテロが起き、たくさんの人が死ぬ。そのことの「道理」が、だれにもわからない。そういう世界にわれわれは生きている。 「『時間』との永遠のたたかい」

  812.  人類は頭ではだめでも、胃袋で連帯できるのかもしれない。少なくも、食っているあいだぐらいは。もの食う人びとの大群のただなかにいると、そう思えてくるのである。

  813. 母はどれか。父はどれか。伏せた遺体をめくりかえしてみもしたのだが、しっかり正視したかどうかはうたがわしい。こころのうらでは、父や母や兄弟姉妹でないことをねがいもしていたというから。疲れきって、じぶんがなにをしているのか、ほんとうはなにを乞うているのかもわからなくなった。

  814.  先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉えきれないほど膨れていた。「長く放置していたからですよ」と医師が語った。恐らく、政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう帰れない。どこに行くのか、思案のしどころだ。

  815. すでに見る者の心は乱されている。少年の顔はまるで他の写真から切りぬいてここに貼つけられた物の様でもあり、そういえば物象全体の遠近法も画角も不自然である。少年と黒衣の婦人たちとの遠近は曖昧であり、道の傾斜も遠近の勾配とどうもふつりあいで、見るほどに不安にかられる。「スカンノの少年」

  816. まずこの本の著者のいわば法的規定は元テロリストであり元犯罪者であり確定死刑囚なわけです。それが表象するのは「極悪人」でしょう。しかしながら、彼のひととなり、表現する俳句、詩といってもいいけれど、それはまったく法的規定とは異なる高い品性、文学的豊饒さと深みを湛えている。

  817.  いままさに死にゆくひとの手をにぎったことがあり、ずっと忘れられない。よりそう者のいないさびしい死であった。死にゆくひとは、からだから枯葉をはらりと一枚落とすように、かすかな声を洩らした。「ワ……」と聞こえた。呼気音ではなく、唇がふるえたから、うわ言のようであった。「末期の夢」

  818. 現在、生きてあるのは、いわば凍結処理されているみたいでもある。解凍するとすれば、そのまま死刑執行になる。そういう責苦があるから、生を考えれば考えるほど、死が必ず迫り上がってくる。いきいきといまを感じたり、生命を感じながら、同時に死を感じざるを得ない。まさに絶境です。

  819. ぼくは、自分のことを自覚的なPPJだとおもっています。 P・P・J 、つまり、パーフェクト・ポンコツ・ジイサン。はっきりいって、本当にそうおもっている。「たれもが夭折の幸運に恵まれているわけではない」とエミール・シオランは書きましたが、そのとおりだね。「PPJ と許せる自己像」

  820. この世界では強者の力がかつてとは比べものにならないぐらい無制限なものになりつつある。一方で、弱者が、かつてとは比べものにならないぐらい、ますます寄る辺ない運命におとしいれられている。そうなってきた。

  821. 声もでないほど怖かっただけだ。天井しか見えないその姿勢がつらかった。もっと生きたいとすら発想しなかった。ただ戻りたいとねがった。いったい、どこに? 健康だったころに、ではない。たんに、すぐそばの無機質な白いベッドに、である。「ヘルニアとおかっぱ女」

  822. 半身不随になった私は深夜、病院のベッドから落ちて、一時間以上もあおむいたまま背面で床をずりうごきつづけたことがある。ナースコールのボタンに手がとどかず、うらがえしのカメみたいにむなしくうごめいた。だが、みじめなその体勢で半生をふりかえることも将来の不幸をおもうこともなかった。続

  823. 上からの強制ではなく、下からの統制と服従。大災厄の渦中でも規律ただしい行動をする人びと。抗わない被災民。それが日本人の「美質」という評価や自賛がありますが、すなおには賛成しかねます。

  824. むろん。Kよ。賢い君がいまひどく悩んでいることをぼくは知っている。つらいから、ときに眼を閉じ、耳をふさいで仕事していることも知っている。ぼくはもう君に対し過剰な批判はしないだろう。静まったのだよ。火焔の錯視で、かえって平静になった。悩むかぎり、ぼくはずっと君の味方だ。

  825. すべての明け暮れが絶えておわれば、これからは明けるのでもない、暮れるのでもまたない、まったきすさみだけの時である。いまやぞっとするばかりに澄明な秘色(ひそく)の色に空と曠野はおおいつくされて、畏れるものはもうなにもない。恥ずべきことも証すべきこともない。「酸漿」

  826. つまり、日常の変化が一見して緩慢ならばさし迫る危険を危険とは認めず、現状に安住しようとする。激変にはあたふたとするけれども緩やかな変化にはまことに反応が鈍い。とすれば、われわれはすでにBF症候群にかかっているのではなかろうか。「ゆでガエル症候群」(Boiled Frog Syn)

  827. おそらく例外なく人は夢のなかで “ 空を飛んだ ” 経験をもつ。誰もが地上をかすめる様にかなり低く飛んだり、一転して高く舞いあがったりするあの感覚を、目が覚めても覚えていよう。その感覚を海辺の風景の映像はみごとに再現している。どうしてそんなことができるのかただ茫然とするのみである

  828. そのような倒錯した世界を異様だと感じないほうが異様である。ところが現実には、CMの世界のほうを正常だと感じ、CMがないと逆に寂しくなるというひとがずいぶん存在する。それが生理的に身についているひとがずいぶん存在する。異様が正常になろうとしているのである。

  829. 資本と同一化した映像の代表は、たとえばテレビのCM映像である。これをたんなる商業映像とあなどってはならない。ひとびとの意識と無意識にはたらきかける影響力、ひとびとを誘導してゆく力の強さにかんしては、CM映像が他の映像のすべてを凌駕しているのが現実なのである。「映像と資本の腐れ縁」

  830. 日本社会では不正や不公正への怒りの感覚と表現が、権力と事実上一体化したマスメディアのすぐれて一面的な報道や野党の去勢化の結果、今やほぼ消滅しかかっており、人々はわずかに「怒るべきではないか」→「いや、怒ってもしょうがない」という健全にして穏和な心理プロセスを残しているのみだという

  831. 〈 死んだ小鳥が水に落ちたような音 〉 が聞こえてくる。これはある作家がカメラのシャッター音をたとえたことばなのだが、これ以上幽玄な形容を私は知らない。マリオ・ジャコメッリの映像を眼にするときはいつもそうした音が耳の底にわく。水とは人のいない山奥の湖かもしれない。

  832. 私は人非人と断じられることによってしか私の「人」を容易にあかしえはしない。その逆では慙死するほか行き場はない。この件について明証の義務をなんら負わない。完膚ない人非人としてのみ私はやっと安眠を眠りつくすことができるのだ。それ以外の眠りは眠りたりえない。「眠り」

  833. ずいぶんおくれて、/ 首なし馬が / わが首を追って、/ 私のなかの / 霧深い / 青い夜を、どこまでも / 横倒しに流れてくるのを、/ ゆめ忘れるな。 「青い夜の川」

  834. (略)それに、これは笑うしかない体たらくなのだが、半身麻痺という障害をもったまま独り暮らししている私にとっては、手術のための入院だろうが何だろうが、三食上げ膳据え膳の好環境は、いつわらざるところ、大助かりなのだよ」

  835. 「何度もいうが、自死はいまだ行使せざる私の最終的権利であり、また、果たしえない夢なのでもあり、癌の手術とまったく矛盾しはしない。自死は、その未知の闇にいつも大いに惹かれるものの、私にとっては、実行を永遠に留保することによってのみ残される最期の想像的自由領域なのかもしれない。続

  836.  麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのだった。その像は、うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群に重なる。

  837. 結局はそこに想到したまさにそのころ、かわいたアフガンの大地であれほど白銀色に光り輝いていた金属片は沢山の人々の手の汗や脂にまみれて茶色に錆びてきていた。それらはあたかも人の血を吸ったようでもあり、人体の奥深くから剔抉したもののようにも見え、持ち帰った当初よりよほど凄みを増していた

  838. それにしても、昨今のデモのあんなにも穏やかで秩序に従順な姿、あれは果たしてなにに由来するのであろうか。あたかも、犬が仰向いて腹を見せ、私どもは絶対にお上に抵抗いたしませんと表明しているようなものである。 「大量殺戮を前にして」

  839. 見渡すかぎり、やはりジャコメッリの写真や夢のように、景色は白々とそして暗々と脱色され、深閑として音を消されている。友人たちは腰をかがめ、ひとつまたひとつと屍体をみて歩いた。何日も何日も。ひとのおおくはたんに部位にすぎなかったから、ひとりまたひとりではなくひとつまたひとつと覗くのだ

  840. 鈍色(にびいろ)というどすんと重くて冷たいことばを、空がいつもそうだったから、子どものころからからだで知っていた。もともとはツルバミで染めた濃いねずみ色のことで、平安期には「喪の色」であったことなどは、長じておぼえたのである。その空から、はらほろと雪が舞いおりていた。

  841. 事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。

  842. 震災当初は、カメラをむけたらいやでも屍体を撮ってしまうほどといわれた現場なのに、テレビや新聞は丹念に死と屍体のリアリティを消しました。なぜそうする必要があるのかわたしにはわかりません。(略)いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈 続

  843. 家を出ると、ぎょっとするほどたくさんの星が瑠璃色の天空いっぱいに輝いていた。 バナナの葉という葉に、発光虫みたいに星がとまっているように見えた。遠くの星が一つ、また一つ斜めに線を引いてバナナ畑に流れ落ちた。 ナサカもいつか、土に還り、バナナになり、星を見るのだろうと私は思った。

  844. 幸福な詩人には、彼や彼女の年収の多寡にかかわりなく、国家(あるいは内心の国家)との黙契が無意識に成立している、と私が決めつけてしまうのはなぜであろうか。(略)だが、私自身と幸せな詩人達には殺意にも似た底意地の悪い感情を抱いている。幸せな詩人達が猫なで声で語る善にしばしば総毛立つ。

  845. 逆に、いまの為政者たちが社会的な非受益者たちに対して注いでいるまなざしとことばがぼくには納得がいかない。気に食わない。怒りも感じる。あんた方が世界に対してもっているマチエールとかれらのもっているマチエールはちがうよと。高みから見て想定しているものと全然ちがうのだといいたくなる。

  846.  誤解を恐れずにいえば、ぼくは六十数年間生きてきて、いま、鬼気迫るほどにね、興味深い世界がきているとおもうのです。鬼気迫るほどに、足がすくむほどに怖いこの時代に、どう生きればよいか、自覚的な個であるとはどういうことなのか。 「人智は光るのか」

  847. 救う、助ける、手を差しのべる、慈しむ…以上の高次の関係性を、私たちはもっと想像してもよいのではないでしょうか。(略)現在、焦眉の課題は貧困の救済にあるようにいわれますが、また、それには道理がありますが、事態の焦点は遅かれ早かれ、救済からたたかいへと移るのではないかと僕は予想します

  848. 堤防を海にむかい左にいくと灯台だった。右にいくのをだれも好まないのに、わたしは右にいくのを好んだ。右にいくのをだれも好まないわけをだれもおしえてくれず、問うてはならないのだろうとわきまえて、わたしも問いはしなかった。「赤い入江」

  849. 私には自分の思想傾向が “過激” だなんて意識は少しもありません。先ほどもいいましたが、むしろ穏当にすぎるし凡庸すぎるくらいに思っております。歴史とはときに徹底的なものだとだれかがいいましたが、現在、過激なのは世界そのものであり、状況の変化であります。

  850. 「爆弾をしかけられてあったり前だ」という石原慎太郎の暴言にも怒らない。とくに大きな問題とも意識されていない。石原のような最悪の人物がなぜ三百万以上も得票するのかぼくには謎でしたが、この大学にきたら、そのわけがなんだかわかるような気もしてきています。「もっと国家からの自由を」

  851. 誠実で学識深く訥弁(とつべん)の学者よりも能弁なテレビタレント(ないし、タレント兼学者)を、よしや彼が香具師(やし)のような者であれ、ばか学生たちは喜ぶのである。ま、人間からなにを学ぶかという観点からするならば、これとてかならずしも排除すべきことがらではないけれども。「でたらめ」

  852. 学校帰りにはよくしゃがみこんでオジギソウと遊んだものだ。悪童どももそのときばかりは集団ではなく、なぜだかそれぞればらけてひとりになり、一抹の孤独感や内省を重ねて、マメ科のその野草にそっと指をさし向けたものだ。「センシティブ・プラント」

  853.  痴漢と断ぜられた青年はピンでとめられた昆虫の標本みたいにぴくりともしない。いや、そうしたくてもできないのだった。彼を捕捉した乗客たちがさっきから捕捉のその姿勢を解いていないからだ。(略)みながごく当然の市民の義務を果たしているとでもいうように無言であり、無表情なのだ。「幻像」

  854. 窪みのなかに、数十年にわたる、おそらく数百人分の汗や体液や涙を感じ、それらとぼくの分が交わる奇妙な悦びをおぼえながら、気色の悪さも忘れ、世界中でこの窪みだけがたしかな空間である気さえして、ひたすら眠るのです。「旅路の果て」

  855. この一年、どうにもならない事を、それでもどうにかしようとしどおしだった。3月11日の前には思いもしなかった人にたいする悪意と毒と愛が、気どった皮膜をやぶってむきだしになり、じぶんがてっきり備えているとばかり信じていたモラルの根っこが、まったく意外にも、しばしばぐらついたという。

  856. 橋のむこうに中州があり、そこに岡田座という映画館があった。わたしは『鞍馬天狗』や『紅孔雀』や『ゴジラ』や『二十四の瞳』を見た。映画を見たのを「観た」と気どって書く習慣はそのころ、そのあたりにはなく、わたしはいまも、イングマール・ベルイマンの映画であっても、たんに「見た」と書く。

  857. 他方、このたびの東日本大震災では、未曾有の災厄とか「言葉もありません」というたぐいの常套句が語られるだけで、出来事とその未来にかんする自由闊達な言語化はあまりこころみられず、瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望も感じられません。

  858.  言葉はせめて無骨な樹肌のようなほうがいい。ないし、樹液のようなほうがいい。 私は樹陰に隠れ、想像にふける。樹液のような言葉を、倒木の根かたのあたりに隠れて助けを待っていたという若者はときおりたらたらと赤く薄い唇から吐いていたのではないか。「森と言葉」

  859.  福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の168個分という記事に、わたしはまだしつこくこだわっています。無意識で透明な残忍性をその文面に感じてしまうからです。「膨大と無」

  860. 秋葉原事件についてつづられたおびただしいブログのなかで〈犯人は捕まったのに、なにが“真犯人”かわからないのが悲しい〉という趣旨の若者の文章に私はひかれた。昔日との相違点はまさに、悪の核(コア)をそれとして指ししめすことのできないことなのかもしれない。「幻夢をかすめゆく通り魔」

  861.  酒でもふるまいたかったのだが、麻痺がひどくてできなかった。 すまない、すまないと思い、ぬるい風のなかをよろめきながら帰った。 〈沖縄タイムス記者のインタビュー〉 私事片々(2012/04/10)

  862. 3時間休憩なしで問われつづけ、答えつづけた。このためだけに那覇から飛んできたのだ。手を抜くわけにはいかない。 記者は相当に予習してきた。わたしは静かにおどろいていた。目つき、口ぶり、声。わたしは苛立たなかった。 塩をみやげに頂戴した。 続

  863.  前に回って見れば、あれで結構口尖らせて「けっ、てやんでえ」くらいは、わざと下品に毒づいたりしているのだ。体の前面は誰しも嘘つきだから、威勢のいいふりをする。立ち退きを命じられて、段ボール片手に去っていく男たち。はらほろりと背中に終わりの花が舞う。桜におぼろの、背中たちの溶暗…。

  864.  夜来の雨に散った桜が路面を点々、薄い血の色に染めていた、そんな朝だった。もう半年も前のこと。熟(こな)れのわるい風景として、いまもまなうらにある。 11階のビルの屋上から、若い男が飛び降りようとしていた。 「三点凝視」

  865.  ガスとは、証言者によれば、ガス室で殺された後、穴に埋められたおびただしい数のユダヤ人が、山河の瘴気(しょうき)のように屍から発しつづけたそれのことである。すると地面が波立つ。私の想像では、風景がゆらゆらとたなびくのである。 「記憶を見る」

  866. 夜が、穹窿(きゅうりゅう)形の巨大劇場になって、激しい光の踊りを見せていたのでした。黒い森から、ヒュルヒュルと照明弾が上がり、樹海を束の間の真昼にします。東の丘陵から速射砲が、シュパシュパと次々に青白い火を吹きだして、四十度角の光の斜面で、鋭く夜を切っていきます。「迷い旅」

  867. しかし、病前に重要と考えてきたことのいくつかは、いや、かなり多くのことがらは、実際には、この社会で〈重要とみなされている〉だけの、本質的には虚しい約束事とか符丁(ふちょう)に過ぎず、人間身体が本然的に欲していることとはちがうのではないか、そう思います。「自己身体として生きる」

  868. ぼくはこのことにひどく傷つきましたが、同時にとても神秘的だと思いました。ぼくは年号、日付だけでなく自分の正確な住所、郵便番号、電話番号、銀行の暗証番号、いくつかのメールアドレス、パスワードなど、つまり社会的に必要不可欠とされるIDのほとんどを一時、完全に失念してしまいました。

  869. IT成金のなかには、この世の中にお金で買えないものはないと言放った青年もいた様ですが、確かにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、今の社会のうそ寒さと釣り合うようです

  870. 自分が世界とどうかかわるかは、あらかじめ定まっているのでなく、個々人の想像力が決めると思います。たとえば、恋を語らっているとき、家族で和やかに団欒しているとき、巨大な鳥の黒い影のようなものが一瞬胸をかすめて突然、不安になったり不機嫌になったりして、ひとり沈黙の沼に沈むとします。

  871. 人が亡くなるということはもちろんつらいことですが、それ以上に、今ここにいるはずの人が不在であるという事に私は深い悲しみを覚えます。彼女の存在は私にとっては微光というのでしょうか、ささやかでそれ故とても尊い光のようでした。眩しい光ではなくひとすじの微光がよいと私はいつも思っています

  872. というのは、いま流通している言葉はほとんどコマーシャルな言葉、ないしはほぼコマーシャルに侵された言葉、コピーだからね。これはぼくの言い方で形容すれば「鬆(す)の立った言葉」でクリシェ以下だ。そのような言葉をじぶんは使わない、というより、そのような言葉には使われたくない。

  873. 全的滅亡の相貌。敗戦によっていったんは想い描かれたそれは、2011年3月11日の出来事によって、いま再び想起されているだろうか。どうもそうとは思えない。この社会は大震災による数えきれない死の痕跡を必死で隠し、かつて垣間見た全的滅亡の相貌をきれいさっぱり忘れ去っているのではないか。

  874. ズボズボはやがて死んだ。学校はズボズボの死についてのホームルームをもった。皆が石を投げた事があると告白した。あたったかどうかは分らない、と。私も発言し、ズボズボの思い出を作文にした。投石対象を失った悲しみとズボズボのいない世界に生きる虚脱感について書き、三日後にはズボズボを忘れた

  875. 死刑に関するかぎり、この国とそのマスコミは、言葉の最も悪い意味で、“社会主義化”してしまっている。ほら、すぐ近くの某人民共和国顔負けなのだ。国際社会の非難も勧告も聞くものではなく、国内で議論すること自体、なにかとんでもない禁忌をおかしているかのような雰囲気がいまだにあるではないか

  876. ヒャラヒャラと/笑っていたようである/飛ぶ首にかんしては/それ以外の諸現象は事実ではないので/他に伝えるべきではない/一個の首が蒼天を西の方に/ビュービューと飛んでいった/ただそのことのみを想像せよ/首が天翔(あまがけ)た/秋立つ宵/私はじっとそれを見あげていたのだ/私の生首を

  877. しかしながら、米国によって殺された人々のために費やされてきた言葉は、殺された米国人のために費やされているそれに比べ、情けなくなるほど少ない。(略)米国人一人の死は、たとえば、アフガンの住民あるいはイラクの住民百人、いや千人の死に、事実上、匹敵する、ということだ。

  878. 二十世紀百年間における戦争、革命、地域紛争で殺された人間の数は、兵員よりも非戦闘員が圧倒的に多く、ざっと一億人に近いのではないかといわれる。二十世紀は、人類史上、人が最も多く人を殺した世紀であったのだ。では、もっとも多く殺したのはどこの国なのだろうか。(略)答えは、自明なのである

  879. こんないたって大真面目な話をしていると、臭い息をして、腐った眼つきをした男たちがヘヘンと笑う。なんだかがんばってるね、でも意味ないよ、と。冷笑、シニシズムです。そして嬉笑、つくり笑い。あるいは嗤笑、あざけり。これを殺す必要がある。「自分のなかのシニシズムを殺す」

  880. 記者であることの恥辱。あるいは作家であることの恥辱。そして人間であるがゆえの恥辱。ただ見ることの罪と恥。これがそもそもなにに由来する罪と恥か、その淵源を私はしばらく考えなければなりません。だから、可能であれば、今しばらく生きたほうがいいと思うのです。醜く生きればいい。

  881. 若いときには「反戦」を唱えていた文化人が老いてから紫綬褒章かなにかを受勲して、平気で皇居にもらいにいく。旧社会党の議員でも反権力と見なされていた映画監督でも平気でいく。晴れがましい顔をしていく。ここには恥も含羞も節操もなにもあったものではない。 「瀆神せよ、聖域に踏みこめ」

  882. 難しい言葉ですが、日本語に「愧死(きし)」という言葉があります。深く恥じて死ぬ、恥のあまり死ぬ、という意味です。「慚死(ざんし)」ともいいます。愧死する。慚死する。ほとんど死語ですが、そういう言葉があります。「人間であるがゆえの恥辱」

  883. ★〈管理者から〉… 出来うる限り原文に忠実に、を心掛けておりますが、字数の関係上やむなく変更する場合もあります。 (例)わたしたち→私達 われわれ→我々 さまざまな→様々な……等。 句読点を省略せざるを得ない場合もあります。 ご了承ください。

  884. メディアの責任は大きいと思います。ただ、メディアの責任といった場合、どうしても僕らは人格的に考えがちだけど、集合的な意識であって、誰も責任をとろうとしない。結局、僕は個体に帰すると思うんです、「個」に。つまり私はどう考えるか。どう振る舞うべきか。自分はどう思うのか、どうするのかと

  885. 例えば闘牛場に行けば「オーレ」と叫びます。この言葉は誰もが知っています。しかし語源が「 神からの」というアラビア語である事を知るスペイン人は少ないでしょう。このように、ある文化の中身を掘り返しはじめると、様々な他の文化からの影響が重なり合って層になっている事を発見する事ができます

  886. もう今更危機感なんかないね。来るものはすでに来たのだから。現在は大いなる日の「事前」であると共に「事後」であるとも考えられる。これから出来(しゅったい)するだろう恐るべき事はむろん多々ある訳だけれども、すでにして生起してしまったカタストロフィだけでも充分、絶望に値すると思っている

  887. 墓場だったそこには便器と骨壺が割れていっしょになって散乱し、先祖代々の古い人骨と新しい人骨がおそらく混ざりあっていたのです。論理も正義も秩序も正気も狂気も涙もあったものではない。そう思いいたったときに、かえってなにか心の静まりのようなものを自分のなかに感じました。

  888. けれども近年、世界は私が投影する像をとっくにこえて疾走し、私を置去りにして暴走している。私はキリスト者ではない。が、最近、世界の未来をかんじるには、私の経験則やジャーナリズムのいうことよりも「ヨハネの黙示録」でも読んだほうがよっぽど心の深くに訴えてくるものがあるな、と思ったりする

  889. 背中というのはしばしば他をさえぎる盾になる。無関係を示すには他人に壁のように背をむけてふりむかないことだ。背は、だが、一面の大きな耳になってしまう事もある。私の背後の声がいった。「花の咲く音を聞きにいこうというもんだから…」。花の咲く音というのが面白くて、壁だった背中が耳になった

  890. 主語を消しさることで責任を無限に拡散し、ついに罪を無化してしまうのでなく、日本による侵略・大量殺戮の犯罪をふくめて、ひとつひとつ責任の主体をくどいほど問いつづけ追いつづけて、自他の罪の質と所在をあかす重い労苦を、この国の戦後はなぜ担わなかったのか。「百日紅はなぜ怖いのか」

  891. 原爆死没者慰霊碑の石室に刻まれている「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の文言をじかに見たとき、ぬぐおうとしてもぬぐいきれない違和感に悩んだ。(略)過ち?だれによる、だれにたいする、どのような過ちなのか。それを、だれが、どう、つぐなわなくてはならないのか。続

  892. 障害者が、あるいは年老いた人々が、排除されてもよいものとして路上に放りなげられているときに、それを痛いとも感じなくなって、わが身の幸せだけを噛みしめるような人生というのはなんてつまらないのだ、なんて貧しいのだ、なんてゆがんでいるのだという感性だけは失ったら終わりだと思いたいのです

  893. NHKの受信料を払わなければならない理由もわからない。町内会は監視カメラをつけましょうといってくる。防災訓練参加を呼びかけられる。思えば日常というのは吐き気がするような制度だらけなわけです。一切合切を「しないほうがいいのですが」といいたくなる。 「第三の暴力」

  894. 学校では「君が代」を歌わなければならない。日の丸に向かって起立しなければならない。会社ではサービス残業をやらされる。マスコミが国民の義務の様にいう投票。選挙に意味を見いだせない時、棄権はなぜだめなのか。なぜ私達が納税して自民党や民主党の政党助成金を捻出しなければならないのでしょう

  895. でも権力に対する異議申し立てというのは、もっと強い拒絶の意思表示であるような気がします。蚊の泣くような声で、「願わくば、しないほうが助かるのですが」という調子でなされる表現の形式。ここに、かつても今もない苛烈で圧倒的な拒否、世界への「ノー・サンキュー!」があるのではないでしょうか

  896. じぶんは、しかし、亀にならないと信じている。/ 坊主はすでに亀の顔をしているのに、/ じぶんは亀にならないとおもっている。/ 因業坊主の思念の条痕を、/ 右手と右足のない石亀が、/ 水面に首をもたげて見つめている。「回向院の因業坊主」

  897. 坊主は亀を愛していない。/亀は下品だとほとんど憎んでいる。/えさをやらない。/亀たちはとも食いしている。/手足や尻尾が欠けている。/因業坊主は知っているくせに、/えさをやらない。/亀たちは、もとは、ひとである。/佐藤や阿部や亀田や手代木だった、/と因業坊主は認識している。続

  898. まったく悩まずに実行したために罪を犯したという意識が薄い。だから忘却する。そのくだりが私の胸に刺さった。A氏は敗戦後、中国の捕虜収容所でやっと犯行を思い出し、「生体手術演習」で殺した中国人の母親の手紙を読まされたのをきっかけに過去を深く反省しはじめたのだと語っている。

  899. 血がにおいたち、死臭が私の部屋にも満ちてきた。それでもAに対する死刑執行に反対するか、自問した。ややあって自答した。絶対に反対する。そして、眼に見えぬ私への脅迫者に対し、もう一度つぶやいた。おい、くるならきてみろよ。「わが友」

  900. この連載を一冊にまとめた『永遠の不服従のために』の刊行記念サイン会をした。いつもなら、麗々しい儀式を恥じ入る気持ちと闘いながらやるのだが、今回はちがった。事前に「爆弾をしかける」という脅迫電話が入ったものだから、恥よりもなによりも、私は緊張で身構えていた。 

  901.  午前零時、一個だけ食べた。 面相に気をつけて、脂下(やにさ)がらぬように、わざと憮然として。 ああ、でもこれは視界もワイン色に霞む甘さなのである。たちまちに記憶の赤い豆ランプが灯るのだ。 「桜桃の夜」

  902. 出席者のなかに一人、光を失った老婦人がいた。瞑目し、ピアノでも弾くように両の手を塩の棒に伸べている。指先で岩塩の声を聞いている。仰いだ細面は誰よりも遠くを見はるかしていた。まなかいを、おそらく、塩原のあの白い光と熱風がよぎっていたはずである。「魔法の塩」

  903.  あれだけの出来事ですから、やむをえないなりゆきだったのかもしれません。しかし、どうしても腑に落ちないのです。得心できないのです。出来事と己の関係のありようがなにかよくわからない。自分の位置、居場所がわからない。 「内面の決壊」

  904. ああ、わたしは、この廃墟と瓦礫の源となる場から生まれてきたのだなあと思わされたし、わたしの記憶を証明してくれる、あかしてくれるものが、いま、壊されてしまったのだという失意が、自分が見つもる以上に非常に大きく重いものだということを、日々、痛いほど知らされているのです。「記憶」

  905. 「うん、ルリギクみたいに青いね」。私はハッとする。想定が少し乱れる。紙をほおばる人はそのような比喩をしないものと無意識にきめつけていたから。ルリギクとは「瑠璃菊」と書くのだろうか。私は頭のなかで漢字の書きとりをする。瑠璃の偏を一、二度まちがえてから、やっと書けるようになる。

  906. 選挙のたびにもてはやされる能弁でグッドルッキングな若手候補者というのもなんだか苦手だ。ごくごくまれにおそろしく口下手の医師や店員、お役人にであったりすると、立て板に水ではないという、ただそれだけの理由でじわっと情味を感じたりするのだが、これは過ぎたおもいこみか。「声の諸相」

  907. ビクトルは持参のバケツに渓流の水をくみ、沸騰させる。それにジャガイモをいれる。サケの頭を投げこむ。頭を取り出し、こんどは胴。それにウオッカを注ぎ、ウイキョウ、タイム、コショウを入れた時には、待ちきれず、私の喉(のど)がゴロゴロ鳴った。 「美しき風の島にて」

  908. 「でも、あの海の水の量…」サエコが海を指さした。「ほんとうは、理由のある適量なのだと思うわ。いま現在は、あれ以上 1cc でも多くても少なくてもいけない理由があるのよ。この水羊羹の水みたいに」  「赤い橋の下のぬるい水」

  909. だから、本当に取り戻さなければならないのは、経済の繁栄ではないのではないかとぼくはおもうのです。人間的な諸価値、いろいろな価値の問いなおしが必要なのではないか。でなければ、絶対悪のパンデミックは、いったん終息してもまたかならずやってくるだろう。もっとひどいかたちでくるかもしれない

  910. 沢山の失業者が生まれてきているのですが、でも、防衛費の減額というのは微々たるものなのです。一発数千万もするようなミサイルの実験なんかを平気でする。あれをやめたらいいのではないかと僕はおもう。しかし実際にそれをいおうものならば、なにかすぐ怒られかねない雰囲気がどこかにでてきてしまう

  911.  たとえば、人間と人間の関係が商品や貨幣の姿をとってくる。ぼくという人間が、年収いくらの人間であると、それがあたかも僕の生来の決定的価値のように判断されてしまう。そうでしょうか。人間の価値が貨幣で表現できるものでしょうか。

  912. いまの金融恐慌は、負債までも組みこんだような証券をアメリカが世界中にばらまいたことに端を発しています。これはなにに似ているかというとウイルスです。新型ウイルスのように世界中にまき散らした。でなければ、こんな世界の同時不況なんか起きはしない。「価値が顛倒した世界」

  913. 生あたたかな雨がふっていた。飲みのこしのスープのようにしゃきっとしない雨だ。小学校の門を入ると湿った粘土のにおいがたちこめている。投票場になっている教室までの通路にはぬかるみに青色のシートがしかれ、赤土がへばりついたそこをたくさんのアリたちが忙しく行き来していた。「アウラの記憶」

  914. くすんだ赤レンガのその個人医院にはあまり手入れされていない庭があって高木が影を落としている。草ぼうぼうのなかを二十歩ほどいくと待合室である。いつも屈託していて草花などに眼もやらないのにその日歩をゆるめたのは、熱(いき)れる草むらのなかに涼しげな青い花を見たからだ。水中花をおもった

  915. 眼の位置の転換ーそのわけを、うまく説明することはできない。ただいえるのは、うすれゆく意識のなかで路面から世界を見あげる生体が、見おろす者の信条とはまるでかかわりなく、生きたい、生きたいとこい願っていたことだけだ。私はそれを台上でさとった。 「台上にて」

  916. チェットの「My Funny Valentine」は、無垢をよそおった悪魔の吐息とささやきである。(略)チェットは毒物を合成してつくった妖しい香水をまくような歌唱と演奏を、声がかれ、歯がぬけ、神経を病み、怪異な容貌となっても、死んだその年までこりずにくりかえした。

  917. 「ユーゴスラビアのこの戦争はいったいなんなのですか。憎しみだけではないですか」この戦争に宗教は大きな責任があるのではないか。食や性から罪が生じると学ぶよりもっと大事なことがあるではないか。「まず、殺すなとなぜ唱えて歩かないのですか」出て行けと怒鳴られるのを覚悟で私は言いつのった。

  918. およそホテルというところに逗留(とうりゅう)している客で、心から幸せそうな顔をしているひとを、私は見たことがありません。金持ちもそうでないひとも、幸せとは違う、なにか翳(かげ)りある、いわくありげな表情をしているとは思いませんか? 「ハノイ・ヒルトンにて」

  919. 私たちは一呼吸するたびに、一歩歩くごとに、食べ物を一回噛むごとに、愛を語るごとに、詩を一遍書くごとに、死ぬごとに、生まれるごとに、資本主義に奉仕しその延命に手を貸しています。市場はわれわれのためではなく、われわれがもっぱら市場のためにあるのです。「存在の原点」

  920.  いつどこでだれをという予定も絶対にいわない。死刑囚本人に告げられることもほとんどない。ある朝、足音が近づいてきて、そのまま刑場に連れて行かれる。死刑囚は何年もそのときを待つことになる。だから死刑囚にはイメージとしては数万回の死が訪れているわけです。「死刑と禁忌」

  921. 日常の襞のなかに隠れた禍々しいものを、私たちは無意識に無視する傾向がある。それでは日常の深みや日常の裂け目はいつまで経っても見えてこないでしょう。 「忌む」という言葉があります。「斎む」とも書きます。畏敬すべき崇高なものや不浄なものを、神秘的なものとして恐れ避けるという意味です。

  922. ああ、これは涙の色だなと連想したこともある。見ていると正直、気持ちが冴え冴えとしてくる。冴え冴えとしてきはするけれど、やがてはその澄明(ちょうめい)と快感が、まるで薬物のせいのようにも感じられて、そぞろ不安になってくるのだ。美しさがどうも妖しい。「たんば色の覚書」

  923. 大事なことというのは派手派手しい現象の、むしろ陰にあるということ、聞きたい声、聞きたい話というのは凄(すご)いボリュームで語られるその音の陰に、幽(かそ)けき声としてあると考えるようになりました。「視えない像、聞こえない音」

  924. だいたい食料からイヌのえさまで外国につくらせる、世界に冠たる消費国家で、人倫や愛国を語るのがチャンチャラおかしい。 そして、豊かといわれ飢え死にする人もいないのに、人の心性は戦後どの時期より暗い。 「明るい暗がり」

  925. こんなことでは、朝鮮半島や台湾海峡で、一朝(いっちょう)、地域紛争が起きたらどうなるのだろうと暗澹(あんたん)とします。NHKを筆頭に、大マスコミが大本営発表の垂れ流しだけになるのは目に見えている。 「ジャーナリズムの根腐れ」

  926. その秋山さんとお話して興味深かったのは、自分は「普通のオジサンだよ」とおっしゃるような気取らない方なのですが、ミールから見た地球について語りだすと表情がすっかり変わり、「夜の地球は薄いピンクの心臓だった」とか、まるで詩人のようになることでした。私はこれだな、いいなあと思いました。

  927. わからない。おとこがなにを言ったか、おれには読めない。ゴトリゴトリ。碁盤が歩いてくるような音だ。血の気の薄い唇はもう閉じられている。さっきの影の口のうごきのとおりに、おれも口をうごかしてみる。影はもうドアのむこうに消えた。おれは瀕死の魚みたいにまだ口をうごかしている。 「挨拶」

  928. 憂悶はつのり、泣きたいような哄笑(こうしょう)したいような心もちになります。で、力なくぼくは呟きます。「物言うな、かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」

  929. とりわけ、健常であるということと暴力の関係。(略)いまのぼくは誰かに殴られそうになっても、暴力で対抗するどころか相手の拳を避けることも走って逃げることもできない躰になってしまいました。小学生にでも突き倒されるような躰にね。「狂想モノローグ」

  930. ぼくは葦の原にもぐった /うずくまって身を隠した / 入江にはなにもなかった/ 太陽に暈がかかった/ 鼓膜がどうにかなったと錯覚するほど/ 音が死んでいた / 入江がゆっくりと兆していた/ 葦は影絵だった/ 入江は孕んでいた / 入江は疲れを孕んでいた / 入江は疲労であった

  931. 死んだ犬をうかべる渚が / 暮れなずむ陽を映して / さっきほのかに / 思弁めく反照をした / 3シーベルトの水面を /ひとひらの青紫のクロッカスの花弁が泳いでいる /そのそばに殻をかぶったホヤがひとつ /不発弾としてころがっている 「わたしはあなたの左の小指をさがしている」

  932. 音はあったはずですが、記憶にはなぜかのこっていません。無音でした。そうとしか記憶していません。巨きな波の崖は、そびえたったままの姿勢で、なにか海が上下ふたつに別れて、上側がずれるようにして、陸側にせまってきました」 「ーー災禍と言葉と失声」

  933. 「雪がななめにふっていました。その空をたくさんの鴉がみだれとんでいました。鴉は山からとんできたのです。どうしてとんできたかはわかりません。雪は白い緞帳みたいでした。ぶあつく見えたのです。大津波は緞帳をつきやぶり、ぬっと姿をあらわしました。波はまるで断崖絶壁でした。 続

  934. 大震災後、感覚に失調をきたしているのは、わたしだけではあるまい。揺れと大津波のフラッシュバック。破壊と喪失のとめどない悲しみ、不安。悼みと虚脱。原発禍のなか、せまりくる次の大震災。あてどない未来……。人びとの情動は、おそらく戦後もっとも大きなゆれ幅で日々うねりをくりかえしている。

  935. 断たれた死者は断たれたことばとして / ちらばりゆらゆら泳いだ / 首も手も足も舫いあうことなく/ てんでにただよって/ ことばではなくただ藻としてよりそい / 槐の葉叢のように / ことばなき部位たちが海の底にしげった / 水のなかから水のなかへ / 水のなかから水のなかへ

  936. 「これは三年前の、古い粉だよ」彼女の家の小麦畑は戦争でセルビア側に占拠されたのだ。小麦粉と卵と塩を大きな手でこねている。だんごになったところで麺棒で薄くひき延ばす。「水は一滴だって加えちゃいけないの」独りごちるのだが、水はもう入っているのだ。涙がぽとぽと小麦粉に滴っている。

  937. おそらく、少年の首は、闇に潜んでいたピアノ線上に、一個の音符のように、ポカッと浮いたのだ。首が、全音符になった。そして、ピアノ線の下を、首のない胴体を乗せたオートバイが、何事もなかったように通りすぎたのだ。「ミュージック・ワイア」

  938. 「白塗りのトラックが街をヒタ走る/何処までも 何処までも/真赤になるまで」。あれっ?と僕はおもう。秋葉原事件があったからでしょう。ある種の既視感のようなものがわくわけです。人の表現能力、潜在意識みたいなものは、じつはこういう闇の部分というものをふくみもつものだとぼくはおもうのです

  939. ファシズムはじつは魅力的なのです。登場時のいでたちはとりわけ英雄的に見えたりする。腐敗を正して、ゲイやレズビアンを撲滅して、民族の優越性をいいつのって、文化を統制していく。そこに惹かれていく人間たちがいたし、これからもそうでしょう。

  940. それで何十億ものお金を使っているとしたら、その何十分の一でも回して、労働者の馘首をやめるべきではないかと思う。でもそれはありえない。だれもやらない。大臣だって首相だってそうでしょう。経済が回復するまで当分、閣僚級、次官級の給与を半分にし貧困対策にあてるともいわない。絶対にいわない

  941. はっきりしているのは、今日の危うい風景が、激しい議論の末に立ち現れたのではないこと。 黙ってずるずると受け入れてしまったのだ。 「再びテーマについて」

  942. 見れば、麺にからまって蠅の何匹かはすでに死んでいるではないか。単なる事故死ではない。これは自死に近いのだと思う。(略)かつてプノンペンの食堂でも蠅の自殺を見たことがある。うどんのどんぶりに突入してきたのだった。私は助けなかった。蠅を浮かせたままうどんを食った。「風景と身体」

  943. ある特殊事情が「周辺事態」なる奇怪な言葉を無理に誕生せしめ、翻って、この言葉がある面妖な状況を生成せしめている。(略)国家意思は、かくして、なし崩しに受容され始めているのである。文法を敢えて侵してまで「周辺事態」を認知させねばならなかった起草者たちの底意が十分解明されないままに…

  944. 韓国の老婦人が私に記憶を語った。「小川でね、みんなしてね、しゃがんでね、洗うのよ、四十個もね。つらかったですよ、これがいちばん」ラングーン(ヤンゴン)の慰安所で昼間使用した避妊具を、夕食後に並んで洗った。それは連日のセックスよりもなさけなかったという。「記憶を見る」

  945. 大震災後の言葉に名状しがたい気味悪さを覚えるのは、言葉の多くが、生身の個のものではなく、いきなり集団化したからではないでしょうか。ファシズムには、じつはこれと決まった定義はないのですが、言葉が集団化して、生身の個の主語を失い、「われわれ化」してしまう共通性はあるように思われます。

  946. 歴史観、宇宙観、人間観は、時代の進行とともに深まっているのではなく、むしろ退行しているようにさえ感じます。マイカーもテレビもパソコンも携帯電話も原発もなかった昔のほうが、一部の人びとは、いまよりも心の視力にすぐれ、表現が自由闊達であった可能性があります。「時代の進行と退行」

  947. 多くの人びとが呪文の裏の意味を探ろうとしました。目的不明のCMは国家権力が〈放送せよ〉と命じたものではありません。民放テレビ各局が言うなれば「自主的」に流したというのです。しかし、自主的に放送されたはずの言葉は不気味なほど基調が似ていたのです。「心の戒厳令」

  948. たとえば「あいさつの魔法」という歌が、気が遠くなるほどなんどもなんども流されました。「こんにちワン ありがとウサギ 魔法の言葉で 楽しいなかまが ぽぽぽぽーん」という歌詞は覚えたくなくても全国民の記憶にすりこまれました。

  949. ああ。ため息が出る。気持ちのいいことで、恥ずかしくないことなんてあるだろうか。十月の浜辺に横たわり、積雲とその下の海原を薄目に見て、まどろむ。気持ちよくて、気持ちよくて、なにか背中のあたりが気恥ずかしくはないか。「赤い橋の下のぬるい水」

  950. おそらくは無言の鱗茎にかぎるまい。夜は夜のことごと、昼は昼のことごと、こちらがそれと感づく以前に、徐々に静かに生成され、醸成され、ある日気づけば、もはや取り返しのつかない巨大な形象となって眼前にぬっくりと立ち現れることって、この世には存外多いにちがいない。

  951. 通勤者たちは通勤者で一分でも遅れまいとして職場を目指していく。なにがあっても職場を目指していく。新聞記者は新聞記者で職務に一生懸命で、報道車両はいくらでもあるけれども、別にそれで被害者を運ぼうとはしない。背中をさすろうともしないというわけです。「オウム事件とメディアの荒廃」

  952. ホルマリン漬けのあの赤ちゃんたちの凄まじい形象に衝撃を受け、憤りを感じることができても、枯れ葉剤やナパーム弾と戦った兵士が何年も暮らしたトンネルに、ぼくはたったの三十分も耐えられないのでした。「赤ん坊」

  953. この褐色の赤ちゃんも、われわれ日々もの食う者たちの一人なのだ。働き手がない。安全なミルクが買えない。危うい母乳を飲ませてでも、さしあたりいまを生かすしかない。世界にはこんな食の瞬間もある。ほんとうに静かだ。 私だけが震えていた。「バナナ畑に星が降る」

  954. 私はある予兆を感じるともなく感じている。未来永劫不変とも思われた日本の飽食状況に浮かんでは消える、灰色の、まだ曖昧で小さな影。それがいつか遠い先にひょっとしたら「飢渇」という、不吉な輪郭を取って黒ずみ広がっていくかもしれない予兆だ。たらふく食えたのが、食えなくなる逆説、しっぺ返し

  955. そのせいもあって、私の友人の在日コリアンたちの多くはいま、失意のただなかにある。みずからはいささかも関係のない拉致事件について、まるで故国を代表するかのように詫びの言葉を口にする在日二世もいる。そんな必要はまったくないのに。「歴史と公正」

  956. 夜行列車の停車駅はいつだって異境です。軌条の果てにも、無論、空漠とした異境しかありません。どこまで行っても。しかし、そこに降りたちながめると、ひとも街も、荒れていようがいまいが、いつか見たことのあるもののような、不可思議な懐かしみを感じてしまいます。「ナイト・トレイン異境行」

  957. 足下を、骨と皮に痩せた褐色の中型犬が、通り過ぎていきました。膝をガクガクさせ、いまにも倒れそうなほど力なく歩き、海岸におりる階段のついた、防波堤の切れ目のあたりで立ち止まりました。「おい、おい」と、ぼくは声をかけてみました。犬はゆっくり振りかえりました。「遠吠えする人面犬」

  958. 今後は死者を眼にしたら、書くのでも撮るのでも評じるのでもなく、内周の闇に割りこみ、ひたすら黙して運ぶのでなければならない。私がさきに運ばれる身になるのかもしれないけれども、そうでなければ、斃(たお)れた他者を運ぶか拭うか抱くかして、沈黙の闇と臭気に同化するよう心がけよう。

  959. 去りゆくすべてのことは、ときとともに色あせていく昏夢(こんむ)にすぎない。そしてまた、これから起きるであろうことは、昏夢のつづき、つなぎ目のはっきりしないまどろみのつらなり、果てしない残夢である。私の頭蓋のなかには乳色の靄がわいている。かつても、いまも、おそらく、これからも。

  960. 大道寺氏の傑作と言える〈天穹の(てんきゅう)の剥落のごと春の雪〉。いや、まいったな、と思わず言っちゃうくらいすごい句です。唖然として、敢えて評価を避けるくらいです。 「短詩に命を賭けること」

  961. だって、よっぽどのものは除いて、評論はつまらんでしょう。苦しんで己が実作してこそなんぼであって、評論や作品選考なんてのは次元の違う、どこか政治的な世界です。彼も、自分は他者の作品を評論する立場じゃないという意識があり、私は私で信条として人のことをとやかく言うのが嫌いというのがある

  962. 僕くらい記者という仕事を派手にやってきて、その仕事を嫌っている人間はいないんじゃないかな。“辺見じゃなくて偏見”と言われているくらい、記者という仕事が生理的に嫌いなんです。詩を書き始めたのは、率直に言うとその反動だったのだと思います。「傷を受けて、ものを書く」

  963. 僕はもともと共同通信社の記者を長くやっていて、賞をいただいて素直にバンザイという感じにはならないような体質に育っているんです。人にほめられたり賞をもらったりすることが恥ずかしいような。とりわけ僕が書くような詩に限って言えば、ほめられるようじゃだめだな、という気持ちがあるんですね。

  964. 二十世紀は資本主義が、想像もできなかった形に爛熟した。ヘッジ・ファンドがもてはやされ、投機が市民権をえて、人々が投機に血道をあげる光景は、しかし、資本主義の病状がかつてないほど危険な段階に入っていることを物語っていはしないでしょうか。「資本主義の病状」

  965. 気がふさぐのは、おもわず口をついてでた、いやに歯切れのよい言い草なのだ。「猛」と「!」をとればうそにはなりませんよ、とうまく相手をいいくるめたやりかた。それは政治であって、人をうやまうまっとうな言葉のありようではない。気の晴れぬもとはそれである。 (「猛犬注意!」の札、所望の件)

  966. 2006年の12月25日、クリスマスの日の午前中に、日本各地の拘置所にいる確定死刑囚4人に対して、一斉に絞首刑が執行されました。これもまた私たちの日常です。死刑の執行はたいてい平日の午前中に行われます。私はお昼にそれを知りました。 「クリスマスの情景」

  967. 北朝鮮はどこまでも悲しい。数かぎりない人びとが飢えと圧政に苦しんでいるというのに、いっさいの政治的たくらみぬきで外から助けの手をさしのべようとする者はごく少ない。(略)飢えて病んだ子ら、悩める個人たちをおもんぱかる慈しみのこころが日本にはぞっとするほどたりない。「悲しみの地平」

  968. プラハ演説でどきりとさせられたのは、核なき世界への努力についてオバマ氏がにわかに厳しい顔になって述べた I'm not naive (私はナイーブではない)というしごく簡明なせりふだ。(略)在日米大使館による参考訳は、まさに名超訳というべきか、「私は甘い考えはもっていない」である

  969. 台上で私は「くくくく」とはばからず声をあげた。痛いのか、とあわてて医者は顔をよせて問うてきた。私は低く「いや」とこたえ、あとはくちをつぐんだ。じつは笑ったのだ。(略)自身の〈生体〉と〈信条〉とのあっけないほどの離反が、いまさらこっけいにおもえたのだ。「台上にて」

  970. ファシズムというのは必ずしも強権的に上からだけくるものではなくて動態としてはマスメディアに煽られて下からも沸き上がってくる。政治権力とメディア、人心が相乗して居丈高になっていく。個人、弱者、少数者、異議申し立て者を押しのけて「国家」や「ニッポン」という幻想がとめどなく膨張してゆく

  971. 私を襲ったあれこれの病気が実際、因果応報であるにせよ、私はそれを哄笑して否定し、生まれ変わったら再びいわゆる罰当たりを何度でもやらかして、またまた癌にでも脳出血にでもなり、それでも因果応報を全面否定するつもりだ。それほど私はこの考えを忌み嫌っている。

  972.  にしても、結果どうであったかを表現できないとしたらつらい。その意思があるのに表現できなくなることと自死できなくなること…いまそれをとても恐れている。逆に、なにがしか表現でき自死できる可能性を残しているかぎりは、軽々しく絶望を口にしてはならないと自分にいい聞かせている。

  973. 末期‥…といってもいますぐの臨終ではなく、おそらく比較的に長い終わりの時が静かにはじまっているのかもしれない。問題はそこだ。これからの終わりの時をお前は何を考え、どう過ごそうというのか。「自分自身への審問」

  974. 私のいう遠音とは、すぐ近くにあってさえめったには耳朶に触れない、ましてはるか彼方にあってはまったくないことにされてしまうであろう、人として本来耳そばだてるべき哀しき他者の忍び音、嘆息、絶叫、吐息、呻吟のたぐいなのである。「遠音を聴き、撮る者たち」

  975. やけに風の強かった月曜のあの朝、私は一体何にたまげたのだろう。(略)倒れた人々を助けるでなく、まるで線路の枕木でも跨ぐようにしながら、一分でも職場に遅れまいと無表情で改札口を目指す圧倒的多数の通勤者たち。目蓋に焼きついているのは、彼ら彼女たちの異様なまでの「生真面目さ」なのである

  976. 思えば「よいこがすんでるよいまちは」の歌を小学校でならったころ、日本にはそんなに「よいまち」なんてなかったはずです。この歌には、だから、どこか哀しい響きがあります。でも、生きることがとても具体的な時代だったと記憶します。 「プレモダン」

  977. 大震災、原発メルトダウンと、それをきっかけにしたいやな気流のようなもので、気持ちがすっかりふさいでいたのですが、その時は大げさに言えば、ひとすじの光を見たように思いました。37歳の若者が堀田善衛が好きで、『橋上幻像』を精読していたとは、わたしにすればまるで奇蹟にひとしい話でした。

  978. 原発の安全、低コストといううたい文句と原発の実体がまるでことなることも、言葉と実体の連続性の破断と言えるでしょう。3.11が、言葉と実体のつながりを破断したのではなく、3.11のおかげで、もともとあった言葉と実体の断層が証されたのです。「存在証明の困難」

  979. わたしは口をパクパクし、しきりに指さすのですが、言葉と対象がまるで合致しないのです。私は胸を濡れた荒縄できつくしばられたような恐怖を感じ、言葉ではなく呻きや叫び声をあげて目覚めました。あの夢はなんだったのか、ずっと考えています。「言えない悪夢」

  980. それは、地平線まで広がっている黒い瓦礫の原にたったひとりで立ちつくしているわたしの夢でした。ひどく怯えました。一面の瓦礫の光景が怖かったのではありません。わたしは足もとの屍体や影やおびただしいモノたちをいちいち指さして、懸命に何か言おうとしているのですが、どうしても言えないのです

  981. あの入江も、いつもなにかを兆していました。いつもなにかを孕んでいた。それは優しさでもあった。けれども殺意のようなものでもあった。狂気も漂わせていました。無人の入江は性的なものであると同時に、とてつもなく清いものでもあった。水が血のように赤くなるときもあった。「畏れ」

  982. ひとを起こしてお金もらえるなんて、はじめる前は気抜けするほど簡単なことと思ったが、どうしてこれがなかなか難しい。安らかに眠り、心地よく目覚める。こんなあたりまえのことを、かなり多くのひとができずに生きているのだ。これはちょっとした発見だった。 「自動起床装置」

  983. 夜、佐渡の濃い闇の中でしたたかに酒を飲んだ。酔って海のきわを歩く。カンゾウの花びらの色が闇に線を曳いてしきりに流れていく。それを闇に見ているのか、黒い海面に見ているのか、いや、ただ眼うらに幻を見ているだけなのか、私にはわからなくなる。次から次へとカンゾウの花びらが闇を走っていく。

  984. 渋沢孝輔の詩はいう。「いまは錯乱の季節だときみはいうか / そうではない いまはただ偽証の季節だ」。私もそう思う。降りそそぐ狂れの菌糸は、じつのところ私たちを単純な悩乱に誘っているのではない。私たちをとんでもない嘘つきにしているのだ。「幻像」

  985. 私の糞バエ発言を暴言というのなら、権力の意を体してゴミネタにたかりつくのでなく、有事法制をなんとしても通そうとする者たちにこそぶんぶんと群がって、欺罔(ぎもう)のひとつでもいい、奇怪な意図のほんのひとかけらでもいい、死ぬ気で暴いてみてはどうか。「糞バエ」

  986. いったん地獄を見て、知ってしまうと、そこから離れることができないということもあると思うんですね。見たり知ったりする必要がなければ、眼を背けたり立ち去ったりすればいいわけですが、しかし、見ないこと、知ろうとしないことくらい非人間的なことはないと私は感じております。

  987. 現行憲法の主要な論点は、戦後の世代のなかでは自明のもの、あえて論ずる必要のないものとされてきました。(略)護憲を論拠のない観念かお題目のように唱えてきた。あるいは口先だけで理想を語って、改憲の動きとしっかり闘おうとしなかった。その結果が今日の惨憺たる風景になっている。

  988. もう語るまいという衝動がつねにある。数え切れない徒労に疲れたのではない。語りの中身に自己嫌悪するのだ。沈黙の底光りに惹かれるのだ。

  989. 大学で学生と接していると、学生たちは映像に関してはきわめて敏感ですね。逆に活字から世界を想像するという作業は、ひどく苦手のようです。それは彼らが不勉強だとかいう問題じゃない。社会全域の、テクノロジーの変化の中で、人間の感性や想像力が大いに奪われていく過程にあるのだと思うんですね。

  990. こんなインチキな国はなくなったっていいじゃないか、棄てちまえ、と。いくらニッポンでも千人に聞いたら一人ぐらい言うよ、この際一回なくなってしまったほうがいいじゃないか。 そういった言説を全部きれいに消していく作業だけは、メディアの連中は見事にやる。みな「自己内思想警察」がいる。

  991. 逆に、大きくならないほうがよい言葉がいきなり膨張して大手をふって歩き出した。「国難」がそうだ。詩についていえば、「震災詩」という呼称からして、ぼくにはなにか生理的に堪えがたい。戦前、戦中の翼賛詩、戦詩みたいなものを髣髴(ほうふつ)とさせるしね。「破滅の渚のナマコたち」

  992. うーん、日本語にね、ほとほとうんざりしたな。詩や散文の世界だけではなく、マスメディア全体だね。まあ当初から予想はしていたし、大震災前からもともといやではあったのだけど、大震災後ここまで言語世界というものが全体にパターン化し萎縮し収縮するのかとおどろいたね。

  993. 私たちの日常とはパラノイアを唯一の精神規範としていながらパラノイアを排除しようとする撓(たわ)んだ時間の総合体である。テレビはそうした時間の実現である。そこでは裁く者のパラノイアがとくに注目に値する。 「自問備忘録」

  994. 私たちの日常はしかと見れば顔青ざめるような恐怖と痛みをその襞(ひだ)につつみこんだ永遠の麻酔的時間のことである。

  995. 青年は手紙の中で(略)自らへの死刑執行については一言も触れていなかった。覚悟を示すのか楽観を示すのかは字面からは量れない。執行を知ったその時、私はどんな顔になるのか、ふと考えた。おそらく憂愁と忍苦の表情などではあるまい。顔は壁のように無表情にして、皮膚の下で絶叫するのではないか。

  996. そして人はよく笑う。わけもなくよく笑う。つまらなそうによく笑う。人が死刑にされた日の昼も夜もよく笑う。イラクで人が何人殺されようと日本の人々はよく笑う。つまらなそうによく笑う。笑い声はたいていテレビから溢れてくる。わざとらしい笑い声の根も、胡乱な視線の根もテレビから生えでている。

  997. 私たちの日常の襞に埋もれたたくさんの死と、姿はるけし他者の痛みを、私の痛みをきっかけにして想像するのをやめないのは、徒労のようでいて少しも徒労ではありえない。むしろ、それが痛みというものの他にはない優れた特性であるべきである。

  998. 私たちの日常とは痛みの掩蔽(えんぺい)のうえに流れる滑らかな時間のことである。または、痛みの掩蔽のうえにしか滑らかに流れない不思議な時間のことである。日常を語るには、したがって、痛みを語るほかない。 「痛みについて」

  999. 私たちは死刑を刑務官に代理執行してもらっている。私たちはやらずにすむ。あの禍々しく悲惨極まる死刑は、人が人を憎んで殺すのではなく、ルーティンワークとして刑務官が代理執行させられているわけです。「黙契と代理執行」

  1000. 自分の犯罪を悔いている、足も立たなくなった老人を強いて立たせて、首に絞縄をつけるという行為。これを強いられ、せざるをえない刑務官ら。彼らの存在と悲劇も私たちの平穏な日常の襞のなかに埋まっているのです。「クリスマスの情景」

  1001. 選挙はいまや大手広告会社の介在なしには成り立たない。大手広告会社が自民党のコピーをつくる。「美しい国」とか「美しい星」ですか、ああいう実体のない薄気味悪い造語には広告会社がからんでいたりする。 「日常の裂け目」

  1002. 大事なのはワシントンであり、ロンドンであり、東京なのでしょう。でも私はそうは思わない。本当に大事なところは、まだ2歳か3歳の赤ちゃんの背中にナパーム弾が落とされるところであり、子どもが飢えているようなところだと思うのです。そういう場所こそが世界の中心であるべきなのです。

  1003. CCRが「雨を見たかい?」をつくったのは1970年です。当時この曲は放送禁止または放送自粛曲になります。いまも南部の保守的な州ではこの曲の放送を自粛しています。イラク侵攻の時にもアメリカの一部メディアは自粛しました。アメリカ軍はイラク戦争でもナパーム弾を使用していたからです。

  1004. 許しをこうているのではない / 情けをこうているのでもない / 悔いているのでもない / いまさら 命をこうているのでもない / まして 祈っているのでは なおない / 私は私のなかの 遠声の 厳命により / いまひたすら 影を食んでいるのである  「影」

  1005. いっそ煮とろけよ、さらに煮とろけよ。/ 煮とろけて、痛みをとかせ。/ 時をとかせ。/ あの闇とひとつに、/ とろとろ煮とろけよ。/ 煮とろけて、/ いつか、一条の / 記憶の列車をみたしていた、/ 泥のような暗闇とひとつになれ。「夜行列車」

  1006. 死ぬということは、思うことを消され、悩むことを消され、語ることを完全に消されることである。それでは生きのこった〈生きのこってしまった〉生者とはなにか。それはたれもがひとしなみに喋々と弁ずる者ではない。心はしきりに思い悩むのに声を絶たれた生者もいるのである。

  1007. 彼女は掌の錯視にひたすらこだわり、〈実際に掌を見た〉という記憶とのあいだで揺れに揺れて、声をなくした。それは「知」の饒舌より生体の反応として哀しくも潔く美しいと感じられてならない。 「人間存在の根源的な無責任さ」について

  1008. さて、わたしたちに過誤はあるのかないのか。過誤はあったのかなかったのか。原爆を投下されたのちに幾たびか試みたように、そのような自問は今度もあってよかりそうだ。廃墟にたたずめば、しかしながら、そのような設問はしない。廃墟にあってはしばらくの間、一切の問いという問いがかき消えるのだ。

  1009. 「国難」などという戦前も用いられた怪しげな言葉を蹴飛ばすのでなく、お国と一緒になって絆だとか勇気だとか物書きが言ってどうする、とぼくは思うがね。肯定的思惟を先行させて状況全般を受容するだけでなく、批判的発想を揉み消していく重圧みたいなものが、外側からではなく表現者の内側にある。

  1010. 私はこういう躰になってからは映画館に行くのがしんどいものですから、DVDで映画を観るくせがついたのですが、観るのを避けてきた映画が一つあります。それは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という映画です。テーマを知っていたがゆえに観るのがつらすぎたのです。「死刑の実相」

  1011. 今日、薄暮れる前の四時五十分、私のなかのミルバーグ公園に来てはくれまいか。ゴンドラが七つついた観覧車近くにある楡の樹の下の赤いベンチに。いや、よそ行きに着がえる必要なんかないんだよ……。

  1012. あのころなにかを「見る」といえば、対象は主に自分の躰の暗がりにくぐもっている自分の内奥の貌だったのであり、躰の外の景色はどんなに意味ありげでも私にとって夢のなかで眼をかすめていくとりとめのないもうひとつの夢のようだったのだ。「ミルバーグ公園の赤いベンチで」

  1013. 完全性を求める潔癖で隙のない青い観念こそが組織的な殺戮を可能ならしめる。清冽な青こそが人を「正気で殺す」色なのではなかろうか。 「たんば色の覚書」

  1014. ふと想う。赤が狂乱を表象し、青は狂気の徴(しるし)だなどといったいだれが決めたのか。だれも決めていないし実証もされていないのである。(略)ギリシャでは青こそ夜と死の色であったともいう。狂気の川の深みにあっては、赤や黄よりむしろ涼やかで濁りない青のほうが狂れの色なのではないか。

  1015. 被災地ではまた、燃料が足りず、死者を火葬できなかった。臭くなるので、身元確認もできていない死体を埋めてしまうわけです。埋めざるをえない。手、耳、片足だけの部位を埋める。死者は陸だけではありません。どれだけの人間が今、海底で暮らしているのか。

  1016. 炊き出しは当初、人数分の胃袋を満たしはしなかった。人びとはわずかの食べ物に殺到した。配食係があるときいらだって大声をだした。「食いたければ、並べ!」。その言いぐさに、友人は生まれてはじめて〈殺意にちかい怒り〉を覚えて、舌が口いっぱいにふくらんだのだという。

  1017. いまさらけっして詫びるな。/ 告解を求めるな。/ じきに終わることを、ただ / てみじかに言祝げ。/ 消失を泣くな。/ 悼むな。/ 賛美歌をうたうな。/ すべての声を消せ。/ 最期の夕焼けを黙って一瞥せよ。 「世界消滅五分前」

  1018. すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。 「善魔論」

  1019. 光と闇とが意味ありげに見えるのはなぜか。とりわけて、屍体Xを発生源とする光は秘めやかで妖しく、あくまでも見ようによってはだが、秘事をおもわせた。 「閾の葉」

  1020. 彼女が頸に腰紐を巻かれたあの不身持ち男を背負って/前屈みになる/深々とお辞儀する/腰紐の両端をぐいと下に引く/そのとき彼女は何といったのか/〈どうだ思い知ったか〉ではないだろうな/幾度も幾度も お辞儀しながら/その度に背中で反り返る彼に/優しく囁きかけたにちがいない「地蔵背負い」

  1021. たとえば、発光する糸ミミズの群れが、躰内奥深くの闇の湿地でさわさわといつまでも顫動(せんどう)しつづけ、紅くほのかな明滅をくりかえしているような感覚ーーそれがどうやら恥の記憶に由来するらしいことは、相当以前からうっすら知ってはいたのだ。「いまここに在ることの恥」あとがき

  1022. 病院で私は、世のなかから「形骸」と見なされてしまう人びとをたくさん見ました。私などよりずっと大変な症状をかかえています。その人たちの神秘的な心の動きも眼にしました。非常に深い眼の色をしています。微妙な表情をします。形骸に見えて、形骸では断じてありえないわけです。

  1023. そういえば、ゆくりなくも彼女と出逢ったあのときには、どうしたわけか故郷の海を眺めていない。花の奥に低い波の音を聞き、潮の香を嗅いだだけだ。もう一度彼女に会いたいなと思う。いまならば、彼女にせよ私にせよ、花の群れに身を隠すことはないだろう。「邂逅」

  1024. 今回の震災では特に、言葉が枯渇し、萎縮し、表現の範囲がぎゅっと縮んでしまったと思います。 この状態は戦時下に似ているんですよ。僕は世代的には戦争を経験していないけれど、いちばん意識したのはそれですね。自由であるべき言葉や表現がかなり抑圧されているな、と。「傷を受けて、ものを書く」

  1025. 新しいイデーというものが出てくるためには一回、完全に滅亡し崩壊しないと駄目だという思いがありますね。文学的直感にすぎないと言われればそうなんだけれども、徹底的な敗北のなかからじゃないと新しいものはうまれてこないだろうなというのはある。「沖縄論」

  1026. キナ臭くなると、反戦という方向に向かうのではなくメディア挙げて好戦的になっていく。ナショナルなもの、国家主義的なものに訴えていく。これはほとんど宿命のようなマスメディアの流れだ。いまはまさにその渦中にあると思うんだ。これからファシズムが来るというのではなくて、いまその渦中にある。

  1027.  にしても、言うべきことを言わず、なすべきことをしていない。期待された行為を行わないことによって成立する犯罪を「不作為犯」と言いますが、マスメディアもそうではないでしょうか。それが全体として新しいファシズムにつながっていく。 「新しいファシズム」

  1028. ランボー没後百二十年は、ときあたかも、大地震と原発メルトダウンにかさなった。詩人がことばの底から時代を画する災厄を呼びよせたかのように。それかあらぬか、瓦礫の原で「地獄の季節」や「イリュミナシオン」を読んでみるとよい。 「瓦礫の原のランボー」

  1029. むろん、人生は買えない。いやな時代だからといって過去に戻ることもできはしない。どこかに逃げようったって、「逃げるな」という声が追いかけてくる。それは他者の声ではない。耳をすませば、それは自分の声なのだ。 「二層風景」

  1030. クラスター爆弾の破片を手にした何人かの聴衆の反応と「動作」は以前とずいぶんちがっていた。錆びついたその金属片をいったん自分の膝の上に置いて、まるで仏像にでもするように瞑目して合掌したのである。女子高生もお婆ちゃんもそうした。見ていて私はたじろぐ。「いま、抗暴のときに」

  1031. 国家とは、その大小と体制のいかんを問わず、おびただしい死体と息づきあえぐ人間身体をどこまでも隠蔽する政治的装置である。戦争を発動してさえそうなのだ。殺した人間の数と殺された者のむごたらしい姿態に一般の想像が及ばないように仕組み、あげく殺戮そのものがなかったかのように振る舞うのだ。

  1032. 僕はいつも力説しているのですが、状況の危機は、言語の堕落からはじまるのです。丸山真男は「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリストの転向からはじまる」と書き、歴史が岐路にさしかかったとき、ジャーナリズムの言説がまずはじめにおかしくなると警告しました。「決壊した民主主義の堤防」

  1033. いまさら発見ともいえないごく当然の事実に気づいて動転することがある。世界とは、ときに、当方の迂闊な目によってのみ見るにたえる、胡乱きわまりないなにかである。もし迂闊でなければ、爛々たる狂気に照らされて、こちらは全身わななくばかり。「再びテーマについて」

  1034. ふり向かせてはならない。背の哀れをこそいとおしむのだから。死者も棺にうつぶせに休ませる。新聞は人の背面写真のみ掲載する。言葉の根腐れたこの国では、しばらく舌も口も隠したほうがいい。そして、失われた言葉への弔鐘を背に聞くこと。 「背面について」

  1035. 私がいま感じているのは、いわば、鵺のような全体主義化である。そこには凛乎たるものが何もない。右も左も慄然としないことをもって、主体が消え、責任の所在がかくれ、満目ひたすら模糊とした風景のままに「いつのまにかそう成る」何かだ。 「言葉と生成」

  1036. わたしはずっと暮れていくだろう / 繋辞のない / 切れた数珠のような / きたるべきことばを / ぽろぽろともちい / わたしの死者たちが棲まう / あなた 眼のおくの海にむかって / とぎれなく / 終わっていくだろう 「眼のおくの海」 

  1037. 「それぞれが別のものである何かの葉は、すべてがまぎれもなく何かの葉なのである」。昨日もおなじところを読んだ。心にできた角質層が、利いたふうなことばを今日もはねつける。本を閉じる。ことばはもう揮発している。 「おばあさんと若い男」

  1038. 黒っぽい「なにか」がやってくるとずっとおもっていた。それはどこからかひたひたと近づいてきて、それまで伏せていたからだをある日にわかに後ろ足でぐわっと立ち上げ、両の手を宙におもいきりひろげておぞましい姿をあらわすであろう。そんな予感とともに生きてきた。「『なにか』がやってきた」

  1039. 彼女の思想は、口とはうらはらに、国家幻想をひとりびとりの貧しくはかない命より上位におき、まるで中世の王のように死刑を命令し、じぶんが主役の「国家による殺人劇」を高みから見物するのもいとわない、そのようなすさみをじゅうぶん受容できる質のものであっただけのことだ。「鏡のなかのすさみ」

  1040. 自らサインした死刑執行命令書により、その朝、刑場で二人の男がくびり殺された。千葉さんはそれにわざわざ立ち会った。ロープが首の骨をくだく音を複数回耳にし、四肢がひくひくと細かに痙攣するのを眼にもしただろうその足で、あでやかに記者会見にのぞんだ千葉景子さんは全くたいした人ではないか。

  1041. 車両のはしの「お体のご不自由な方」用のシートに私はすわり、川面を感じようと足の底に神経をあつめながら、眼はもうじきはじまる光の乱舞を予感している。電車にせよ船にせよ、川をわたるのが好きだ。 「吐く男とさする青年」

  1042. かくして私たちは狂っている。そんな大それたことはだれも大声ではいったことがない。だから、そっと小声でいわなくてはならない。私たちはじつは狂(たぶ)れているのである。「私たち」といわれるのが迷惑なら、いいなおそう。この私は、かなり狂っている。自信をもって正気とはいいかねるのだ。

  1043. 歩くのが非常に不自由になり、右手を使えなくなっただけでなく、身体が意思にさからってアメのようにねじれるような、右半身がいつも引きつったような感覚なのです。脳の視床下部にダメージがあって、つねに〈偽の感覚〉にさいなまれている。(略)ああいう状態に手足がいつも麻痺しているわけです。

  1044. 誤解を恐れずにいえば、ぼくは六十数年間生きてきて、いま、鬼気迫るほどにね、興味深い世界がきているとおもうのです。鬼気迫るほどに、足がすくむほどに怖いこの時代に、どう生きればよいか、自覚的な個であるとはどういうことなのか。 「人智は光るのか」

  1045. たとえば、競馬、競輪、競艇、パチンコ、FX(外国為替証拠金取引)…とそれらのテレビCMに犯意はありません。詩人が生命保険をほめたたえるCM用の文章をつくり、テレビが連日それを善面をしてたれ流す。問題ないといえばそうかもしれませんが、怪しい。かぎりなく怪しい。

  1046. 世界にはもう現在がない / 世界にはもはや思惟する主体はない / 世界はなにも包摂しない / 世界はなにも内包せず / なにものにも包摂されていない / 主体はもうない / ことばは徒労の管足系として / 無為全般を司る / 世界はしたがって ない 「フィズィマリウラ」

  1047. 人間の存在価値というものが、オーバーでもなんでもなく単なる支払能力と等値化されてしまった。金がなくなればガンでもなんでも病院から出されちゃう。(略)結局、おびただしい貧困者の群れは、まだ見たこともない新型ファシズムの大波に呑まれていくのかもしれない。「われわれは狂いつつある」

  1048. それはなぜだか似ていた。/ ヒロシマの小学校に。/ 子どもたちがそれぞれの影になって / 石や鉄にはりつけられた / そのときの無音に。 「それは似ていた」

  1049. 鉢虫類は意識も記憶も もちあわせないから / 透明に / ただただようだけ / そうきめつけてきた 過誤 / それだから大波が不意にきた / ミズクラゲは千年もまえから / なにか告げていたかもしれないのに / ばかにしてきた 過誤 「還魂クラゲ」

  1050. 私たちはあまり多くのことを思わないほうがいいとされるような時代に生きています。テレビや新聞は日々われわれに「思うな!」「考えるな!」といいきかせているようでもあります。あまりに深く、多くを思うと、生きること自体辛い時代です。むしろ、だからこそ「思え!」は大事ではないでしょうか。

  1051. うがったことをいえば、戦争の実感を知らせず、戦争を嫌悪させないようにする意図がどこかではたらいているのかもしれない。つまり、爆弾の下には常に柔らかで壊れやすい人間の身体があるという実感が日々に奪われているのだ。 「破片」

  1052. 戦後一貫していわれているのは、「新聞記者の心が良ければメディアは良くなる」式の薄っぺらな心情論。つまり心が正しければ報道が良くなるというやつね。それはちがうな、とぼくは思いますね。事故解析能力がなさすぎる。 「マスメディアはなぜ戦争を支えるのか」

  1053. 社会心理学者らによれば、二十一世紀現在の人々は、世間がいまなにを考えているか、なにが支配的傾向かについて昔日よりはるかに敏感になっているという。裏をかえせば、人々はかつてよりよほど「社会的孤立」を怖れているというのだ。「沈黙の螺旋」

  1054. 核燃料が融点を超えて溶融する事故は、「炉心の一部損傷」と同義ではありません。メルトダウンの定義どおりにきわめて重大な事故が起きていたのに、その事実は長く報じられなかったのです。「心の戒厳令」

  1055. 三陸の浜辺に夜半、打ち上げられた屍体があった。それは首のない屍体であったり、手足や眼球をなくした屍体であったり、逆に首だけの、胴だけの、片眼だけの部位だったりする。それが真っ暗闇の浜辺に何体も何体も打ち上げられている。 「死の深み、死者への敬意」

  1056. かつて、地震というものは、最大級でも、この程度までしかなかった。従ってそれ以上は想定しないですむ、というのは、データ主義からきた、不遜な行為でした。それは著しく反省しなければいけない。大自然はそんなものではありません。 「入江は孕んでいた」

  1057. 故郷が海に呑まれる最初の映像に、わたしはしたたかにうちのめされました。それは外界が壊されただけでなく、わたしの「内部」というか「奥」がごっそり深く抉られるという、生まれてはじめての感覚でした。叫びたくても声を発することができません。ただ喉の奥で低く唸り続けるしかありませんでした。

  1058. つまり、憲法とは国家が市民を縛るものではなくして、市民が国家を統御し縛るためのものなのではないか。憲法の大きな目的の一つとは、市民に国家からの自由を保障することではないか。「憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート」

  1059. 米国は建国以来二百回以上の対外出兵を繰り返し、数限りないほど他国の政権の転覆工作にかかわってきました。そして原爆投下をふくむそれら歴史的軍事行動のどれについてもおよそ国家的反省ということをしたことのない国です。米国こそが最大級の「ならずもの国家」なのです。「『公憤』の形成と利用」

  1060. 夢を見ました。トンニャットの前のゴークエン通りが真っ黒になるほどネズミたちが、つぎからつぎにホテルの回転扉からでてくるのです。大移動を開始したネズミの群れの一番先頭を、髭をピンと立てたあの赤鼻のネズミがいばってあるいていました。全員、まっ青の目をしていました。「毒薬」

  1061. 戦争につながる一切のことにつよく反発するのは学生、教職員の権利どころか「義務」でもあるのです。戦争に反対しないような大学、それどころか好戦派にその宣伝の機会を積極的に与えるような大学、「国家からの不自由」「国家への屈服」を実践するような大学にはいかなる存在理由もない。 「抵抗論」

  1062. あの歌の詞を私は好まない。(略)まつろわぬ者への暴力をほのめかすような、あのドスのきいた音階が不気味だ。そのことを、おそらくゲルギエフは知らなかったにちがいない。ゲルギエフ・ファンの私としては、正直、少しばかり失望もしたのだけれど、彼にはなんの罪もないのである。 「オペラ」

  1063. 私はやはり、Mたちの選択にくみする。すなわち、暗い樹林の底に身も心も沈めて、ああいやだ、ああいやだとあの憂鬱な歌の終わるのを首をすくめて待つほかないのである。かたくなにその姿勢をとるのは、だれのためでもない、自分のためだ。自分の内心の贅沢のためである。 「オペラ」

  1064. ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、よく見ると、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも表面は深刻を気取り、リベラル面をしている記事や番組にこそ、めぐりはびこっている。撃て、あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる。 「有事法制」

  1065. たくさんの犬の遠吠えを聞くともなく聞いているうち、眠りに落ちた。意識はすみからすみまで冴えているのに、風景がときおり、水のなかの絵のように、ゆらりとたわんだり色を滲ませたりする。私はカブールのダーラマン宮殿前の廃墟を歩いている。 「カブール」

  1066. でも、私は誰より静けさが好きだった。寡黙で静謐な人間を好んだ。大声で話す好人物よりもいつももの静かな連続殺人犯のほうがよほど好ましいと思ったこともある。おめく自分を誰よりも軽蔑していた。医師に声帯を抜いてもらおうかと考えたことだってあった。 「自分自身への審問」

  1067. 病葉のあわいに漂う闇、あるいは葉と葉の間からふと眼にした闇の深み。もはや、うつつにはいないのだという寂寥と不可思議な澄明感ーーそうしたものは当然ながら言葉も気配も検査室にはかけらもない。あるのは、生でもなければ死でもない、闇でもなければ真性の光でもない、無機質な機能だけなのだ。

  1068. そうしたら、今度は癌だときた。私は再びわが身に問うている。運命の過酷さについてではない。病がことここに至っても改憲に反対するか、と問い直しているのである。不思議だ。脳出血で死に目に遭った時よりよほどはっきりと「反対だ!」と私は言いたいのである。 「楽園にはもう帰れない」

  1069. 足下のやわらかな土中で屍体たちが低くハミングしている。それぞれ半孵化の雛を口に銜えさせられたまま。ああ、半孵化の言葉たちよ。半孵化のうそたちよ。言葉に腐乱する屍体たちよ。それらが蒸れて埋まっている閾の森を、私は歩く。かかとでぐしゃぐしゃ顔を踏みつけて。 「閾の葉」

  1070. 非受益者層と受益者の落差、ひずみが酷くなって社会が闘争化していく現象は世界中で起きている。 好むと好まざるに関わらず人間がどこかで余儀なく行動に訴える時期というのがあるのではないかそういう契機があるはずだと僕はどこか期待を込めて思っています。このまま眠っているわけはないだろうと。

  1071. そうこうするうちに3月11日の奈落はまるでなかったかのように塗りかえられ、テレビからはまたぞろばか笑いが聞こえてきている。(略)テレビはバラエティショーおなじみのタレント弁護士を売りだし、チンピラ・アジテーターにすぎなかったかれをヒーローにしたてあげた。「破滅の渚のナマコたち」

  1072. あなたは加害者に肩入れするばかりではないか、といわれそうです。そうではありません。私は犯罪被害者および遺族の方々の限りない悲しみ、苦しみを軽視するつもりなど毫もないのです。ただ、それを死刑制度存置に直結させていく発想は完全なまちがいであるといいたいのです。 「永山則夫の処刑」

  1073. 私は死刑制度に反対する文章を何度か発表したことがあります。こちらにはさっぱり反響がないのに、ペットの殺処分には皆が涙を流すのです。じつに不思議な国だなぁと私は思います。 「殺人の抽象化」

  1074. メディアが絶賛するような政権ができても、かならず悪口を書く。 それがわたしのような作家の責務だし、表現者の根性というものだと思っています。  「政治の右傾化と人間の『個』」

  1075. ぼくは散りゆく桜をただ一方的に見ていたのではなく、空も眼も霞むほどの花の舞いに脳裏は茫茫とし眼は魅入られ、さらに言えば、目眩く落花の光景の一隅に、真実、果てかかったぼく自身を見ていたのかもしれません。 「死に魅入られて」

  1076. 世論はいま巧みに繰られ誘導されています。マスコミはしきりに当局のお先棒を担いでいる。メディアは住民側に立った監査役ではなく、権力に飼いならされた権力の為のウォッチ・ドッグ(番犬)になりさがった。「メディアが戦争をつくる。戦争がメディアをつくる」というけどますますそうなる気がします

  1077. そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。 いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。

  1078. 男は気圏のはるか外に浮かんでいるようであった。もう三十数年間も青い気圏の外をひとりでゆっくりとまわっているのだ。この世のすさみに染まることもなく、死んだ宇宙飛行士のように地球の外をまわらされているのだった。忘れられた、ひたすら忘れられるためにのみある、ひとつの白い花として。

  1079. 視線を落とし、私は私の影を見てみる。透明なボーフラどもほどではないにせよ、私の影もだいぶ黒みが薄れてきた気がする。むしろ、だからこそ撤回すまいと思うのだ。「いま、抗暴のときに」といいだしたその発意を、この満目漂白された惨憺たる風景のなかでこそ断じて翻すまいと誓う。 

  1080. アジテーターたちは、ほらほら、よく見るがよい、芝居としても鼻が曲がるほど臭く、顔はもはや醜怪そのものである。  「いま再びの声の時代」

  1081. マスコミもそうだけど、本当に生きた爛々とした目なんかどこにもない。内面が壊れたのです。みなテレビキャスターみたいに芝居がかり、嘘くさい。人びとの顔貌、目つきが最近ますますおかしくなってきている。閉塞と簡単に言うけれども、じつは狂気ではないのかなと思うね。「われわれは狂いつつある」

  1082. 演ずべき役がらはもうない / まだ演じてないのは死体だけだ / わたしはすでに離魂されている / わたしはもうわたしの躰を見ない    「身体醜形恐怖症」

  1083. 誤解するな。逝く者のかんばせに死相などない。あれはやすらぎなのだ。気魂はかつてなく凪いでいる。おぼろな牡蠣色の仮象にやわらかにつつまれて、安息の海がさほどまでかぎりなく眼前にひろがっているからだ。もっとも生き生きと生きる者の皮裏の暗面にこそ、ぞっとする死相の分泌がある。 「死相」

  1084. でもあんた、椿なんか食うなよ。今度は声にしていってみた。 すると酔いどれた野宿者は、ひび割れた唇の両端に花びらを張りつけ、目尻には涙を溜めたまま、石をこすりつけたみたいな声音で応じるのだ。 おめでとね、あけまして、おめでとね。   「花食む男」

  1085. 先日もかたづかぬ思いのまま散歩を折りかえした。道々、ある詩人の年譜の一行を思い出した。死去前月の記録はたしか「酒量さらに増し、失見当識顕著になる」であった。よくいわれる横文字の病名よりも「失見当識顕著」のほうが、洋燈とおなじように、私には深く響く。「絵入り洋燈と観覧車」

  1086. もしもわれわれの日々のいとなみと永田町の政治が真にわかちがたく結びついているとするならば、安倍晋三氏の首相辞任表明は、喩えてみれば、原発におけるメルトダウン(炉心溶融)なみの一大衝撃であるはずであった。あの唐突な辞意表明、辞任理由の支離滅裂、政権全体の周章狼狽ぶり.. 2007

  1087. 私は荒野をいく一条の黒い列であった。列はうすれゆく記憶の粗い縫い目であった。列は箱を運んでいた。箱は棺だった。箱には窓がなかった。なかで私が裸でうつぶせていた。私は蒸れてくされていた。  「箱」

  1088. あぶない病気になり病室でよこたわっているしかなかったとき、こころにもっとも深くしみたのは、好きなセロニアス・モンクやマイルスではなく、好きではなかったチェットの歌とトランペットであった。 最期にはこれがあるよ、と思わせてくれたのだ。 「”うたう死体”チェットの奇蹟」

  1089. 「世界の涙の総量は不変だ」。ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。いま、そうだろうか、と首を傾げる。世界の涙の総量は増えつづけているかもしれない。 「人の座標はどのように変わったか」

  1090. 私はだれもが口をそろえて正しいとすることを、たぶん、であるからこそ、いぶかしみ、はなはだしくは憎むという長年の悪い癖がある。だれもがゆるやかに認めざるをえない中間的で安全なゾーンに隠れ逃げこむ詩や思想を、であるからこそ、私はまったく信じない。 「破局のなかの”光明”について」

  1091. この世界では強者の力がかつてとは比べものにならないぐらい無制限なものになりつつある。一方で、弱者が、かつてとは比べものにならないぐらい、ますます寄る辺ない運命におとしいれられている。そうなってきた。富者はますます富み、貧者はますます貧しい蟻地獄に落ちていく。「価値が顛倒した世界」

  1092. 問題は、むろん、NHKだけではない。この国の全域を、反動の悪気流が覆っている。日常のなにげない風景の襞に、戦争の諸相が潜んでいる。人々のさりげないものいいに、戦争の文脈が隠れている。さしあたり、それらを探し、それらを撃つことだ。  「加担」

  1093. ごく稀な例外を除き、新聞の社説というものが発する、ときとして鼻が曲がるほどの悪臭。読まなくてもべっして困ることはないのだし、中身のつまらぬことはわかりきっているのだから、いっそ読まずにおけばいいのだけれど、ひとたび向きあってしまえば、かならず鼻につく、独特の嫌み、空々しさ、偽善。

  1094. かれがかれであるとついに同定されることになるのは、かすかな望みであった。 いったん同定されてしまえば、新たな苦しみがはじまる。 わたしはそれをうっすら予感している。 無限の孤絶は凄絶な苦しみであるとともに、うつつの時間という絶えざる腐爛をまぬかれるための、皮肉な救いにもなる。

  1095. 腹話術師も死んだ。くぐもった声を/海原にのこして。 その顔の砕けた涙骨が、/牡蠣飴屋のうらの空き地に/ひとしれずうちあげられた。 六月、/涙骨のうえに/ムラサキ科の/五弁の花が/やかましいほど/たくさん咲いて、/だれかの声で/うべなうべなと/うたった。 「腹話術師の青い花」

  1096. しずかに長い髪を梳いた / スイースイーと音がした / 夜を梳いた / 髪が海に流れ / 海はすべての / 死者の夜の / 内部となってながれた     「髪梳く」

  1097. いま格差というけれども、もともと本当に平等があったのか。 じつはなかったとおもうのです。ベーシックな差別というのは非常に古くからあった。いま必要なことは、繁栄を取りもどすことではなく、新しくなにかをつくることなのです。 「無意識の荒み」

  1098. ならばいっそ「暴動」は起きたほうがいい。見わたすかぎり眩く明るい闇を破り、本来の漆黒の闇たらしめるために、試みにいっちょう大暴れしたほうがいい。顔を醜く歪め、声を思いっきり荒げて、これ以上ないほど整然とした街を暴れ回ったほうがいい。 「自分自身への審問」

  1099. この国の全員が改憲賛成でも私は絶対に反対です。世の中のため、ではありません。よくいわれる平和のためでもありません。他者のためではありえません。「のちの時代のひとびと」のためでも、よくよく考えれば、ありません。つきるところ、自分自身のためなのです。 「いまここに在ることの恥」

  1100. つまり / 誤りのために / すべてを賭す気があったか。 言ったかぎりのことを / 一身に負う気組みがあったのか。 殺る気はあったのか。 その問いに幾たび / 蒼ざめたか。 骨まで蒼ざめたか。 後ろ影が遠ざかる。 はるかに遠ざかる。 闇に空足をふむ。「残照」

  1101. 小径の端に佇み行列を眺める私Yは / じつのところ / 口のなかにまだ黄身の割れていない / 生卵をひとつ含んでいる   「黄身」

  1102. おびただしい死者たちは、それぞれの声を彼の世にもっていきはしなかったのである。声は結果、水中や瓦礫の原に、耳やかましいほどにとり残されてしまった。ごくまれにそれらの声を聞きに海際の瓦礫の原を訪う。月夜がよい。友らの声がキノコのように繁茂しているから。 「声の奈落」

  1103. わたしはすでに死んでいるのではないだろうか。死んで瓦礫の原をさまよっているのではないか。この世はもう滅んでいるのではないか。また、こうも思った。わたしはわたしの骨を踏んでいるのではないか。カシャカシャいう音は、死んでなくなってしまったわたしがたてている非在の響きではないのか。

  1104. しどろの死者たちの裸に/ハマエンドウ/ その口に/ハマダイコン/手に/ハマゴウ/眼には/ハマボウ/ 指に/ハマスゲ/しだかれた死者たちの首を/だれも知らない/ ハマレイ/の赤い花でおおい/死者たちをひらき/わたしの花を悄然ととじること 「ささげる花」

  1105. 東京にはいま、その闇がない。つながれる暗がりがない。夜がほぼ完璧に抹殺されたからだ。まばゆい光線が遠慮も会釈もなくすべてをさらしつくし、人がそれぞれ体内に密やかに溜めていたい自前の闇さえ、光に侵されつつある。人々は、だから、狂うのではないか。 「闇に学ぶ」

  1106. 新聞、テレビの垂れ流すいわゆる情報は、改憲をめぐる一連の動きが本質的に災いしつつあることを教えない。このぶんだと人々はクーデターが起きてさえヘラヘラ笑っている可能性なしとしないだろう。 「五月闇」

  1107. 悪が悪として見えない。 悪はおそらくもっとも善のかたちをとって立ち現れているのだと思う。 とくにメディア。その集団性のなかにぼくたちは隠れることができる。 わかりやすいメッセージだけ探ろうとして、ものごとを単純化する。 テレビの作業はほとんどそうです。 「無意識の荒み」

  1108. 思えばむごい夏ではないか。 塀のこんなに近くにも、時計草や白粉花や立葵やカンナが咲き乱れて、烏揚羽は光に黒い粉をきらめかせ、亀は亀とて、生あくびしながら甲羅干しだなんて。 さなきだに、この狂おしいばかりの蝉時雨。 「骨の鳴く音」

  1109. ただ、よく考えてみれば、われわれはあのような者どもを税金で多数飼ってやり、贅沢な生活をさせてやっている。いや、逆に、われわれはいつしか彼らに飼われ、ほしいままに扱われ、繰られ、もてあそばれている。 そのことは恥ではないか。 「いまここに在ることの恥」

  1110. わたしの死者ひとりびとりの肺に / ことなる それだけの歌をあてがえ / 死者の唇ひとつひとつに / 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ / 類化しない 統べない かれやかのじょだけのことばを / 百年かけて / 海とその影から掬え「死者にことばをあてがえ」

  1111. ★管理者から… BOTの上限になりましたので、以降は4時間毎の反復になります。随時更新の予定です。 辺見庸の言葉が貴方の「独考・独航」の指標となり道標となりますように。

  1112. わたしはそれとなく待っていたのだ。いまもそれとなく待っているのかもしれない。世界のすべての、ほんとうの終わりを。目路のかぎり渺々(びょうびょう)とした無のはたてに立ってはじめて、新しい言葉 ー 希望はほの見えてくるだろう。

  1113. 自分の記録を残すということは絶対にいやなのです。年譜を書いてくれといわれたことがあったけれども、すぐに断った。年譜なんて恥ずかしい。ぼくが望まなくても残るものは残るのです。  「年譜や碑文はいらない」

  1114. わたしは手さぐりでつたない詩作をつづけております。おきすてられてしまったことばをひろいあつめて、すぎてゆく風景を追いかけるようにしむけております。それがなにも甲斐のないことにせよ、わたしはいま、なにも甲斐のないことだからこそ、のこされた体力をついやしたいとおもうのです。

  1115. 私は息がとまるほどおびえた。紙片は次第に増えていき、幾枚も幾枚も水羊羹色の宙を私の顔の方にひらひら舞いおりてくるのだ。口のなかで舌が牛のそれのように膨らむ。悲鳴をあげたいのだがもう声がでない。私は死んだ唖の汽船の舳先の下で紙吹雪を見あげている。白い紙はいつまでたっても着水しない。

  1116. 何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか、それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意さえ抱いたものです。「狂想モノローグ」

  1117. 含み笑い、冷笑、譏笑(きしょう)嗤笑(ししょう)憫笑(びんしょう)…。くっくっくっ。ふっふっふっ…。この国では人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると恐らく誰が教えた訳でもなく戦前から続いている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い笑いが聞こえてきます。

  1118. 老いると総じて不機嫌になるわけがこの頃わかってきた。風景を若い時のようにまっさらなものに感じなくなるからだ。驚きと発見が減ればへるほど老いは深まる。現前する事どもを既知の景色、あらかた経験ずみのことあるいはそのバリエーションとしか思えなくなる時、人は(略)心が錆びつき不機嫌になる

  1119. ぼくはあらゆる機会をとらえて侵略戦争反対と自衛隊派遣の不当性を主張し表現してきました。別に正義漢ぶってそうしたのでなく、不正義が最も露骨な形で実行されていたから面倒だけれどやむにやまれず反応しただけです。(略)ぼくはあくまでぼく一人の責任と発意で異を唱えたかったのです。

  1120. 珊瑚樹のいけがきをあるいて / 珊瑚樹にささやかれる / おまえは あらかじめ気圏にとびちれ / みえない微塵になれ / 屍よりももっとむなしい非在になれ / うたえ / サンゴ キサンゴ スイカズラ「珊瑚樹のいけがきをあるいて」

  1121. 北朝鮮は悲しい。地獄のような朝鮮戦争がおきたとき、これぞ日本の経済復興にとって「天佑」だといって相好くずしてよろこんだのは当時の吉田茂首相だけではない。おおかたの人びとが戦争特需をもろ手をあげて歓迎し、米軍の爆撃機が連日、日本から発進していくのにこれといった反戦運動もなかった。

  1122. この国の政治家の多くは中国や朝鮮半島を〈見る〉ときに〈見られている〉事をほとんど念頭に置かない。記憶でもそうですね。われわれの記憶の帯(おび)の短さをアジアの他国にも勝手に適用してこちら側の記憶領域を軸にものごとを判断しようとしている。いくら何でももう忘れてくれているだろう、と。

  1123. 特に、拙いながら書いてきたことについては、さしあたり大きな修正の要をみとめることができません。自身の傲岸、過信、衒いを憎むけれども、いささかの頑迷は、この現世にあってはいたしかたなかろうと申し上げておきます。ぼくはこの先も、なにがしかのことどもを書くでしょう。「心の喪明」

  1124. というふうな取材をしたら、その段階ではくそみそに言われるよ。会社からも余計なことするなって言われる。誰もかばいはしない。ますますそういう時代になってきている。でもいまぐらい特ダネが転がっている時代はないと思うよ。権力がいい気になって調子にのっており、わきが甘くなっているからね。

  1125. 水のきらめきに眩めいて、刹那、はたと思いいたったのは、なぜだか言葉の不実だ。貧寒とした、私の言葉の洞だ。贋金のように安っぽく光る言葉の表皮だ。深山の、これこそ水の教えである、とひれ伏すほど私は素直ではないから、ふふんと笑ってみたら、水面の男の顔は波紋に割れ散らばった。「森と言葉」

  1126. 一生懸命額に汗して働けば何とか生きていける時代はとっくに終わっている。富裕層は富裕層、貧困層は永遠に貧困層だ。階級闘争なんてどこにもない。ごく散発的に痙攣の様な発作の様な暴動がおきるだけである。参加者は「反社会性人格障害」に分類されて病院でポラノン系の注射をうたれる。それで凪ぐ。

  1127. 九条とか憲法とかが抜け殻のようになってきた。これではまるで偽善者のお飾りです。それでも俺は九条を守るべきだと思う。憲法を俺は現在も有用であると考える。自己身体を入れこんでそう思う。同時に、有用なものを実行することができなかったのはなぜなのかと問う。「虚妄に覆われた時代」

  1128.  黒ほど多彩な色はない。セロハンのように軽い黒から、銅の煮黒(にぐろ)めのように重い黒まで、千態万状の黒がある。それらのなかで、最も心的で、セクシーな黒はどれであろうか。やはり、闇の黒なのだ。できれば、その黒に、熟れに熟れたパパイアやパラミツのにおいがたっぷりと染みているといい。

  1129. いつかまた、こうやって硬ゆでの卵をポクポクと食う夜がやってくるだろう。いくつものゆで卵を食って、やがて俺も死に、俺の死んだその夜も、どこかで誰かがポクポクとゆで卵を食うのだろう。そいつもしみじみと、ああ、今夜生きているなと思うのだろう。それでいい。「ゆで卵」

  1130. 朝鮮人の傷痍軍人や軍属たちに支給されていた障害年金も一方的理由でうち切られ、彼らはすさまじい差別と困窮のなかに投げだされる。朝鮮人傷痍軍人らは窮状をうったえ救済をもとめるデモンストレーションをする必要があった。駅頭の白衣の兵士たちの多くはそのような背景をもつ朝鮮人であったという。

  1131. 駅前に異様な男たちがいた。(略)男たちはたいてい痩身に白衣をまとっていた。多くは金属や革でつくった粗末な義足や義手をつけているか松葉杖にたよっていた。義足も義手もつけず、茶色のこぶ状になった手足の切断面をむきだして、地べたに座るというよりごろりと置かれた男もいた。「消えゆく残像」

  1132. 多少、ブレも乱れもなくはない航跡を振り返り、私は生来のだらしなさを忘れ、いまさらのように自問するのである。記憶と言葉への責任ーそれは、ひとりで航海する者の最低限の作法かどうか、記憶と言葉に果たして時効はないものかどうか、と。「独航記・あとがき」

  1133. 子供のころの夢は作家になることでも記者になることでもなくて音楽家になることだった。作曲家というのでなく演奏者、それも場末の闇で雨に濡れた犬のように惨めな目をして曲を奏でている、なんとか弾きといわれても、なんとかイストとは決していわれないような男がいいと思っていた。「銀色の夢の管」

  1134. 入江は無のけわいであり、なにかのなごりであった。そのかぎりにおいて実体とはいいがたかった。入江にはつねに重力異常があった。標準重力からかなりはずれていた。空間がふいに重るのだった。入江はときおり、音ではない音、声ならぬ声を、水底から水面へと吐きあげた。「赤い入江」

  1135. 「放射能?ぜんぜん問題ないですよ。ここの食品はすべてキエフから運んでますから」原発30キロ圏の野菜、果物などは絶対使っていない、と陽気な女性食堂長のリリヤが真っ白な手を大仰にふって言う。「この建物もだいじょうぶ。事故のあと二、三ヶ月かけて汚染除去作業をしたから」「禁断の森」

  1136. 北京は雨と薄汚れた空気に煙っていた。空港から高速道路で都心に向う途次林立する高層ビルを眺めていたら不思議な既視感を覚えた。映画『ブレードランナー』の情景と重なったのだ。環境の悪化で人類の一部は地球外の宇宙に脱出し地球に残った人々は人口過密の高層ビル街で劣悪な生活を強いられるシーン

  1137. 貧しく弱い者たちに真実よりそい、権力や資本や栄誉を静かに、しかし、きっぱりとこばむ人物は、おおかたわれわれの視界の外にいる。彼や彼女らは恥を知っている。称賛をよろこばない。組織を代表しない。まったくの個人である。寡黙であり口べたである。ただ魂が底光りしている。微光として。

  1138. 食うにも困る様な収入しかなくなってきているのに何故か世の中全体がそのつらさというものをコーティングしてしまう。塗料で塗り固めてしまう。主にマスメディアが資本の潤滑油みたいになっているから、見ている側もメディアがこれでもかこれでもかと浴びせてくる虚像の世界を実像だと錯覚してしまう。

  1139. その底にはアメリカ型のグローバル化を進めてきた人達、あるいは金融資本主義というものをよしとして、それが経済社会の活力になるのだと盲信してきた人達の責任がある。それを宣伝してきた政権にも責任がある。それを天災のようにいって天災には責任が問えないからと考えるのは間違いだと僕は思います

  1140. アメリカでは小学校から投資の仕方を教えている、だから日本もそうやったほうがいい。その中で勝ち組、負け組というものが決まっていく。それが資本主義の活力というものだという様な報道をテレビだけではない、新聞でもやりました。ハイリスク・ハイリターンが人の勇気の様に語られたりもしました。

  1141. 一方で、世界とその日常への嫌悪はますますつのる。絶縁したいと思う。鞏固(きょうこ)な無関心を、死に赴く犀の沈黙のように、あくまでつらぬきたい。だがとても無理だ。死に赴く犀の沈黙を夢見ながら、私はなお黙すことができないでいるだろう。死に赴く犀の沈黙よ。「自問備忘録」

  1142. オイルショックの1973年に観た『仁義なき戦い』の菅原文太、松方弘樹、金子信雄の目つき腰つきには喧嘩慣れした者達の不逞でいやに用心深い気配があったものだ。前年に浅間山荘事件がありその前年には動員警官2万5千人デモ隊三万人という成田闘争があった。目つき腰つきに留意する時代だったのだ

  1143. みなと一緒に安息をえようとしてはならない。みなとともに癒されてもならない。他とともに陶酔するな。他とともに変質するな。他とともに変色するな。唱和するな。号令に応じるな。気息を世界に合わせるな。記憶を彼らに重ねるな。リズムを合わせるな。声調を合わせるな。語法を合わせるな。「垂線」

  1144. 私が脳出血で倒れた時の事だが、ふと眼が覚めたらもう桜の季節になっていた。目覚めたとはいえ意識が又とぎれていく感じをまだよく覚えている。それが何とも頼りなくよるべなくひたすら孤独だった。車椅子で外にでた時にはまるであの世とこの世のあわいに音もなく散りしく名残の桜のころなのであった。

  1145. 表現をする人間、表現芸術をする者はだれもが、そのことに気づかなければならないだろう。虫を描こうが動物を描こうが、むこうも見ているぜということに。とりわけひとという生き物は、一方的に〈見る、撮る、表現する〉という特権行為にたいして、ときに歯むかうことがあるということに。

  1146. まだベトナム戦争の時には、ナパーム弾落とされて服焼かれて子供が国道を裸で走っている有名な写真があったでしょう。(略)あの時は一日で米国も世界も動きましたよ。ベトナム反戦に向かってね。それは正しい動き方だと思うんだよね。それに涙するセンチメントというのをアメリカ人はまだ持っていた。

  1147. 想い出をたぐっては、ひとりひとりの顔をなぞっております。ああ、寒かろう、つらかろうと毎日、毎夜、想います。これというわけもなく、逝った人びとを「あの死者たち」と総称したくない思いが最近、頭をもたげ、胸のうちでは「わたしの死者」と呼んでおります。「わたしの死者」

  1148. 月に到達する技術がありながら、私たちはまだ、私たちがどこから来て、どこへと歩んでいるのかさえ知らない。市場原理を尊び、経済のグローバル化を語りながら、日々蔓延(まんえん)する心の病にはいまも打つ手をもたない。「私たちはなにを見なかったのか」

  1149. たとえば特異な刑事犯罪のときの雪崩の様な取材方式は一向に改まる姿勢がない。容疑者の直接の関係だけではなくて、被害者宅も含めて数百人の取材記者たちが入れかわり立ちかわり押しかけていって、正常な生活を破壊していくというやり方を、情報消費者は面白がりながら慨嘆し、かつ怒っているのです。

  1150. わたしはこの綿雲の下でぐっすりと眠りたいと思う。この空の下の赤い砂漠に行くのだ。(略)わたしはひとりで砂の崖を登ろう。意味のない砂の斜面を登れるだけ登る。歩くだけ歩く。歩くだけ歩いて疲れきり、横たわって夕陽を待つ。からだが朱にそまっていく。あまねく赤に目眩く。「3072日の幻視」

  1151. ぼくらは一緒にずっと銀の鏡を見ていただけ / そうしたら / 鏡面がピリリと割れて / 水と火とたわんだ気体が鏡からふきだしてきただけ / 見たこともない水柱と瘴気が / 鏡のうらに回ってたしかめようにも / うらにはひとつぶのナンテンの実が / 水の椅子にすまして座っているだけ

  1152. その問いは薄暗いところにあります。私の言葉でいえば、思考があゆむ前方、のばした手がやっと接触しかけたフロントラインに靄(もや)のかかる暗がりが無辺際にひろがっている。思考の薄暗い前線。できれば、そこに私はいたい。「〈不都合なもの〉への愛」

  1153. 同居する犬が死んだら私はたぶん、さめざめと泣くであろう。しかし明朝だれかが絞首刑に処されたのを知るにおよんでも、悩乱をつのらせることはあれ、涙を流すまではすまい。私もまた悲しむことのできる悲しみしか悲しんではいないのだ。(略)犬と眼が合う。私はなごみ、同時にぞっとする。

  1154. その青いバラを見たことがある。感想はひとことで足りる。悪趣味。青いバラは、どす青い死者の首だ。切れない竹光でむりやり斬りおとしたぎざぎざの斬り口のどす青い死者の首である。どす黒いどす赤いとはよく言われる。しかしどす青いとはあまり聞かない。でも、人工の青いバラはどす青い死者の首だ。

  1155. 先日天声人語を読んで執筆者である記者の見識のなさにひどく落胆しました。それは金子光晴を絶賛した文章でしたが、日本の侵略戦争によるアジア諸国の陥落を歓喜とともにうたった金子光晴の詩を記者は読んでいない。金子光晴がそういった詩を戦後になって改竄しあるいは抹消したという事実も知らない。

  1156. 躰によい天然水と偽って、弁舌さわやかに悪い水をくばり歩くのが政治ではないか。どのみちすぐにはバレやしない。バレたらいくらでもいいわけすればいい。善にせよ悪にせよ、水は透明である。すさみは透明に広がるから眼には見えない。悪水をくばる当人も、そのうちおのれのすさみに気がつかなくなる。

  1157. たかだか数ヶ月の不在だったのに、世界の全てが一変してしまったように見えもはや僕の居場所はなくなったとさえ感じました。しかし最初に疑ったのは自身の事です。入院中に前頭葉白質かどこかを密かに手術されてしまったのでないか。だから世界の一切に気味の悪い変調を感じてしまうのではないか、と。

  1158. 白ネコがきた。丈の短くはない草むらの上を涼しい顔でゆったり滑るようにちかづいてくる。ネコは緑の原にふわりと白く浮いていた。そのマジックのわけを私は知っている。ネコの足は草ごしにレールの上を歩んでいるのだ。置きさられた記憶の筋を、しなやかな四肢がそっとたしかめながら進んでくる。

  1159. たぶんうがちすぎであろう。けれどもなぜか確信にちかく私はおもった。彼は横断歩道の私をつかのま自身の影とみたて、その影をひきたおそうと車をばく進させ、「死ね、ばかやろう!」と発作的にさけんだのではないか。私にではなく、おしなべてたちゆかなくなった彼自身への呪詛として。「交差点にて」

  1160. 「する」ことをわざわざ「させていただく」と言うようになったのはいつからだろう。ファックする、ではなく、ファックさせていただくと言うことで事態がいったいどれほど改善されたというのか。「させていただく」は、およそこころの実をともなわない、無意味な悪弊である。「青い花」

  1161. 大使のハグ・シーンが何度も映された。Qー見た、見た。まるで国務省の広報番組やったね。アメリカ大使館も大喜びだったやろな。対日広報予算数億ドル分の価値があったな。 庸ー石巻の僕の友人はひねくれものだから、憮然として言ってたよ「石巻がレイプされているみたいだ」って。僕はドキリとした。

  1162. 事故から二か月もへてから、東京電力と政府はやっと燃料は三月時点でメルトダウンしていたと発表しました。マスコミは驚きあわてたかのように、一斉に東電や政府の “メルトダウン隠し” を批判しはじめます。このなりゆきにそらぞらしさを感じたのはわたしだけではないでしょう。「心の戒厳令」

  1163. わたしはおそらく他の人よりは多くの戦場を見てきている人間です。中国とベトナムの戦場も見た。カンボジアの戦場も、ボスニアの紛争も見た。ソマリアの内戦も見た。飢えて死んでいく子どもたちも見てきました。いつも奈落の底で、自分一個の存在の無力を思い知らされました。「記憶」

  1164. 「不幸なことに核保有と、国際問題に及ぼす管理能力とを同義語にした」のは「世界秩序の守護者を自任する諸国」であり国連安保理は「核能力を持つ国々の独壇場と化した」という。印パの核実験はそれへの挑戦でもあり「あの爆弾」を持つ事が「ステータスシンボルと見なされるようになった」と指摘する。

  1165. 驚いたのは、この国で絞首刑が行われているなんて知らなかった、という手紙であった。私よりかなり若いと思われるその読者は「注射か何かと思っていた」のだそうだ。むべなるかな。マスメディアは「絞首刑が執行された」とは述べずに「死刑が執行された」とのみ伝えるのが普通だからだ。「背理の痛み」

  1166. ひょっとしたらもはや言語さえ通じていないのに皆で何かが成り立っているかのようなふりをしているのが現在ではないだろうか。170年前の『経済学・哲学草稿』は言葉の最もよい意味で文学的でさえあった。それではいまブンガクってなんだろう。途方もなくおぞましい政治にそれは似てはいないか。

  1167. 秋立つ宵のこと / 蒼穹を西の方によこざまに / 一個の生首が飛んでいった / 軍鶏のちぎれたあたまみたいな / 筋ばった人の首であった / 紺瑠璃の空を / 東から西へ / 首がわたりきるのに / 三分と四十一秒を要した / その間赤いものは / なにも滴ることがなかった

  1168. かれ身障者四級、私二級。ともに躰に逃れられない痛みをかかえる。工藤さんの痛みと私のそれは質的に異なるのだろうけれども、厳寒の雪原をならんで半裸で歩いているようなおもいは、痛みあってのものであり、疼痛はたまゆら反転して熱い湯のような悦びになることもあるのだから、ひとというのは謎だ。

  1169. 静かだった。小鳥の声さえなかったと思う。実際には、ほんの数秒間の情景であったろう。でも、私の記憶では、たった1シーンの時と空間が、永遠のもののように膨らんでいる。その数秒間、私の気はまるで永遠のように惚(ほう)け、幸せに霞(かす)んだからだ。「銀糸の記憶」

  1170. 日本政府は、在日朝鮮人に国籍選択をみとめなかったため、在日の傷痍軍人や朝鮮人軍属の日本国籍もこの時点でなくなってしまう。「皇軍兵士」として戦争に駆りだし、使うだけ使って障害まで負わせて、戦後はホンモノの日本人ではないとして日本の庇護下から切りすてたのである。「消えゆく残像」

  1171. これはおそるべき映像群である。ここにあるのは〈壊れゆく人間〉あるいは〈死に行く人間〉の諸相である。とり散らかした部屋、乱れた髪、曲がりきった腰、顔面に黒々と刻印されたしみ、無数に刻まれた深い皺、死の様な眠り、虚無の笑い、深淵をのぞきこむような眼…「死にゆく者の側から撮られた風景」

  1172. 関東の「動物愛護センター」というところに行ったら、犬を殺して焼いているところでびっくりしたことがありますが、こういう実態と裏腹な名前のつけ方がいま蔓延している。かつての「サラ金」は、実質はさして変わっていないし、多重債務や自己破産が増えているのに「消費者金融」。

  1173. 僕の目から見ると平成の天皇は本音では天皇制や「君が代」を嫌がっている様な気がする。その事をメディアは隠蔽している(略)相当の見識と批判的問題意識を持っているかもしれない。皇太子もね。でも誰もそれを支えないし制度から解放してあげようという人がいない。天皇一家の人権を考えようとしない

  1174. そんななかで、突如 9・11が起きたのです。ことの本質が善かれ悪しかれ、自己身体を破砕してまで何かを表現しようとするテロリストがね。(略)で、死ぬ気で表現しようとする者に対し、死ぬ気どころか怪我するのも怖がっているようなオヤジどもが何を言ったって無効だなって僕は思っているんです。

  1175. 2030年を一番近い破局の指標として、実際にはもっと恐ろしい予測がなされている。新しい細菌が出現する。生態系が完全に乱れる。台風やハリケーンの被害が極端化する。(略)寒い時には非常に寒くなる。暑い時には耐え難いぐらいに暑くなる。私達の日常というものはもはや耐え難いものになっている

  1176. 「雨を見たかい?」という曲は日本のテレビのCMで使われました。(略)日本車のコマーシャルで使われたそうです。ベトナム、アフガン、イラクでの殺戮。死者。回り回って日本のCM。(略)それは、残虐な死の記憶を背負った曲でさえも、大企業の資本というものは平気で呑みこむということです。

  1177. すきまなく善意だけでなりたつことを建前とする集団や組織、運動にときとして戦慄をおぼえるのはなぜだろうか。それらは黙契生成の温床ではないか。すきまない善意はおそらく死刑の存続を願わぬふりをして、そのじつ、こよなく願っているのではないか。

  1178. ひきかえに、私は影を実体と、あるいは、実体を影といいつのる権利をえたのではないか。あの黒い森のはるかな際(きわ)を稜線であるときっぱり断言する神経をえたのではないか。さっき蹴躓(けつまず)いた根株を、切断された馬の首と、ただちに感覚する自由をあたえられたのではないか。

  1179. それにしてもここは昏い。あまりに昏くて詮ない。「ディオニュソスは夜の闇のなかに姿を消したからこそ幸福なのだ」とグルニエは書いた。いまについても明日についてもおのれについても問わないことは幸せである。なにも問わずに、答えのない問いごと、この身体と心を溶暗すべきときがきた。「解体」

  1180. 知的障害ーー私はこのことばをもっとも嫌う。だれが、脳裡の宇宙を精査したというのか。だれが、そんなことを決められるのか。なんにでも◯◯障害、××シンドロームといった病名をつけてこと足れりとするような、そんな世の中にいつからなってしまったのか。「〈見ること〉と〈見られること〉」

  1181. 脳出血して躰が動かなくなって風呂に入れてもらうと、涙がでるくらいうれしい。こんな幸せだってあるのだなと感動しました。おそらくいくらも給料をもらっていないだろう女性が私を洗ってくれる。「頭痒くないですか?」といってやさしくしてくれる。(略)私にとっては至福の時間でした。

  1182. でもたぶん末端で犬を焼いている人、あるいは末端で死刑囚の首に麻縄をかけている人物よりも、手を汚していないという点で、われわれはとても罪深いのだと思います。われわれは手のきれいな、無意識の死刑執行人ではないかと思ったりすることもあります。「殺人の抽象化」

  1183. 状況が変われば東京はどうでしょうかね。(略)君たちはアフガンだからやってるんじゃないかと。その発想はおそらくイラクにも適用されるであろうし、北朝鮮にも適用される。もしそこが市場原理で発展中の豊かな現代都市で肌の白い人間が沢山住んでいたら、同じことは絶対にできないと思うんですよ。

  1184. 暗がりで妙齢の女性が裸足のおじさんたちに給仕している。飲んでいるのは、驚くなかれ、塩入りのコーヒーなのだった。(略)お試しになるといい。コーヒーに塩味はよく合う。後口(あとくち)がじつにさわやかだ。砂糖みたいにコーヒーそのものの香りを消すことがない。「麗しのコーヒー・ロード」

  1185. はっきり言って吉本さんの3・11論、大震災論はつまらない。(略)新聞なんか本当に笑っちゃうんだけど、巨大な思想家が亡くなったという書き方しかできない。彼はずっと原発というものに対して肯定的な立場にいて、反原発運動を「マス・ヒステリア」と罵倒したこともある。「演出者なきファシズム」

  1186. 救援活動への謝意と基地という軍事戦略上の問題、つまり次元の異なる二つの問題をごっちゃにして、それで沖縄に普天間基地の問題でほとんどものが言えなくなるような状態をキャスター自身がつくってしまっている。それこそが米側の狙いだったのです。「日米の心性」

  1187. 僕が特に呆れたのが2012年1月のNHK。夜九時のニュースキャスターがルース大使にインタビューして大使の被災地訪問、米軍の救援活動は感動的だった、本当にありがとうと何度も感謝表明した。それだけならまだしも大使の被災地訪問と沖縄の普天間問題を結びつけて言う。あれは明らかにおかしい。

  1188. それをやっている。私はそれをかばいたい気がします。許せないのは首相官邸に立ってあのファシストの話を黙って聞いていた記者たち。世の中の裁定者面をしたマスコミ大手の傲慢な記者たち。あれは正真正銘の立派な背広を着た糞バエたちです。彼らは権力のまく餌と権力の排泄物にどこまでもたかりつく。

  1189. 糞バエにも受容できる糞バエがある。女性の裸専門の雑誌に書いてブンブンとタレントにたかりついている糞バエ。私は彼らの悲哀をわかります。フリーランスの記者が物陰に隠れて何時間も鼻水を流しながら芸能人の不倫現場を押えようとする。それは高邁な志はないかもしれない。でも、生活のために続

  1190. 私の右手は脳出血による麻痺でつかいものにならなくなっている。残る左手には点滴の管がつながれ、おまけ入院後のストレスで歩行障害、感覚障害が高じて、身体全般の不如意はもはや耐えがたかったのに、私は病室で連夜パソコンに向かい、チューブが絡み付く左手でポツリポツリ文字を打ち込んだ。

  1191. 大地はフライパンのように灼けていた。植物が枯死するみたいに、次から次へと人が身まかっていった。非嘆は、ないわけがなかった。しかし非嘆も慟哭も暑熱に涸らされていた。赤ん坊がよく死んだ。死ぬ前からハエがたかりつき、熱病の赤ん坊の顔面で交尾したり眼窩に産卵したりした。「炎熱の広場にて」

  1192. さほど革新的な新聞とは言えない河北新報でさえ、東北と沖縄の近似性を指摘しはじめている。国策推進のなかでサクリファイスの構造をお互いにもっているということです。苦難の当事者になってはじめて気づかされたことは、中央政府は何もしない、国策遂行のためには「棄民」をするということです。

  1193. 戦前戦中は国家権力が有意の雑誌、単行本を多数発禁処分とし、戦争協力に積極的な翼賛新聞、出版物を大いにとりこんで国策宣伝に利用した。いまは権力の弾圧などいささかもないのに、伝統ある各雑誌がただに売れないからといって版元みずからあっさり休刊、廃刊をきめる。「なんのかんばせあって…」

  1194. 国論を反映するものではない」という菊竹の指摘は、昔日の翼賛新聞だけでなく、“世界一の発行部数”とやらを誇る讀賣新聞をはじめ今日のマスメディア全体にひろがる精神の根ぐされ状況への痛烈な警告である。「雲泥万里」

  1195. 世論は腐敗したメディアに誘導されるのであってはならない。読者にまずもっと事実を伝える。事実をもとにした自由な言論を保障しなければならない…。菊竹の訴えはあたかも七十数年後の今にむけたもののようにさえ思える。「一枚の新聞をよけいに売ること以外、なんの考慮もなき新聞の論調は、決して続

  1196. おそらく、BF症候群により相当に鈍くなったわれわれの皮膚感覚は、この国の実際の“水温”を大いに誤解している。もはや冷水でもぬるま湯でもなく熱湯、しかも沸点に近づいているのではないか。「熱死を避けるために」

  1197. 選挙を“禊ぎ”として、当選すればそれまでの過誤や罪状が洗い流されるという、民主主義とは縁もゆかりもないおかしな考え方が日本というムラにはいまだに残っている。お祭り騒ぎでこの国の真の病根がかえっておおい隠され(略)有権者の方もあっさり忘れてしまうといった悪しき習慣も変わってはいない

  1198. 私個人はといえば、あの時期、数万の群衆が一斉に起立したり、声をそろえてひとつの歌をうたうというかおめくというか、おびただしい人間たちのそうした身体的同調が、おそらくその種のことをのべつやっていたかつての中国を知っているせいもあろう、正直、鬱陶しくてしかたがなかった。「抵抗」

  1199. 学校では教員が校長の意向に沿うているかどうかを待遇に反映させる人事考課制度が導入されようとしており「思想および良心の自由」も「表現の自由」もほぼ根こそぎ奪われつつある。見た眼は谷川俊太郎の詩のように優しく何気ないのだけれどこの国のどの領域よりも早く不過視の戦争構造を完成しつつある

  1200. 死体は洗い浄められ、白い布に覆われ、右の脇腹を下にし、顔をメッカの方向に向けて寝かされ、埋められるという。右にせよ左にせよ脇腹というもののない死体だったらどうするのだろうか。顔のない死体だったらどうするのだろうか。私は欠けた埴輪みたいな形の死体の影を脳裡に描いてみる。「カブール」

  1201. 問題はジジイとオヤジ。かつてはそれらの言葉を他者に浴びせかけていたくせに、その後宗旨替えしみんなで反動を支え、みんなで変節し、みんなで堕落し、しかも、それを組織や時代のせいにして、のうのうと生き延びている年寄り連中をこそ、構うことはない、容赦なく撃つべきである。「堕落」

  1202. 寒天のような無意味のみを残してほぼ消滅するにいたったのだ。善なるものがなくなったからには、悪はもはや悪たりえない。単体としての悪は、単体としての善が存在不可能なように、それ自体の意味をなくし、同時にそれ自身の闇を失う。善なるものの反照のない悪は、闇でさえないし、むろん光でもない。

  1203. まさにそうなのである。時とともに悪は恐るべき進化をとげつつある。経緯はこうだ。まず善なるものの座に悪が居座り、次に悪がいけしゃあしゃあと善面をし、さらには善面の悪が本来善なるものを悪だといいつのり、この勢いに負けて、善でありえたものがどこまでも退化し、いまや、それは蕩けくずれた続

  1204. 夜ふけの浜辺にあおむいて / わたしの死者よ / どうかひとりでうたえ / 浜菊はまだ咲くな / 畦唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな / わたしの死者ひとりびとりの肺に / ことなる それだけのふさわしいことばが / あてがわれるまで 「死者にことばをあてがえ」

  1205. 本来、政治的発言は大嫌い。オピニオンリーダーとかアジテーターと思われるのもまことに心外だね。が、文学や哲学という装置は無限に大きくて政治をも包み込める懐を持っている。状況を政治の言葉ではなく、詩や哲学の言葉で語ることを選んだ。「政治は人の内面に容喙してはならない」

  1206. あのとき首相は派兵の法的根拠をこともあろうに憲法前文に求めて、前文の一部をさも得意そうに読み上げてみせました。居ならぶ記者団からは反論も質問もなく、デタラメな憲法解釈にマスメディアが抗議の論陣を張るという動きもなかった。言葉の力もジャーナリスト宣言もあったもんじゃない。

  1207. テレビとは、恥の花が時の別なく繚乱している世界なのですね。無恥のばか花が咲き乱れ、まっとうな知が駆逐されている。ただし、これを見れば見るほど無恥状態に麻痺し、恥知らずという濾過性病原体に骨がらみ感染してしまって、かつては赤面の至りとされていたことさえ、いまは当然至極とあいなる。

  1208. 不思議なもので、こうも多重にしんどいことに遭うと、もう死んだほうがましだとか思いつめる集中力というか余裕もなくなって、ぼくの場合、逆にヘラヘラ笑ってしまったりする。自嘲(じちょう)とか自棄とかの暗い笑いじゃなくて、これが案外明るい笑いなんです。腹の底からゲラゲラ笑ったりもします。

  1209. ヒリヒリするような心臓が飛びでてきそうな程ものすごい言葉と言葉の真剣勝負をなぜ社会は怖れるのでしょうか。テレビCMやバラエティーショーや携帯メールふうの聞きなれ使い慣れた言葉でないと安心できないのでしょうか。我々は本当の所は言葉に真に切実な関心を持ってはいないのではないでしょうか

  1210. 想像力の涸渇した年寄りはもうどうしようもないけれども、若い人は、まだ報じられてない、語られていない、分類されていない人の悩みや苦しみに新たな想像力を向けていったり、深い関心をはらってほしい。「ほんとうはカブールで何が起こっているか」

  1211. わたしはいま、被災地から遠く離れた東京にいて、いわば快適な環境から、かぞえきれない死者たちの霊と、すべてを失ってしまったたくさんの被災者、友人たち、不安にかられている人びとにむかってなにかを書こうとしています。正直、そのことがなにか罪深いことのようにも思われてなりません。

  1212. 一般に日本の警察は在日朝鮮人を十把一からげにして公安対象者として見ている節がある。たまたま外国人登録証を携帯してなかった在日朝鮮人を身柄拘束して最高懲役1年というデタラメな罰則をちらつかせながら「××組織の情報を教えてくれればなんとかしてやる」と恫喝するのは古くて新しい手口だろう

  1213. あばら骨って、かりにナウマン象のものであっても子うさぎのそれでも、どこか薄ら寂しいものだ。私の好きなある詩人は、自分のあばらの中にはかげろうみたいなものが棲みついていると書いているが、それはあばらに囲まれた暗い空洞にひとり屈(かが)んでいる自己存在自体の寂しさをうたったのである。

  1214. そして、日々の業務として犬を焼かなくてはならない年老いた職員の、眉間の皺(しわ)の深さはどうだ。言葉はほぼ無力なのである。この仕事をして残虐と呼ばわるのなら、残虐の根っこは消費社会の土中をこそ這いめぐっており、残虐の芽は飼い主の気まぐれにこそ兆(きざ)しているとはいえないか。

  1215. 尖閣を東京都が買う、という石原慎太郎都知事の発言もそうでした。「政府にほえづらかかせてやる」という石原発言にマスコミは喜んでとびつきましたが、尖閣を買って、その先をどうするのか、じつは大した展望がない。(略)勇ましい発言をすればするほど大衆受けする時代がすでに来た気がします。

  1216. しかしドイツで私は繰り返し自問した。日本にもドイツのように650万人もの外国人が住んでいるとする。しかも毎年数十万人もの難民が押し寄せてくる。景気は低迷、失業率も高いとする。それでもゾーリンゲンの放火殺人事件のような犯罪は絶対に起きないか。ネオナチに似た民族拝外主義は高まらないか

  1217. 「ちんぴら」という言葉にぼくはどうしても安倍氏を重ねてしまいます。いわゆる“チンピラ”たちは戦争を痛烈に反省したはずの、この国の戦後の成り立ちをまるごと否定し、不戦平和の誓約をヘラヘラ笑いながら靴の先で蹴飛ばしているようです。ぼくはどうしてもそれを諾(うべな)うことができません。

  1218. 人間は歴史に学ばないものなのだろうか。被害の歴史に学び、その途方もない痛みと嘆きの記憶から、金輪際(こんりんざい)、加害の側にはまわらないという決心ができなかったものか。「一トン爆弾」

  1219. この夜、電話が入った。Aさんの勤める会社が倒産した、と。Aさんは黙々と長くデラシネたちの生活を助けている人だ。悄然(しょうぜん)としていると、遠い雪崩のような音がガラス戸を揺する。雷だ。目眩(めくるめ)く紫の閃光が銀の雪景を射て、鴉(からす)が驚き雪中に飛び立つ。「花食む男」

  1220. 本当のこと言うとね、作品評価も本の売れ行きもどうでもよくなった。病気さまさまだね。少しは腹が据わったかな。これからは書きたいことだけを書かせてもらう。百人支持してくれればいい。いや、五十人でいい。百万人の共感なんかいらない。そんなもん浅いに決まってるからね。

  1221. 1988年5月、アムステルダムのホテルの窓から歩道に転落、死亡する11ヶ月前、チェットは生涯で最高といわれる演奏を東京公演でなしとげている。それはジャズの分野にとどまらず、音楽全域における一大秘史であり、詩的にも哲学的にも我々の内面を震撼させずにはおかない出来事であったといえる。

  1222. 口パクやのうて、ちゃんとうたいます。選挙いきます。棄権しません。受信料はらいます。半年分一括でおしはらいさせていただきます。タトゥー消します。規範意識もちます。デモに行けというなら、反原発デモでも尖閣、竹島守れデモでも、なんでも行かせていただきます。せやからポラノンください。

  1223. ポラノンをくれ。一錠でいい。たった一錠でええ。たのむ。ポラノンくれたら、にっぽんチャチャッてさけびますかい。PCしっかりまもります。もっともらしくまもります。「肌色」あかん言わはるんやったら「ペールオレンジ」てすぐに言いかえます。「明日は咲く」かてうたいますけん。

  1224. 二つだけ、死んでもやりたくないことがありました。それはなんでしょうか。私が読みたくないもの、書きたくないものです。それらはいわゆる「人生論」と「闘病記」です。これが大嫌いなのです。「時間感覚が崩れてから」

  1225. 「アヒルの池が突然、血のように真っ赤になったら、それはどこかで戦(いくさ)の始まるしるしなんだって。西洋ではそんな言い伝えがあったんだよ」  彼は静かに怒るひとなのかもしれない。立ち聞きしながら私は彼について新しい発見をしたように思った。「ミュージック・ワイア」

  1226. おとこは瘠せて青白かった。おどろいたことには、あの美しかった若者がすっかり白髪になっていた。まるで透明の絹糸だ。自己の埋葬をつとにすませた者のみが発する妙に澄んだ波動が部屋をはしった。そのかみ、荒川鉄橋上でヒロヒトを爆砕しようと企てたおとこは(略)まるごと吸いとるように俺を見た。

  1227. 女に振られるのと、政府が原子力潜水艦の寄港を受け入れると対米通告したのがほぼ同時期。二つは本質的に全く異なる問題であるにもかかわらず前者の悔しさが後者への怒りを増幅したのだから青春ってまことに厄介という他ない。デモ参加、逮捕、仕送り停止(略)機動隊とぶつかっては殴られてばかりいた

  1228. 棺は いちばん安いプリント合板の / 不浄屍体用平型並棺 / 婆たちは知っている / つづいてあるく私も承知している / あの棺には窓のないことを / なんぼ安くたって / 寝棺は窓つきがあたりまえというのに / あれには 不浄屍体用平型並棺のきまりとして / のぞき窓がない

  1229. 民衆は困窮し、飢え、指導者は豪邸に住み、豪華な宴会を開き、なに不自由なく暮らしているのである。ニュース映像が証明している。人民が貧困に苦しむ国の指導者ほど腹がつきでているという事実を。つまり、サンクション(経済制裁)は責任ある指導者ではなく、全く罪のない民衆を直撃するという事だ。

  1230. でも、ひどく病的な組織アレルギーはあっても、完全な組織否定じゃない。たしかに、僕は署名とか、ただ名前だけの発起人だとかを一切拒否してます。それでお茶を濁して、何かに参画しているんだなんて思いたくないのです。(略)弱いのは組織ではなくて、あくまでも「個」だと考えているものですから。

  1231. 昏夢(こんむ)を消すな。記憶の野辺の暗翳(あんえい)をそれとして残しておけ。意味不明の翳りをそれとして陰らせておけ。ほら、かつて脳裡にえがいたいくつかの暗くおぼろな情景と不可思議なノイズが、よくない菌におかされた樹皮にうかぶ不規則な斑(ふ)のように今も私の中に散らばっているだろう

  1232.  われわれはただ際限なく悲しい。失意の底に沈まざるをえないのは、ただ虚しく、茫漠として悲しいのは、この悲しみの、この悲劇の芯を言いあてようとする言葉がないからではないのかと思うのです。わたしたちは 3.11 でいったいなにを失ったのだろうか。「解体と無化」

  1233. 波濤に洗われて心の居住地が年々せばめられていくような焦りが私にはある。浸食感というやつである。心の居住地とは、いいかえれば、そこで観想し、思弁し、妄想し、反逆もする、内面の自由な領域のことである。あるいは、不埒であれ崇高であれ、好き勝手な書きこみのできる心の余白のような場所。

  1234. 「殺すくらゐ 何でもない/と思ひつゝ人ごみの中を/闊歩して行く」高校の授業中にこんな歌がのった本を教科書の下に隠して、どきどきしながら読みふけったことがある。(略)「自分より優れた者が/皆死ねばいゝにと思ひ/鏡を見てゐる」という歌も本の手触りやにおいの記憶と共に今なお諳んじている

  1235. 人びとを病むように育て導きながら、健やかにあれと命じる資本主義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて“狂者”を(正気を装った狂者が)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるのか…ぼくはそのことがとても気になります。

  1236. 若い人が身のまわりの物を入れた紙袋をもって、途方にくれている。どうしても目が泳いでしまう。ひとつのところに焦点を当てられないのです。ベンチに座っていても目がうつろになっている。自分がどういうふうにふるまえばいいか、すぐに決められないぐらい揺らいでいる。それは見ていて非常につらい。

  1237. ディソンの話は、山での調理から「食器」へと広がった。「バナナの葉に載せて手で食べるとなんでもおいしいですよ。あのにおいと手触りで食欲がわくし、終わったら捨てればいい」再定住地生活のいまは、救援機関からもらった食器がある。いいにおいはしないし、洗わなければならないので面倒だという。

  1238.  では、どうすればいいのか。私にはわかりません。ただ、私としては冒頭の言葉に戻るしかないのです。視えない像を、眼を凝らして、なんとしても視なければならない。聞こえない音を、声を、耳そばだてて聞かなくてはならない。想像力の射程をもっともっと伸ばさなくてはならない。

  1239. そういったマスメディアの中では、正確な、見事な表現で現状の病巣を摘出するというような事が、あまり奨励されない。木で鼻をくくったような文章で、全てを書いていく。記者クラブに配られる官庁の発表文書をそのまま記事化したりする。(略)官庁の広報担当のほうが記事スタイルがうまかったりする。

  1240. わたしたちの心は夜ごとにたわんでいた。心は他の心を鎖す。心は他の心に鎖される。鎖されて心は悽然とすがれていく。乳色の鬱懐の林の、どこかしらわたしの内部のような夜の内部をあるく。常時未明の林をあるくのだ。「もういいかーい?」。すがれた心なのに、両手とも、さも決意めくこぶしをかためて

  1241. イラク戦争がはじまったころに、アメリカの軍関係者が記者の質問に対して「われわれは死体を数えない」と発言しました。いちいち敵の死体なんか数えない、と。「イラク・ボディ・カウント」という名前はそれに反発してつけられ、あらゆる情報を集めて無辜(むこ)の市民の死者の数を数えつづけている。

  1242. あるいはだれかが言ったけれども、「天罰」がきた、とかいう形で、われわれの経験を回収していく発想です。こういう思考のプロセスは俗耳に入りやすい分、大変危険でもあります。そうではない。天罰でも天恵でもありえない。(略)死者たちへの礼にも欠けます。それから、抱くべき絶望もなくなります。

  1243. 密室を想像する。(略)遮光のあんばいで声音が変わる。出席者の貌が影で毒々しく隈取られる。外光がさえぎられるかげんに応じて、声がくぐもっていく。そして、戸外の光が完全に遮断されたとき、人の死ないしそれにむすびつく話、すなわち〈戦争〉が話し合われる。「でたらめ」

  1244. 世界から祝福もされず生まれて、世界から少しも悼まれもせず、注意も向けられず餓死していく子供がたくさんいます。ただ餓死するために生まれてくるような子供が、です。間近でそれを見たとき、世界の中心ってここにあるんだな、とはじめて思いました。これは感傷ではありません。

  1245. ある夜、避難所の外でふるえながらトイレの順番を待っていた。ふと空を見あげたら、目に突き刺さるほど近くに銀色の星々があった。友人の生涯でもっとも美しく、もっともたくさんの星々が、にぎやかに闇夜に降りつづけていた。死者たちの星々。果てない命の生滅…。「影の行列と目に刺さる星々」

  1246. 細かな事だが読者は注意したほうがいい。三浦氏はさりげなく人種差別的な表現をするのが得意なのである。「姜という在日の大学教授」という、当然記すべきフルネームを省略した無礼な個所がそれだ。日朝交渉についてまことに道理にかなった発言をしている姜尚中さんに対する、これは軽侮の表現である。

  1247. わたしはかけた。胸をはってかけた。わたしは英雄だった。しあわせで気が変になりそうだった。そのときが絶頂だった。バス通りをかけた。道は舗装されていなかった。みな、まずしかった。だが、道にこんなにもひとが死んでたおれてはいなかった。学校も病院も焼けただれてはいなかった。

  1248. 若くて、からだがこんなでなかったら、ニッポン脱出をかんがえるよ。ここにいるいまは、武田泰淳が言ったみたいな全的滅亡を夢みてる。いままでのような部分的破滅じゃだめなんだ。徹底的な滅亡、泰淳が表現したみたいな「目にもとまらぬ全的消滅」を、おれは心のどこかで待ってるんだよ。

  1249. ぼくの場合は切実だったんです。「秀逸」という本名には本当に長年迷惑してまして、中学、高校在学中は先生にしょっちゅう殴られていました。「名前負けだ」と。成績も素行も悪いもんですから。いまさら題名の脇に黒々と「秀逸」もなかろうと、凡庸の「庸」です。これで楽になった(笑)。

  1250. イエス・キリストの鏡像。おのれに見入るイエス。主よ、あなたは鏡を見たか。主よ,見なかったはずがないではないですか、主よ。キラルとアキラル。あなたの鏡像。合わせ鏡。鶏姦。鏡像異性体。主よ、あなたはきっと見たにちがいない。性交とともにもっともいかがわしいものとされる鏡というものを。

  1251. 時々私、大学などで学生達と話すと少し胸が痛む思いをするのですね。彼らは非常に敏感な心の共鳴板というのでしょうか、感じとる力を持っているのに、それを隠すのですね。例えば一人でも堂々と反対意見を手を挙げて言うとか、そういう事をしないのです。それを美徳としない社会的強制力すら感じます。

  1252. ジープから一本道に降り立つ。無人の街道をたったっと走ってみる。下手なタップダンスを踊ってみる。すると絹地みたいにてらてらと黒く呆れるほど長い影が悪鬼みたいに街道上を走り踊るのだ。こんな黒豹みたいに立派な影を私はこれまで見たことがない。身に帯びた事もない。私は影を新調したのである。

  1253. 「国を愛する」というときの国の実体が僕にはわからないのです。どこに愛すべき国の実体部分が、手触りできるものとしてあるのか。(略)両手で抱きしめて愛するには、この国はあまりにもむなしすぎるのです。「何を子どもたちに言うのか」

  1254. 風景が反逆してくる。考えられるありとある意味という意味を無残に裏切る。のべつではないけれども、風景はしばしば、被せられた意味に、お仕着せの服を嫌うみたいに、反逆する。刹那、風景は想像力の射程と網の目を超える。「反逆する風景」

  1255. 何より情けないことは、大マスコミの多くがあのファシストの尊大、倨傲(きょごう)、横暴にろくに文句も言えず、舌鋒(ぜつぼう)に怯(おび)えていることです。張り子の虎に怖気(おぞけ)をふるっている。「日本的ファシズムの怖さ」

  1256. メディアや知識人の思想上の視力が日に日に落ちている。(略)石原にとってのアジアは台湾しかない。他は全部脅威。しかも軽蔑しています。他民族蔑視をこうもあからさまに口にする人物も珍しい。こういう人間が文学をやるのは勝手ですが、政治をやらせてはいけないと思う。続

  1257. アフガンにいけばわかります。戦術核並みの破壊力をもつ爆弾を平気で使用し、アフガンを兵器の実験場にした。あれは戦争なんかじゃない。信じられないことですが、害虫駆除のような感覚です。タリバンなんて言ったって、兵士の多くは干ばつでろくにものも食えなくなった農民たちです。

  1258. 多数決で決めてしまえば、内心の自由の領域に属することでも我慢するしかないのか。僕は我慢するべきではないと考えています。我慢すべき性質の問題ではないからです。「個々人の実践的なドリル」

  1259. 老人は目を細めて笑った。一回転・一日延命の伝説はほんとうにあるのか私は問うた。「あるにはある。だが、愛しい人だけなのだよ。恋人でもいい。親でもいい。兄弟姉妹でもいい。心から愛しいと誰かに思われている者だけが、ゴンドラの回転でほんの少し命を延ばせるのだよ」

  1260. もっと遥かの、あの空よりもっと濃い、ずんぐりとした灰色の塊がたぶん原発であろう。雪に隠れて形はおぼろだ。でも、四号炉は罅(ひび)割れたコンクリートの棺のなかで、いまも死なずに熱しているはずだ。「オーブン」(1995年)

  1261. 鈍色の空の下に、雪に覆われた無人の街が、音も色も消されて広がっている。死んだ電線がたわんで、幾筋も意味もなく空中を走っている。遠くに病んだ森が雪にかすみ、どす黒く帯状に延びている。この部屋の主は、病む前のあの森を見て、ショスタコビッチを聴いたのかもしれない。続

  1262. でも、何度もいいますが、「外部」はそうは見ていません。北朝鮮だって、米国の軍事戦略に完全に組みこまれた「キツネのような帝国主義者」として日本を見ている。彼らから見たら、アメリカと日本は常に仲間なんです。「平和主義で問題を解くとき」

  1263. 「私ら毎日殺処分しとります。鳴いているのは来週月曜に処分される連中です。わかるんですな、間もなく焼かれるという事が。焼いてるんですわ、ここで、八百度以上で。何年も何年も焼いとります…」捕獲された捨て犬が毎日ここに搬送されてくる。処分してくれと直接もってくる若い飼い主も少なくない。

  1264. 彼は、テロリストとして(昭和天皇)裕仁の暗殺を謀ったわけですが、そこには彼ももう触れて欲しくないだろうと僕は思っていたんです。でも今回の句集に、それを彷彿させる句を彼は入れてきたんです。しかも、それが最近の2011年の作です。〈大逆の鉄橋上や梅雨に入る〉。「大逆の鉄橋」

  1265. 神話を信じているほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑り、苦しみ、闘うという主体的営みの対極に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。(略)その近代神話の頂点にあるのが原発だった。原発神話はほころびが出てきたけれども、まだ破られていない。

  1266. 遠くにぼた山がある。頭上をメガネウラに似たいやに大きなトンボが飛んでいる。ターコイズブルーの胴体。薄い柴色(ふしいろ)の複眼。あのトンボを一匹捕まえたいけれども、わたしはぼた山にいかねばならない。わたしが生を得るまえから、あちらにぼた山がいくつもあるのだ。「ぼた山」

  1267.  ぼくはぼくの表現をまったく評価しない。自分の人生というものも、物語としては本当に駄作なのだと、最近あきらめがついた。もっと上質の作品でありたいと、たいていの人間はそれなりにそうおもう。物語にしたい。でもぼくのばあいはない。そんなものはもうないな。「〈不都合なもの〉へのまなざし」

  1268. 末期症状の現代資本主義に生きているぼくらは、どのみち、いまの階級矛盾から逃れることはできません。階級対立のただなかにあっては、つきるところ、一般的に救うか救わないかではなく、闘うか闘わないかしか選択の余地がないともいえます。闘う事により変革の主体としての自己を救うしかありません。

  1269. いまは猫も杓子もテレビやCMにでていなければ価値が劣るみたいに考えている。だんだんお声がかからなくなると、自分が社会的に追いつめられているように思わされているタレントたち。人を商品価値としか見ていない、倒錯した社会。極論すれば、まともな人間は昔はテレビやCMなんかにはでなかった。

  1270.  サテンの手が上肢をさすっている。私は半睡したまま宙に浮いている。水の底のように声は遠い。「どうして月とか火星とか、外側にばかりロケットを飛ばすんですかねえ。…人の内側にも探査ロケットを飛ばせばいいのにねえ…」。宇宙より人の内奥のほうが未踏なのに、といっているらしい。「青い炎」

  1271. 世界はこの映画よりもっとブラックかもしれない。『博士の異常な愛情』には少なくともノーベル平和賞を授けられた現職米大統領はでてこなかったのだから。臨界前か否かを問わず核実験・開発を行う者たちの理屈は金正日の北朝鮮であれオバマの米国であれその貧寒とした嘘のレベルにおいて大きな差はない

  1272. テレビに政治家の顔が大写しになった。うすらにやけている。ただ芝居がかっているだけで、眼にも声にもそのじつ真剣みはない。〈犬以下だな〉といったんはおもい、あんまりだとすぐに撤回する。政治家みたいに。本音はむろん変わらない。「老人と犬」

  1273. わが群系の もっともおぞましい密事に / 死ぬ気もないのなら / ゆめ触れてはならぬ / 暈色は暈色として 妖しく おぼろに / 反射させておけ / どうしても語りたいのなら / 以下を忘れないことだ / ー最善の色から 最悪の汁が / 日々に にじみでていること「halo」

  1274. 万引き防止のために。それでも盗む奴がいた、梯子をかけて。ぼくは親父の書棚から盗んだ坂口安吾の『堕落論』の、確か初版本を文献堂に売り払い、それで映画観て、ラーメンライス食った記憶があります。「新聞言語と小説言語の狭間で」対談・日野啓三

  1275. 昔、早稲田に文献堂という左翼本専門の書店がありまして、ほんとにいい古本を置いてました。主人は、もう亡くなりましたが、たいへん目利きだったですね。涎が垂れるような本ばっかり揃えていた。埴谷雄高さんの『死霊』や、もちろん日野さんの本もあって、いい本ほど本棚の高いところに置いてある。続

  1276. 原爆投下に関する昭和天皇の言葉(1975年10月)もまた、いまでも考察にあたいする軽みがあると言わざるをえません。「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

  1277. こんな事をしていていいのでしょうか。心の中にメディア世界にはどんな真実があるのだろうと思うのです。「真実」の底というものが見えない。五分ごとにCMが流れる。なんだろうこれはと思う。そこには恥とか文民統制という生まじめな精神は何もない。全部お笑いとCMと一緒に溶解してしまうのです。

  1278. 梶井は闇に感官の全開を感じ、埴谷は闇に宇宙をなぞるのだけれども、とまれ両人共に闇を追う視線の強さはどうだ。いい闇といい眼がかつてはあったのだ。さて又、私も今闇に埋まりこんだ記憶と忘却を見てはいる。だがきょうびのこの闇ときたら「ぬばたまの」ではない「善」で灰色に修正されたそれなのだ

  1279. もうひとつは、主要メディアがのべつやっている世論調査の影響も大きい。世論調査は、実は世論誘導の機能を持ち合わせていて、数字は客観的な調査の結果たりえないと思う。「決壊した民主主義の堤防」

  1280. さあお乗りなさい。二十いくつかのドアがすべて惜しげもなく口を開く。ひかりが溢れでてくる。だれもいない車内に、ぼくは勿体ぶって足を踏みいれる。特別の招待客みたいに。そうしたら、すでにだれかいた。皓皓とひかりを浴びて、老婆がひとり当然のように座っていた。「自動起床装置」

  1281. 「瞬膜ができたらしいの…」/ 言いつつ、きみがまばたきした。/ 乳色の半透明膜がそのときも、/ きみの目玉を掩った。/ 鮫のように。/ 蛇のように。/ 「一瞬だけだから、支障はないのよ」/ きみは寂しく微笑んだ。/ 三日後、おれにも瞬膜ができた。/ 母の眼にもやがて瞬膜ができた。

  1282. でも言うべきであろう。顔を取り戻せ、言葉を取り戻せ、文体を取り戻せ、恥を取り戻せ。反乱の勇気がないのなら、その場で静かに穿孔(せんこう)せよ。(略)まっとうな知の孔を開けよ。孔だらけにしてしまえ。そのように呼びかけるべきである。ひょっとしたら、呼応する者が幾人かいるかもしれない。

  1283. みんなが絶対安全圏でものを言って、本当に語りにくいことについては触れない。革新派、護憲派が特にそうです。(略)だから、若い人間が、「この人はひょっとして腹をくくっているのではないか」と錯覚して小林よしのりあたりに行く感じは、少しわかるような気もする。「安全圏から語るな」

  1284. 経済格差がかつてなくすすみ、その日の生活にも難儀している貧困階層が拡大しつづけているというのに、彼らの味方を標榜する共産党や社民党は、なぜ支持層をのばす事ができないでいるのだろう。(略)いや党勢などなくてもよい。せめて底光りする存在感が欲しいのだがそれも見えない。「底光り」

  1285. だがしかし、一人、また一人と身まかり、風邪のように逝き、かつて心に描かれた紅い、眼が焦げるほどに紅い絵図を視た者、知る者はもはやごくごく少ない。過誤を語るに足る記憶も、いつか散らばり失せつつある。時が逝く。へらへら笑いながら過ぎていく。「記憶と沈黙」

  1286. わたしはぼんやりと骨をさがした。骨のような石のような死んだサンゴのようなものが無数にあった。しかとは言えないけれども、それらのなかに知人の骨もあるはずであった。(略)しらじらと白化してしまった骨たち。踏むとカシャカシャと乾いた音がした。蹴るとカラカラと鳴いた。「死と滅亡のパンセ」

  1287. 宗教だってそうですよ。例えばローマ法王でも誰でも、出てくるべきですよね。枢機卿なんかが身体はって何か根源的なメッセージを発するとかね。それをやろうとする人間がいない。滑稽かもしれないけど、案外そこは大事だと思います。言説の大きな流れを作っていく突破口が、未だにないんだと思うんです

  1288. 日本ではペットが死んだとかいって大泣きして葬式をやったり、ミネラルウォーターを与えたり、ペットの万歩計を作ったりね。これで市場が成り立つ。でもこれも市場原理がこしらえている倒錯の世界だと思う。カブールというアフガンでも最も経済的に発達した所でさえ普通の人々は日本のペット以下ですよ

  1289. その事については、吉本さんだって関係がないわけじゃない。吉本さん自身「ぼくは戦中派ですが、まだ生き延びています。その理由は、うまくやったからです」(『大状況論』)と白状している。うまくやったやつらだけが、いまへらへらしゃべって空しく生きているのですよ。「《アメリカ》を生理が拒む」

  1290. そうね。それと言説は身体を重ねた場合、必ず「死」に向かうと思うんですよ。三島由紀夫がそうだったようにね。吉本隆明がいってるでしょ。三島の自死で「思想は死んだな、無効だな」って。 彼は連合赤軍が浅間山荘事件で銃撃戦のすえ逮捕された事についても「命がけの思想は死んだな」というのです続

  1291. それは次期首相が確実視される安倍晋三氏の言う「戦後レジーム」からの脱却どころか、戦後の成り立ちの根こそぎの転覆ひいては不戦平和の誓約の破棄ではないのか。政治を「重大に扱ふのは莫迦々々しい」とうそぶいている間に、気がつけばレールは敷かれいまや情勢は「重大に扱はなければ危険」の段階だ

  1292. みなとともに叫んではならない。みなと同じ声で泣いてはならない。みなと一緒に殺意をいだいてはならない。みなと一緒の認識には、かならずといってよいほど錯視がふくまれているから。みなと一緒の行動にはたいてい救いがたい無神経とヒューブリスと暴力ないしその初歩的形態がひそんでいる。「垂線」

  1293. だれにでもなく、自身にくりかえしいいきかせなければならない。改めて記すまでもないことだけれども、残りの生を意識し、ここにあえて書きおく。みなともっと別れよ。みなからもっと離れよ。人をみなと一緒になって嘲(あざけ)ってはならない。その彼か彼女をみなと一緒になって指弾してはならない。

  1294. もし核兵器と原発という二つの分野の次元が違わないのならば、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の対象に原発を加えてもいいんじゃないか。もちろん、これも仮説に過ぎない。でも、今はそこまで考えなきゃいけない時期だと僕は思っているんです。「〈3.11後〉忘却に抗して」

  1295. 大した事は起きないと言ったが、わけのわからぬ事は起きないでもない。先日、こんな事があった。四階から五階への階段の途中に瘠せた女がいた。階段に直に腰かけ、脚を開きかげんにしていた。干し柿のように皺だらけの顔に蓬髪が垂れている。(略)女を避けようと私は左の手すりのほうに寄っていった。

  1296. いや、背景を背負っていてもダメなのはダメなわけですよ。それほど過酷だということです。どんなに人徳があって高潔な人でも、下手なものは下手。泥棒でも人殺しであっても、よいものはよい。これはしょうがない。作品に下駄を履かせてはいけない。「突きつけられる“生”と“死”」

  1297. お参りに行きたくとも行けない墓。ねんごろに弔いたいのに弔えぬ死者たち。金網が境(さか)う日本の「内」と「外」。BEGIN のメンバー三人の目はしかたなく境界を超え、基地内の地下に眠る魂に近づき質問する。そこからなにが見えますか。わたしたちは誰ですか。ここはどこですか。

  1298. もしジャコメッリに会うことができたなら、かれがムッソリーニをどうおもっていたのかを、たずねたい。日本では戦後、少なからぬ詩人が自作の戦争詩を改竄し、多数の画家は戦争画を焼き捨てて、戦争協力の証拠を隠滅しようと躍起になった。「表現者はいかにして資本と権力から自由でありえるか」

  1299. 人間のために、人間が生きてゆくために、商品やマーケットは生まれた。ところが、商品やマーケットのために人間が存在するのが、現在の世界である。この倒錯を証明するためにはマルクス主義者である必要も共産主義者である必要もない。それは事実であるから。そのことを誰が否定できるのか。

  1300. 九条のみならず、憲法はいまや、ほとんどの条項にわたって、ぼろ布のように破壊されている。それなのに護憲学者たちは憲法をあたかもまだ健常体であるかのごとく語っている。彼らは有事法制反対にも自衛隊派兵反対にも起ち上がらず「困ったものです」とリベラル面をして嘆いてみせる。

  1301. 2030年に暑い夜がいまの三倍になっても、しかし、快適に暮らす人間たちはいるでしょう。それは貧しい人たちではありません。富裕層だけが環境の快適さを享受するわけです。これは資本主義の単純な原理です。「資本による環境収奪」

  1302. お辞儀もしなければ葉も閉じないのでは、もはやオジギソウともいえない。ひょっとしたら、自己主張というものを自らに禁じ、特徴のないただの野の草として、皆と和して平穏に群生していたいだけなのかもしれない。含羞も怒りも知羞もなくセンシティブでもない、「無感動草」になりたいのかもしれない。

  1303. 盛んに踊りを踊ったのは民衆なのであった。こうした動きに異を唱える者らには隠然たる国家テロがなされたが、これに対してもメディアは単に無力だっただけでなくおおむね無批判でもあったのであり、権力によって次から次へと屠られる異議申し立て者について、民衆は一般に無知か無関心か冷淡であった。

  1304. 1931年の柳条湖事件はこの国を中国との十五年戦争に誘導していった。後の歴史は、事件が関東軍の謀略であり、民衆の意思に逆らい、戦争へと導いていったのは、あたかもひとり軍部であったかのように教えている。だが、軍部のお先棒をかついで戦争を大いに煽りたてたのはマスコミなのであり、続く

  1305. テレビに関しては追従どころではない。裁判がはじまると被害者側の談話ばかりをまるで誘導のようにカメラの前でかたらせる。そうして被害者感情に限りなく同化し報復感情を煽りたてておいて、裁判で死刑判決が下されなかったときは裁判官に非があるかのような報道をする。

  1306. したがって、「君が代」だって「こえにだしてよんでみると、いみはよくわからなくても、きもちがいい」とあいなるわけであり、この押しつけがましい情緒を、「たんかも、はいくもにほんにむかしからある、詩のかたち」と断じて補強し、文句はいわせないぞという語調になるからしまつがよくない。

  1307. 谷川俊太郎の文章に「たんか」という不思議なひとくさりがある。『詩ってなんだろう』という本のなかに、短歌の解説の体裁でさりげなく収められている。はじめて眼にしたとき、半透明の灰汁(あく)のようなものを感じ、考えこんだ。なんだか油断がならないのである。

  1308. 樽や井戸のなかで暮らす者たちには、よほどの想像力の持ち主か慧眼(けいがん)でないかぎり、樽や井戸の外形や容量を見さだめるのが難しい。まして、樽や井戸の外部の他者たちがそれらをどのように見ているかについては、まず考えがおよばない。「国家の貌」

  1309. あのエリック・サティはナマコを食わんかったかもしらんけどもや、ナマコが鳴くことを知ってはった。ほんでもって、サティは「ナマコの胎児(ひからびた胎児)」というピアノ曲を実際に作曲しているんだよ。意外にリズミカルで、なかなかこの曲からナマコを連想するのはむずかしいけどな。

  1310. ベトナム戦争の時は沢山の仏教徒が焼身自殺したんです。サイゴンでガソリン浴びて。日本でも由比忠之進さんというエスペランティストがやっぱり抗議の焼身自殺をしたんです。エスペランティストの間ではいまでも語り継がれています。身体ごとの思想ですね。そういう抗議の強さがいまはない。

  1311. 今後は絞首刑の執行をテレビで全国津々浦々に実況中継すべきではないか。正視できない、あまりに酷(ひど)すぎる、無残だというのならば、放送ではなく死刑を即時廃止すべきではないか。そうできぬものはなにか。もう一度問う。そうさせないものはなにか。「自問備忘録」

  1312. 死ぬと、多くは木の皮に包まれ、バナナ畑に埋められる。バナナの肥やしになる。私は精製の悪い黒ずんだ砂糖と石鹸と安ものの毛布を担いで、土中の仏たちを踏み踏み、一面のバナナ畑を漕いで歩き、患者の家にそれらを配っては話を聞いた。「飢渇のなかの聖なる顔」

  1313. バートン監督は『リターンズ』で、バットマンをあろうことか主役の座から引きおろし、偽善実業家やフリークスと同様の脇役にしてしまったといっても過言ではないだろう。それは、バットマンが、悲しいかな、あまりにも役立たずであることがはっきりしたからだ。「アメリカの夢の終わり」

  1314. 男によると、このあたりの自販機の下の「お宝」は、板きれをもった別の野宿人らによって、払暁すでにかきだされてしまっているのだという。これからどうするのか、私は東京弁で問うた。自販機の下のお宝をかきだしに、隣町に、そのまた隣町に、またまた隣町にも板きれ片手に歩いて行くのだと彼は答えた

  1315.  一見してきらびやかな消費資本主義の実相は、人に愛想を尽かされ、棄てられ、野ざらしになったモノたちの山にこそある。ゴミに本質が宿る。世紀末資本主義の、それが臓腑(ぞうふ)であり、内面の風景なのだ。「棄てられしものたちの残像」

  1316. 歴史とはかくも不公正である。祖国が植民地とされ、皇民化政策にさらされ、日本名を名乗らされ、言語を奪われ、強制連行され、重労働を強いられ、そこここで人種差別され、故国を見ないままピカドンを落とされ、屍まで差別され、あげくからすに食われる。「歴史と公正」

  1317. 報道によると、首相官邸正門と反対側の歩道で、由比さんは立ったまま胸にガソリンをかけ、ライターで火をつけて、仰向けに倒れたのだという。七十三歳だった。私は新宿の喫茶店の白黒テレビでニュースを見た。画像は舗道上で瀕死の状態で横たわっている由比さんをためらわず映していた。「抗うこと」

  1318. 天上の星座は私たち二枚貝のロゴスなき「循環死」のしるしである 私たち二枚貝はまったく高等でも あまりに下等ですらない 私たち二枚貝にはとりとめのない追憶があり かりそめの涙があるにはある しかし時制はない そして ときどきピュッピュッとけちくさく潮を噴いている 「星座」

  1319. だがしかし、世は空前の“エコごかし”だ。朝野あげて二言目にはエコ、エコ、エコの大合唱。貧者の生血をすって肥えふとる環境ヘッジファンドや穀物・種子メジャー、原油高騰の背後でうごめく投機ファンドなど元凶の所在をつきとめようとする視力も意欲もあったものではない。「ごかし社会」

  1320. あれは、人間チェット・ベイカーというより、超過剰摂取のすえに、ついに身体ごと麻薬そのものと 化してしまった究極の“麻薬体”がうたい、吐息し、ブローしていたのではないか。とすれば、それに酔いつづけた私だって、スピードボールの間接中毒のような状態にあるのではないか、と妄想するのである

  1321. 怒りをなえさせるものーそれは語ることの容易ではない深い羞じの感情である。西の大都市の知事に当選したという得意満面の青年が、傲岸不遜を絵にかいたような東の大都市の知事に、あいさつと称してぺこぺことゴマをすりにいき、取材陣、というよりテレビと新聞の糞バエどもがぶんぶんとこれにたかった

  1322. われらは青緑の巨きな卵めざしてあるく / われらは青緑の巨きな卵をめざして / われらは青緑の巨きな卵のなかをあるく / いま穹窿はマラカイトグリーンにぬめり / ヨーロッパコマドリの卵殻の色に晴れわたっている / われらは卵中にあって 卵をあなぐっている 「ドーム」

  1323.  人は奪われると、奪われたものに対して、かえって敏感になる。彼は単に固定空間に収容されているのとは違いますよね。迫りくる死刑、悔恨、自責、病気といった二重三重の責苦がある。それらを僕らは手探りし、想定しながら読まなくてはいけない。「突きつけられる“生”と“死”」

  1324. いくらやっても、歩くのが上手にはならない。しかし、自主トレをやめると歩けなくなるおそれがある。いくらやっても目立った向上はない。が、やめると自滅。これって、悔しまぎれにいえばだね、嫌いじゃないな。ちょっと形而上的というかね。「“無”を分泌し、ただ歩く」

  1325. 有名な詩人が大手生命保険会社のテレビコマーシャルのためにもっともらしい文章を寄せる。(略)ぼくはあれほどひどい罪はないと思う。あれは正真正銘の“クソ”なのです。堪えがたい詩人のクソ。そう思いませんか?そう思わないという人はしょうがないけど、ぼくは思わないということが怖いのです。

  1326. 皆さんもサダム・フセインに絞首刑が執行されるシーンを見たと思います。あまりにもひどい光景でしたが、あの映像にはガーンという音しか入っていない。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はもっと細部の音まで入れているわけです。それは頸骨が折れる音です。バキッという音を入れている。「死刑の実相」

  1327. 資本は資本の運動と市場維持にそぐわない、すなわちもっぱらもうからないという理由からのみ、本格的戦争を回避している。中国資本はすでに疲弊した米資本主義の枢要部までおよんでおり、あたら宿主(しゅくしゅ)としての米国を殺す必要はない。(略)問題は「中東大戦争」の新たな可能性である。

  1328. ところで、改憲論の高まりと全く逆の空気もわずかながらあります。『文藝春秋』8月号に岩田正さんの短歌が載っていて「九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか」っていうんです。(略)僕はこういう岩田さんの気持ち、すごくわかるんですよ。「ちんぴらに負けてたまるか」というのが…。

  1329. が、本音は、むろん石牟礼道子さんその人の体内に、生まれついてこの方その様な湖底があるのだと思っている。そこから『十六夜橋』の物語は沸き上ってきたのである。人が生きるという事の例外のない不首尾が、ここでは濃艶な美として見事に造形された。なんという深く哀しい湖をお持ちかと私は驚嘆する

  1330. ふと、わたしは捨てばちになっているのだろうかとおもい、そう自問してみたが、どうもそうではない。自棄(やけ)というのではない。わたしはとても凪いでいる。「青い花」

  1331. わたしは諍(あらが)わない。だが、祖国防衛戦争にはしたがいたくない。老人と各種障害者には応召義務はない。もっけのさいわいである。空はむしろ妖しいほうがよい。敵影は見えない。機影なし。続く

  1332. 暗闇のことを、「ビロードの衣装のような」とか「黒革の艶のような」とか形容する作家がいるけれども、私にはできない。こぎれいな比喩表現は、たまさかの闇ならまだしも、たとえば、停電が一週間もうちつづくとなると、心理的に不可能である。相当に散文的にならざるを得ない。「自力発電装置」

  1333. 僕は石原を主敵だなんて思わない。賞味期限の切れかかった空っぽの暴言居士にすぎない。それより石原のような者に票を投じる「市民」といわれる人々の心の動きに関心がある。石原その人よりも、彼を都知事にし、さらに首相にしたいと願う民衆の方が、言葉の正確な意味で「モンスター」だと思うのです。

  1334. これを省略するのはいうまでもなく筆者の自由ではある。促音ひとつ落とすか落とさないかは、しかし、しばしば趣味をこえて生き方と思想にかかわる。その一語でたちまちにしてすべてが露見しすべてが饐える。fuck you! はファック・ユー!である。ファク・ユー!ではない。(09.6.26)

  1335. 世間は感情的です。世間はきわめてエモーショナルで、それに歯止めをかけるのは大変に難しい。世間は異物を排除し、同時に私たちは世間から排除されることをもっとも恐れる。その恐怖心が私たちこの国で生きる者の行動を心理的に拘束している。しかし、私たちはそれを踏み越えなくてはなりません。

  1336. 明日世界が滅びるとしてもマスコミは日常を維持しようとするでしょう。なにも考えないように、けっして振り返らないように、笑いさんざめき、浮かれ騒ぎ、視線を落とす幕間すらないようにCMが流れ続ける事でしょう。なんという恐ろしい日常に私たちはいるのか。なんと世間とは得体のしれないものか。

  1337. 存在しない思念のカナル。それらとともに、それらに惹かれて、わたしは線路上をあるいている。とても眼がわるいのに、気がついたら、眼鏡をかけていないのだった。さなきだに惛い局面上の夢のようなうねりを、わたしはのろのろと裸眼であるいている。「青い花」

  1338. それとも、私が加害者への愛ばかりを偏重して話しているので、もっと被害者のことをかたるべきとおっしゃるでしょうか。たしかにそうかもしれません。私はしつこく死刑囚のことばかり想像しているのですから。しかし、被害者への配慮と死刑囚への愛をひとつの次元でかたるのは誤りだと私は考えます。

  1339. 詩人も受勲し褒賞を受ける。シンボリックにいうと〈幸せな詩人たち〉私はこの人たちが最も罪深いと思っています。〈幸せな詩人たち〉ほどひどい人間はいない。〈幸せな詩人たち〉はどこに人を殺すと書く事もなく、なにを悪辣な言葉で汚す事もなく、きいたふうな言葉で世界を綺麗なものに装わせてしまう

  1340. 私達は永田町に集約されたものを平気で政治と呼ぶけれども、あれは政治でしょうか。(略)政治ではなく世間ではないでしょうか。自民党と民主党が議場で主張を戦わせていると思いきや、そのじつ党首が料亭で会合をもち連立政権の相談をしている。建前と本音が画然と分かたれた、これは世間に違いない。

  1341. ひとつの試みとして、たとえば普天間飛行場のようなものが米国内にあるか、と問うてみる必要もあると思います。そういう非人間的なことを君らは自国でやっているか、耐えられるかと。「原点としての『肝苦(ちむぐ)りさ』」

  1342. 朔の夜、死んだ唖の汽船があった。ひとつの街のようにじつに巨大な、無声の、死んだ汽船が、スチールグレイの重い影になってまっ黒な海原に浮かんでいたのだ。汽船にはひとの気配がないばかりか一点の灯火もない。それにこの海には潮が満ち引く兆しもない。「紙吹雪」

  1343. あれだね、あれ。あれを気持ち悪い、怪しいと言ってチャンネルを変えるというのはあまりないだろうな。チャンネル変えたってどこもろくなものをやってるわけじゃないし、「花は咲く」なんてやめろ、気色悪いと言うのはかなり難度が高いというか、相当の孤立を覚悟する必要がある。

  1344. ウサーマ・ビン・ラーディンことウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディンの美しい顔が一枚、今朝方アラビア海から大津波でいたんだこの小さな河口に流れついた。どこにも銃創はなかった。

  1345. ちょっと格好よくいえば、そういう見た目、不格好な自己像は、比較的許せる。(略)許せる自己像をもったのは、おそらく自分が生きてきたなかで初めてではないかとおもう。だからね、倒れるまえに戻りたいなんて毫(ごう)もおもわない。走っている夢をみたりするけれどもね。「無を分泌し、ただ歩く」

  1346. 人間は、どうしてもこれまでの日常がいまもつづいているのだという意識をもちたがる。マスコミはだからそういう報道をする。(略)とりわけテレビが、事態は基本的にはなにも変わっていないかのような番組をたれ流す。不景気だって、半年、あるいは一年待てば終息するだろう、取りもどすだろうと。

  1347. 体制のいかんを問わず、どんなに政治情勢が厳しいにせよ、経緯がどうあれ、また僕らがいかに正しいと思ってとりもっていた人づきあいであれ、かりに仕事の延長線上で、結果的に友人やニュースソースに迷惑がかかるとしたら、その仕事は最低だと思うのです。零点です。「情報はどう取るか」

  1348. 眼鏡をかけたあの青白くやせた青年は我々と同じ(略)ヒトとして分類するのが困難な、悪魔ないし悪魔と同等の「人間性のかけらもない」生き物という事なのか。どうも按配がおかしい。顔写真をしげしげと見る。もちろん悪魔になんかみえない。あまりに普通すぎるほど普通なのだ。「秋葉原事件求刑公判」

  1349. 蛍はたとえ何百万匹が同時に光ってもけっして燦爛(さんらん)としない。闇は明るまず、蛍火によって夜はかえって暗む。蛍が励起しているのは光ではないからだ。未来でもない。過去だ。過去をいざない、過去にいざなう。そのことを私は知っている。「闇と蛍火」

  1350. 右肩に激痛があるのだから患部は右肩であると当の本人もしばしば勘ちがいしている。しかし、私の患部は正しくは脳にあるらしい。入院したとき、脳出血後遺症の視床痛が右肩に感じられているのだ、と若い医師が教えてくれた。世に二大激痛というのがありましてね、末期ガンの痛みと視床痛がそれです。と

  1351. 赤い砂漠は今も記憶の視圏にはてしなくひろがっている。風紋に見入り、ふと思いいたったのも赤い砂漠のただなかだった。私はおおむね過去の反映のなかでしか生きてこなかった。反証ではなく傍証をのみよりどころとして、受けるべき苦しみをなるたけさけるように、じつは退行しつつ生きてきた。

  1352. これだけの不条理をはらみながら、さしたる問題がないかのようによそおう世間。もともと貧窮し、こころが病むように社会をしつらえながら、貧乏し、病むのはまるで当人の努力、工夫、技能不足のようにいう政治。「プレカリアートの憂愁」

  1353. 身を沈めるとは、 / 葦の原に、/ 気とおき無辺の葦の原に、/ 雛鳥みたいに醜い裸身を一体、/ あたうかぎり / 低くしゃがみこませることである。/ じっと卑屈に、/ 葉と葉のあいだから / 「他」の顔色をうかがうことだ。/ おののいてのぞき見ることである。「夏至」

  1354. 心因性の失語症という。話はそれだけである。それだけ話してもらうだけでもじゅうぶん残酷であり、私はただ聞いているだけで犯してはならない罪を犯した気がした。波に呑まれた小学生の娘は、大震災における行方不明者 3493人のうちの一人であり、死者 15841人にはふくまれていない。

  1355. こうなったら、荒れ廃れた外部に対し、新しい内部の可能性をあなぐる以外に生きのびる術はあるまい。影絵の人のように彷徨い、廃墟の瓦礫の中から、たわみ、壊れ、焼け爛れた言葉の残骸を一つ一つ拾い集めて、丁寧に洗い直す、そうする徒労の長い道のりから新たな内面を開く他にもう立つ瀬はないのだ。

  1356. 日本ではいま、とても空疎な政治家により「最小不幸社会」とやらがもっともらしく言われる。笑止。「美しい国」どうように、どのみち言われなくなるだろうけれども、最小とはいったいどのくらいか。最大とはどれくらいか。「生きのびることと死ぬること」

  1357. ぼくが言いたいのは「繊細」ということなんだ。セケンというのは案外に敏感で繊細なんだと思う。怖ろしいほどね。きみは以前、バークレーでだったか「ナマコには目も耳も鼻もないけれど、鈍感ときめつけてはならない」とか言ってたね。セケンだって鈍感ではない。「ナマコと国難」

  1358. 2011年3月11日と同じ海がいまは、ひねもすのたりのたりかな、なのである。ぜんたい、造化の主などというものがどこにいるのだろうか。わたしはもう悲しくはない。くくくと、なにか笑いのようなものさえこみあげてくる。「神なき瓦礫の原にて」

  1359. 疎開先はどこも物価高だ。若者に比べ、老人は放射能の影響が少ないと、農民たちは信じている。口減らし。立ち入り禁止区域にそうして戻ってくる老人も多い。緩慢な死を待つ。だが、体のこの痛みはなんだろう。泡立つ不安。だれにでもいい、そのことを訴えたいのだ。「禁断の森」

  1360. …二年前にモスクワから学者が来て食品を調べてもらったら、この土地のものはなんでも食えると言った。だから野菜も果物も魚も食べているが、現在ほとんどの住人の甲状腺が腫れたり熱をもったり、どうもおかしい。疎開先の者も含めると、事故前千人以上いた村民の百人近くが死んでしまった。

  1361. 夜 / 眼がひとつ どろっと 浜に在った / 眼窩はべつの浜辺にくぼみ / 他の湾として潮をためた / まぶたとまつげは消えた / 眼はもう見ず それとして見られず / ただ どろっと 海牛のように夜の浜に在った / 宇宙の法はそうやってはじめてあきらかにされた 「眼球」

  1362. 額に汗して働くという事を、こんなにも小バカにして、投機と消費を、生き残る唯一の術のように語る。国を挙げて消費や射幸心をあおり、消費者金融が大もうけしている国が、いったいぜんたいどんな道徳を語ることができるのでしょうか。それは今の社会的荒廃といった事と地続きの問題だと思うわけです。

  1363. たとえばエコロジーという概念がある。意識産業によって、ある種よいことをしているという幻想を植えつけられてひとびとは、“ エコ商品 ” を買うことが善であるとおもいこまされる。結果、エコはいつしか強制的な概念となる。 「資本、メディア、そして意識」

  1364. やっぱり寺山修司じゃないですが、「身捨つるほどの祖国はありや」なのですよ。僕は、僕自身もこの国も誇ることができない。現代史にも胸を張れない。これには十分な理由がある。いわゆる立派な公民、立派な国民に僕はなれないし、なる気もないし、ならなくていい自由が欲しいのです。

  1365. 安全なところで屁理屈をこねたりしないで、自分が一兵卒になってどこかの前線にでも行けよと言いたくなる。あんな結構なお育ちじゃあ、戦場ですぐ腹こわして、そこいらの着弾音だけで腰抜かすんじゃないですか。「日本的ファシズムの怖さ」

  1366. 余談ですが、石原、福田両氏並みに下品に言わせてもらえば、お二人にはいずれも三島由紀夫ほどの覚悟はないと思うな。死ぬ気がね。その気があればいいというのじゃないし、死ぬ気なんぞなくていいのですが、僕は彼らの話にはどうも興味がもてない。(略)そんなに戦争やりたきゃ、若者をけしかけたり続

  1367. 血がでてゐるにかゝはらず/こんなにのんきで苦しくないのは/魂魄なかばからだをはなれたのですかな/たゞどうも血のために/それを云へないのがひどいです/あなたの方からみたら/ずいぶんさんたんたるけしきでせうが/わたくしから見えるのは/やっぱりきれいな青ぞらと/すきとほった風ばかりです

  1368. 別れぎわにあの青年は最期の質問をしました。「3・11 後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」。わたしは宮澤賢治の「眼にて云ふ」(『疾中』所収)という詩にとても感動した、と迷わず答えました。(略)その詩の最後の十行はこうです。 続く

  1369. 猿とは、アルゼンチンの詩人レオポルド・ルゴーネスの皮肉な仮説によるなら、何らかの理由で言葉を話すことをやめてしまった人間なのだそうだ。いまから九十年以上前の寓話的な散文「イスール」でそういっている。「言葉の退化」

  1370. 表裏は哀しいほど一致しない。昔はダブルハットといったね。後ろ姿見て、すてきだから、はっとして、前見たら、ちっともすてきじゃないので、再びはっとして、だからダブルハット。でも、なべて人とはダブルハットであるとわかるのに二十年、表より背面が本当とわかるのにさらに十数年もかかった。

  1371. 天然のウラン中の存在比を人為的に変える事とはなにか。それは反宇宙的所業なのではないか。そうした核をもちいる発電が、本当に根源的に安全かどうか。宇宙の摂理に照らせばどうなのかということを、もっともっと謙虚に考えなければならないと思うのです。「気配と予感」

  1372. 妙に涙もろくなっている。心が際限なく悲しい。はっきりしているのは、よるべなさだけです。そこはかとない無常感と浮遊感。私をふくむすくなからぬ人びとがあたかも失見当識か離魂病のような“内面決壊”の症状を呈しているようです。そのことと言葉にはなんらかの関係があると思わずにいられません。

  1373. が、私がもっとも憎むのは、「やつを殺せ」という蛮声に眉をひそめるふうをしつつ処刑をいたしかたのないことと内心受け容れて、日ごとの思念から不祥(ふしょう)の影をこそげ、おのれはうるわしく生きようという「知」のありようではないか。

  1374. 言論状況は好転どころか、著しく悪化している。天皇、いわゆる「従軍慰安婦」、死刑制度という三大テーマは、かつてよりよほど語りにくく、身の危険を覚悟することなしに、公然と本音をいいはなつことは難しい。事実、まっとうな議論を臆せずしたがために、理不尽な攻撃を受けている人々がいまもいる。

  1375. それは子どものお絵描きにもならないようなものでしたけれども。そこに私は2002年4月何日と書いたのです。その日の記録のつもりでした。それを見た友だちにごくひかえめにいわれました。「ことしは2004年だよ」と。私はゾッとしました。嘘だと思いました。とても傷つきました。

  1376. やっとのことで帰ると自宅は火事で、奥さんは焼死していた。夫が玄関に外から鍵をかけていったので妻は火の手からにげる事がかなわなかったのだ。火事のもとは妻の火の不始末にあったらしい。夫は夜も日も悲しみ、のたうつように苦しんだ。玄関に施錠したのには訳がある。妻の不意の徘徊を防ぐ為だった

  1377. 国家権力とジャーナリズムは絶対に永遠に折り合えないものです。折り合ってはならない。国家機密はスッパ抜くか隠されるか、スクープするか隠蔽されるか、です。記者の生命線はそこにある。いまは権力とメディアが握手するばかりじゃないですか。記者は徒党を組むな、例外をやれ、と僕は思う。

  1378. 皆さんご存じだと思いますが、障害者用の風呂にはクレーンのようなもので吊り上げられて入れてもらうのです。浴槽の高さですからべつに高く吊り上げられるわけではないのですけれども、あおむいているからか脳がやられたからか、肉体的には非常な高さを感じます。「『潜思』する人びと」

  1379. 「半端ねえ。まじ、半端ねえよな…」なにが半端ではないというのだろうか。課題本の内容か。レポートのむずかしさか。世の中の急な暗転の不気味さか。聞き耳をたてた。話のはしばしからテキストが小林多喜二の『蟹工船』であることはわかった。声をひそめて彼らはいう。「あんな船、まじ、あったの?」

  1380. 高校の授業料無償化について朝鮮学校は当面その対象外とするという最近の方針も、北朝鮮当局のありようと在日コリアンの教育をどうやら意図的に混同しており、初歩的合理性にも最低限の道義にも欠ける。(略)にしても悲しく、苦々しい。「ニセの諸相」

  1381. 抽象的にいえば、私たちの神経細胞は、同じ天皇を頂点とする世間の湿った土壌から生まれ、派生し、ひるがえって、同じ世間へとのびていく。そのなかでは、個人は薄い。愛は、とりわけ見知らぬ他者にたいする愛は薄い。他者の苦しみに思いめぐらせる気持ちは薄い。本当の意味で権力とのたたかいもない。

  1382. キース・リチャーズもかつてよく木登りをしたものだ。たまに樹から落っこちてけがをして救急車で病院にはこばれた。キースって好きだな。ネコをずっとカエルだとおもいこんで飼っていたらしい。 「青い花」

  1383. 白い布地には黒字で細かに経文が刷られています。風が吹くと経文が迷界をさまよう霊魂のもとに運ばれるというのです。長い年月を経た幟は、風雪にすり切れて、布地に記された幾千幾万語の経文もさすがに消えかかっています。まさに、風が文字を霊魂の元に運んでいったのだと信ずべき根拠になるのです。

  1384. 僕は復興という言葉はあまり好きではないのですが、瓦礫のなかで一生懸命言葉を拾い、自分の思いを言葉にするということ自体、素晴らしい人間の能力です。自分に備わった能力を確認していくことこそが、人間の希望なのだと思います。「傷を受けて、ものを書く」

  1385. 街頭での無差別殺傷事件の加害者と被害者は、次の時点には立場が逆転している可能性がある。類似の事件と相克は止揚されることなく、いま無限に反復されている。われわれはそんな世界に住んでいます。 「来るものはすでに来た」

  1386. 人類がかつて経験したこともないアノミー状態にあるのに、しかし、マスメディアはそうではないかのように言い張っていますね。あたかも合理的世界がまだ現存しているかのように。我々にはまだ未来や希望や救い、従うべき人倫、共同体、規範、悦ぶべき物語、歌うべき歌があるかのように言う。

  1387. 眼もあやな緋ぢりめんの長じゅばんをばさりとはおり、大股であるいてくる男を見てどぎもを抜かれたことがある。木造三階だての女郎屋とよばれていた家屋から男は前かがみででてきた。眼がすわっている。首から足首まで、それはみごとな彫りものがあり、まるで全身に青緑の肌着をつけているようだった。

  1388. 死刑は地方自治体や中央裁判所が執行するものではありません。では誰が執行するのか。私はこう考えています。死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家に与えるということです。私たちがその権利を黙契によって国家に与える、これが死刑なのではないでしょうか。

  1389. そんな大学構内で学生が反戦ビラをまく。また学生以外の人間がイラク戦争反対のビラをまく。それは反社会的行為なのだろうか。教職員がすっとんでくる。警察に躊躇なくすぐ電話する。パトカーがすぐきて捕える。そんなばかなと思う。「瀆神せよ、聖域に踏みこめ」

  1390. プール 午後一時 紺青の水が 大いなる水がねの 溜まりと化して 浴むひとびとの 窩(くぼみ)という窩を 音なく侵す 思考はもう気化せず 液化せず ただ無化して きらめき狂う 思考は 一片たりとも 水がねの質量に担保されず 水がねの残滓の無意味としてのみ ただいたずらに発声する 

  1391.  例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた。 「仮構」

  1392. 社にも作家にも誠実で眼前の男の本がなんぼ売れるか売れないかを反射的に計算もできる、有能な編集者たちばかりだ。空虚だ。あまりにも空虚である。記者が編集者がディレクターが、連夜、飲み屋で評論している。「うちはだめになった」と皆がいう。「うち」ってなんだ、うちって。

  1393. 元慰安婦の人たちの話というのは、言葉のレベルでは、それは違う、そんなはずはないなどと、いろいろ言われます。ただそんなの当たり前なんですよ。僕らだって一週間前の自分の経験を記憶だけで言えって言われたら全部不正確になりますよ。それが五十年前ですからね。「身体的記憶の復活」

  1394.  忘れ去られた死を、もう一度、自覚して死んだほうがいい。精神の死を内面で再現し、深く傷つくべきである。そして、心の傷口で現在を感じてみる。無謬(むびゅう)の者の眼ではなく、根源的挫折者の暗い眼でいまを見てみる。すると、(略)現在のなみひととおりではない危機が見えてくるのである。

  1395. いつのまにかひとびとの「無意識」に入りこんできているものがある。どんどん潜りこんできている。それは芸術でもなければ神でもない。「資本」である。資本は無意識をうばい、無意識を変型しつつある。「『無意識』に入りこむ資本」

  1396. 1997年にバチカン市国は三浦朱門に対して聖シルベスト勲章を与えています。バチカンがいかにその人物を細部にわたって検証していないかという事が明確に証明されている。(略)キリスト教の宗教家が「宗教は宗教、死刑は死刑、法律は法律」と言ったとしたらそんな宗教を果して人は求めるでしょうか

  1397. 枕を買いに行く。せめては枕だね、枕。寝苦しければ枕を替えるにかぎる。道すがら汗をかきかき思う。ひと口に枕たっていろいろあるな。ええと、陶枕、木枕、草枕。祝いの枕に船底枕。香枕、箱枕、羽根枕。 「マイ・ピロー」

  1398. 永山の死に際し「特に感想はありません。法律は法律だし、文学作品を書く人の業績は業績です」といい放ったという作家某氏の酷薄は、おい、亀よ、ゴキリと骨の鳴く音をよそに、おつにすまして咲き群れる、この塀の外の、真白き立葵の心根にどこか似てはいないか。

  1399. おそらく、われわれの遠い先祖たちの時代には、〈 現 〉のなかに〈 異界 〉が自然に入りこみ、たがいに仲よく親しんでいた時代があったのである。そしてそのかすかな〈 記憶 〉から、いまわれわれは、〈 異界 〉や冥界が身近にあるような風景を意識下で欲しているのであろう。

  1400. 「むこうはこちらを見ていない。こちらはむこうを見ている」と考えるのは、相手を撮影するときのカメラマンの、あるいは表現する人間の救いがたい特権意識である。撮影行為や表現行為というもののなかには、そんな意識せざる特権意識がある。それは私のなかにもあったし、いまだにあるだろう。

  1401. 小説の素人である私は、おそらく、この残酷さのなんたるかも、底知れぬ怖さも、まだ見据えてはいない気がします。だから、書くのだと思います。いくつも、いくつも書いて、私というもののケタの小ささを知り、虚しくなり、結局もう書かなくていいとう理由が見つかるまで、書き続けるのだと思います。

  1402. 国家の権力機関が人々の自由な表現や行動を抑えつけ、問答無用と獄に繋ぐやり方は確かに地獄に違いない。政治家や社長さんが勤労者から搾取して私腹を肥やし、人々が貧困に苦しむのも地獄だ。具体的に痛みや怒りを感じる地獄であり、こんな権力は壊さなければならない。大震災も地獄、大火事も地獄だ。

  1403. 最近の若い記者を責めている訳じゃないんです。いまの道筋を作ったのは、結局、旧世代、我々だったわけだから、我々に責任がある。でも最近とても気になるのは、マスコミの会社に自分が帰属するという事と、彼方には権力というものがあるという、その境界線がほとんど意識されていない、という事です。

  1404. そして、新たな災厄は、十中八九、約束されている。新たなテロの襲来は、アフガンへの残虐な報復攻撃により、かえって絶対的に確実になったといえよう。報復攻撃開始前より、いまのほうがよほど確実になった。なぜか、だれもがそれを知っている。心のうちで災厄の再来を予感している。

  1405.  ときには、うすら陽に街の輪郭がみすぼらしくたわみ、どこからか鉄粉かなにかの焦げいぶるにおいが流れてくることがある。空気がいやに重くて、音という音がアスファルトに沈みこむ。ほんとうのところ、いまは朝なのか夕方なのかいぶかってしまう。「音なく兆すものたち」

  1406. これは不思議なことに資本の運動法則によくなじんだのです。迂遠な苦労とか苦心とか、そういうものがなくなって、情報の伝達と情報の受容が、資本の移動同様に、パソコンで即座にできるということが当たり前になってしまった。ぼくはむしろそこに恐ろしさを感じます。「時・空間の変容」

  1407. このくだり、シビれるよね。あんた、シビれないかもしれないけど、おれは超ばかだから、とってもシビれるね。上まででっかい石をもちあげて、山頂までやっと運んだとおもったら、それがまた下に転がっていく。それをまた拾いにいかなければならない。(「シーシュポスの神話」を読んで)「思索と徒労」

  1408. 多少屈折はあっても、彼の思想は維持されている。逮捕されてから37年間変わらないものがあるとしたら、国家に対する徹底した不信でしょう。内面化するにしたがい、彼の句から抵抗の精神が薄まっていったかというと、そうではない。明らかに句境は深まっている。「深化する言語、維持する思想」

  1409. 拉致問題にからみ、われひとり「善政」を敢行せり、みたいな顔つきで連日善玉パフォーマンスに余念のない安倍晋三官房副長官が、平壌から帰国後、テレビ番組に出演して慇懃(いんぎん)かつ冷淡に語っていた。コメ支援など「検討すらしておりません」と。「恥」

  1410. だって現実にいま、首都直下型地震が起きてもおかしくないわけだから。2011年の3月11日を起点にした情勢だけで、これからをはかることはできない。もっと三連続地震みたいなものを前提にしなければならないとしたら、原発だけの問題にとどまらない。「記憶の空洞化」

  1411. 世間の成員に求められている姿勢とは諧調、ハーモニアスであること。協調的であること。なによりも大勢にしたがった意見をいうこと。大勢の人がすることが世間にとってただしいことになるわけです。大勢の人がしないこともまた世間にとってただしいことになる。「ギュンター・グラスと恥の感覚」

  1412. 世の中がコーティングされていることにたいするいらだち。そのコーティングの一枚下はもっとひどいもので、人の血や涙が全部ペンキで隠されている。あるいは若い人たちの孤独感、世界からの切断感、それがみんなコーティングされている。「駄作としての資本主義」

  1413. ぼくも経験があるけれども、編集会議にでると、みんな一面から三面まで暗い記事だから少し明るいニュースも入れようよという。そんな事実がどこにあるのかとおもうのですが、かならずそういう無意識の演出と操作がある。マスコミが日常を操作し、その色合いを決める。これはある種のコーティングです。

  1414. 自分にはモニター画面しかない。顔も体臭も感触も分らない。不特定多数の人間がモニター画面の向うにいて、その人間と書きこみで交わる。それが真の交感になるでしょうか。ぼくはならないとおもう。交感にならないことを毎日毎日やらねばならない。そして、モニター画面でその孤独の埋めあわせをやる。

  1415. 私は青森県にあった永山則夫の住まいを見に行ったことがあります。見るからに貧しい家でした。家中にトイレのにおいが充満していました。その家で彼は母親と暮らしていた。母親は魚市場に行っては落ちている魚を拾い、それを売って生活費にしていたといいます。たいした金額にもならなかったでしょう。

  1416.  当時政府は、「国旗・国歌法ができても強制はしない」と言っていた。しかし実際に国旗・国家法が通ってみると、案の定、学校現場では徹底的な強制が行われて、少しでも反対する教員には、情け容赦ない処分が行われているという状況です。「個々人の実践的なドリル」

  1417. 私が驚いたのはエイズウィルスが混入している恐れのあった非加熱製剤の在庫を、厚生省がある段階で調べて、何億円に当たるかを計算していた事。そして加熱製剤を認可するまで、その危険な非加熱製剤の出庫を野放しにしておいた事。被害者達は在庫処理のために犠牲にされたんじゃないかと疑いだしている

  1418. 青年はときおり演説をやめようとして口にわが手を必死であてがうのだが、口は別の生き物になっていてたえまなく話しつづけた。かれは鼻筋のとおった美しい面立ちをしていた。白昼の夜戦はじつに熾烈をきわめた。青年はいまや涙を流していた。おれも泣いた。「夜戦」

  1419. それよりじきに / 口中いっぱいに割れた黄身がひろがって / ぽとぽと喉へと滴っていく幸せの予感に / 私 Y はおもわず眼を細めてしまう / 喪の列の私 X がそれとてもつとに察知して / いよいよ憤慨し / いとどに泣いているのも知らずに 「黄身」

  1420. だれかが猫の首を切ったとか報じられることがあるけど、もっとシステマティックに大量に、しかも “公的に” ペットは殺されていて、その全行程を消費資本主義が無感動に支えている。あの殺しの装置は各自治体がもっていて毎日毎日、この国の空にはペットをやく煙が上がっているわけですよ。

  1421. 国家が個人の心のありようまで覗きこもうとし、無遠慮に容喙(ようかい)してくる傾向は時とともにますます著しくなっている。このままいけば、私がよりどころとしている内面の自由の領域は、ちっぽけな孤島のようにたよりないものになる恐れもなしとしない。

  1422. 当時、「あの弁護団にたいして、もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と、視聴者にうながした弁護士が大阪府知事に就任しました。テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさもこの国に特有の日常です。

  1423. 私はふたたびマザー・テレサの言葉を思いだします。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」。ほの明るい病棟を想起しながら私はこの言葉にうなずくしかありません。私たちは自分に都合のよいものだけを愛していると彼女は告発します。やさしさというよりも凄みがにじむ至言ではないでしょうか。

  1424. 私は本書ではこころみに「愛と痛み」というもっぱら痛覚の深みから死刑を考えてみる。死刑にふれることは私という思考の主体がそのつど痛み傷つくことである。しかし、死刑を視野にいれないことは、思念の腐敗にどこかでつうじる、と私はおもっている。痛み傷つくのは、したがって、やむをえないのだ。

  1425. ひとつ…観覧車はいくら回転しても1ミリだって前進しはしない。永遠に宙を浮いては沈み、ひたすらにめぐり、めぐるだけだ。(略)ひとつ…観覧車は大地の裂け目から突然に生えでた花の、その残影みたいに、儚い記憶でしかない。ひとつ…観覧車はなにも主張しない。ひとつ…観覧車にはなんの意味もない

  1426.  そのものたちの眼の沼にはぷかりと私が浮いていた。彼らのぬるい沼に私はたゆたっていた。私はうごうごとしていた。私は海鼠であった。彼らの眼の沼を泳ぐ海鼠の影であった。言葉は溶けていた。惨(みじ)めでさえなかった。すべてうごうごとしていた。

  1427. 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定どおり絞首刑を行うような狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ。「自問備忘録」

  1428.  助手席にはベトナム人アシスタントのT君がいて鼻唄をうたっています。ときどき、「雨のシトシト降る寒い日には、犬を食えといいます。ねえ、こんど犬食いに行きましょう」などと、雨なんか降ってもいないのに話しかけてきます。「葬列」

  1429. 人という生き物は、まったく同じ条件にあってさえ、他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができるふりをするのがどこまでも巧みだ。孤独の芽はそこに生える。慈しみの沃土に孤独の悪い種子が育つ。

  1430. 湾岸戦争、アフガン、イラクへの攻撃がある。アメリカが落としている爆弾投下量というのは本当にすさまじい。そして、爆弾というのは熱量でもあるわけです。私はずっと思っているのですが、核実験も含めて戦争で使われた爆弾から生じる熱量は、環境全体に計り知れない影響を与えてきたに違いありません

  1431. 突きつめて考えてみれば、いまの私には彼に話すべきことがらは多くはなかったのだ。死についていいおよぶのは、どうあってもためらわれた。同じ理由から晴れやかな生について語るのも無神経なことに思われた。とすれば、どうしても話さなければならないことなど結局なにもなかったかもしれない。

  1432. 音はあったはずですが、記憶にはなぜかのこっていません。無音でした。そうとしか記憶していません。巨きな波の崖は、そびえたったままの姿勢で、なにか海が上下ふたつに別れて、上側がずれるようにして、陸側にせまってきました」 「ーー災禍と言葉と失声」

  1433. 「雪がななめにふっていました。その空をたくさんの鴉がみだれとんでいました。鴉は山からとんできたのです。どうしてとんできたかはわかりません。雪は白い緞帳みたいでした。ぶあつく見えたのです。大津波は緞帳をつきやぶり、ぬっと姿をあらわしました。波はまるで断崖絶壁でした。 続く

  1434. その意味合いでは、詩を書いている方が自分の内奥に正直なのだろうと思います。ただ、私は記者時代のノンフィクションが長いわけですけど、もともと書く事にボーダーを作らない。純文学とか大衆小説とか、あるいは詩とか散文とか、そういうジャンル分けの様なものを最も意識しない人間だろうと思います

  1435. 新たな眼の戦線ができるとすれば、眼の自由、意識の自由から構想されるだろう。私たちの眼はもはや自分の眼ではない。他から埋めこまれた義眼である。操作されつくしているこれまでの眼球は棄てるべきである。眼窩で現状の白い闇の奥を見とおさなくてはならない。「謎と自由」

  1436. 老者はあのとき、ビーフジャーキーのような手首に、手錠をはめられ、連行の途次であった。にやけた刑事によれば、老者は人殺しであり、五年の無言の行のすえに、ついに狂れた、インチキ行者である、という。刑事は押し殺した声でいった。悪いが話しかけるな。聞くな。見るな。ただ忌め。ただ忌めばよい

  1437. あの姿は、かれらにとっては、ひとつの美であり、文化であることだろう。それをわれわれは同時代にいきなり引きずりこんで、カメラで、テレビで写したがる。そのような特権意識はどこからきたのか。なんのことはない。すべて金に置き換えただけの話ではないか。「倒錯した状況のなかで」

  1438. もう一つ、メディア状況で僕がいけないなと思うのは、さっきの権力との境目がなくなってきた事に加えて、執拗さがなくなってきた事です。事件を追いかけたり、調べたり、構想したり、跡づけしたりする時の、物理的、時間的、精神的な執拗さが、著しくなくなってきた。怒りにも持続性がなくなってきた。

  1439.  しばらく前、新幹線にのってその人に会いにいった。延命治療はすでにことわっていた。身内によると、その種の治療をほどこすかどうか医師に問われたとき、その人はやや恥いるように、消えいるように、けれどきっぱりと、「もういいです…」といったらしい。「キンモクセイの残香」

  1440. なにごとにおいても私は過剰なものですから、リハビリも全力をつくしてやりました。一日一回、かならず階段を上り下りしないと、それができなくなるものですから、近くのデパートまで行って上ったり下りたりを繰り返しています。「瞬間と悠久と」

  1441. 護送車やパトカーの窓から、大抵は手錠や腰縄をかけられたまま、大都会の風景を眺めたことが何度かある。デモで逮捕された東京で、公安当局に連行された北京で。いうまでもなく、それは護送車やパトカーが走る大都会の風景を、通りを自由に歩きながら眺めるのとは大違いである。「書く場と時間と死」

  1442. だれのものでもないはずの、つまりだれのものでもあるべき水が商品化されて、貧困者が清潔な水を飲めなくなってから久しいわけです。いまや、水でさんざ金儲けした企業が、「ミネラルウォーターを買ってアフリカの子どもたちに清潔な水を届けよう」などというキャンペーンをやっている。

  1443. おそらくぼくを見れば、「ああ、なんてひどいんだろう」と、多少のショックを受ける人は少なからずいるでしょう。でも、傍目(はため)で感じられるほど、本人はそうでもなくて、それはぼくのいやなところでもあるのだけれども、妙に建設的なところもある。「“無” を分泌し、ただ歩く」

  1444. 逆に、携帯もパソコンも非常に快調に受信し発信できているとき、検索もスムーズにいくとき、なにか妙に朗らかになったりする。つまり、自分の生体というものがデジタル機器の端末と化している。その好不調で自分の内面の色あいが決められている。それはおかしい。「端末化する生体」

  1445. 「〈思い〉はみえないけれど〈思いやり〉はだれにでも見える」という宮澤章二の詩行も、まるで洗脳のように反復放送されました。わたしはこの反復放送がとても気になってなりません。これはサブリミナル広告のような社会心理学的に重要な効果を生んだと思われます。「言語の地殻変動」

  1446. 愛国心という精神の統御の問題は、国家が個人の内面に土足でずかずかと干渉してくるという面だけでなく、この偽造された精神がかならず国家によって物理的に回収されるという目的性のあることです。すなわち「愛国」の一点で悪しき国策への同意や服従を求める、ということ。「惨憺たる昔と『いま』」

  1447. 「このあたりの水は、海がすぐ近くなものだから、塩水も淡水もまざりあってるのね。海でも川でもあるというわけよ。変な水ね。汽水というらしいわ」(略)「汽水っておいしいのかしら。来てはいけない魚が来てしまうの。さっきのイシダイみたいに。でも汽水には汽水の魚しか棲めないのよ」

  1448. 身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・ 基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。

  1449. でも中国と戦争やるのか、ロシアと軍事力を競うのか。(略)そうしてこの国がいくら軍備を増強したって、あんなマンモス象みたいなのにどうやって対抗するのだと、その非科学性を言っているんです。九条死守より軍備増強のほうが客観的合理性を欠くのです。

  1450. 先ほど、私は原発の話をしたけれども、あの福島原発と、多くの他の原発の前提には、事故は impossible という、非常に不遜な、傲慢な前提があったにちがいありません。これは過誤、誤りと、科学技術の過信、自然に対する傲慢さときめつけがしからしめたものではないかと私は思います。

  1451. 三月を生きぬいた / 青い蛇たちが夏 / 牽牛星アルタイルのもとに / 距離十五光年の夜を / くねくねと飛んでいく / 宙はいま あんなにも深い / 木賊色だ / うねくるいくすじもの / 青い蛇の径を見あげて / こころづく / ーーものみな太古へとむかっている

  1452.  命を捨てて国を守る意識って大事ですか? 僕はそうは思わない。この国が命を捨ててまで守らなければならないような内実と理想をもった共同体かどうか、国という幻想や擬制が一人ひとりの人間存在や命と引き合うものかをまず考えたほうがいい。沖縄戦の歴史のなかに正しい解答があるでしょう。

  1453. たそがれどき、南千住の界隈を歩いていると、腰から足もとにかけて不意にべらぼうな重力を感じ、地中にひきこまれそうになったり、空足を踏んだりすることがある。だから逢魔が時なのだというより、正確には、その頃からしののめにかけて、たぶん、地霊のたぐいがうち騒ぎ、独特の磁場を生じるからだ。

  1454.  男とばかり思っていた野宿人は、男を装った、中年の女なのであった。野宿人がこのところ増える一方だけれど、女性はじつに珍しい。男を偽装してまで、東京を流浪しているわけはわからない。つらいな。ひどいなと思う。 翌日、女は消えた。存外に大きい乳房の形が私のまなうらに残った。「目玉」

  1455. 私より十五年は長く生きている会社の役員が嘆くのを聞いた事がある。愛だの恋だのへちまだのといいおって。春闘だの賃上げだのへちまだのと冗談じゃないよ。…これは、いわゆる、へちま文である。打ち消したい事実や行為、主張を指す名詞の羅列の最後に、へちま、この一語をさりげなく配するのである。

  1456. 懺悔するな。/ 祈るな。/ もう影を舐めるな。/ 影をかたづけよ。/ 自分の影をたたみ、/ 売れのこった影は、海苔のように / 食んで消せ。/ 生きてきた痕跡を消せ。/ 殺してきた証拠を消却せよ。/ しずやかに、無心に、滑らかに、/ それらをなすこと。 「世界消滅五分前」

  1457. それはなによりも、新聞連載時の最初から最後まで、読者の方々から予想外に多くのお手紙を頂戴したからである。ものを書くという孤独な航海で、これほど励まされ勇気づけられることはない。読者こそが航海の友である。それはときに羅針盤になり、ナビゲーターになり、気つけ薬にすらなりうる。

  1458.  いっそ政治など一言も語らず、柄ではないが、低徊(ていかい)をもってひたすら趣味としたくもなる。しかし、そうするのはなんだか滑稽な気もしないでない。言葉吐く息の緒が、吐いたとたんに腐り、変色するこの空気から、誰が逃れられるというのだろう。「言葉の退化」

  1459. かくして「死刑執行」の四字は、痛みも叫びもなく、修正液であっさり人名を消すかのような印象しかあたえない。すなわち、国家は背理の痛みを感じさせない隔壁をしつらえており、マスコミの多くは隔壁を突破するどころか、隔壁の重要部分を構成して恥じない。「背理の痛み」

  1460. 実体的な扇動者がやっているわけじゃない。大阪の橋下という青年がやっていることは憤飯物なんだけど、彼だけが元凶ではないね。彼は真犯人ではなくむしろファシズムのピエロなのです。じゃあ誰が操っているのかというと、誰でもない砂のような大衆と選挙民個々の無意識が操っているんじゃないかな。

  1461. 乳を搾っては、夜、川に流す。牛乳は脂肪分があるので川面に浮かぶ。川面が真白になってしまう。夜がすっかり乳くさくなる。月光に川面が白くてらてら光る。一面の妖しい川明かりだ。「川さ、乳ば、牛乳ば全部流すんだよ。ふふふ、天の川さ、ミルキーウェイだべさ。いままで、なぬやってきたんだべ…」

  1462. …牛を殺すわけにはいかない。生きていれば、乳がはる。ほうっておくと乳房炎になるのだ。かわいそうだから毎日搾乳してやるわけだ。何缶も何缶も牛乳がたまる。線量はわからない。線量なんてもう測らない。どうしようもない。値がいくら低くたって、だれも買うわけがないのだから。しかたがない。

  1463. 断たれた死者は断たれたことばとして / ちらばりゆらゆら泳いだ / 首も手も足も舫いあうことなく / てんでにただよって / ことばではなくただ藻としてよりそい / 槐の葉叢のように / ことばなき部位たちが海の底にしげった / 水のなかから水のなかへ / 水のなかから水のなかへ

  1464. おそらくいまの若い人たちは小銃弾というものがどのぐらいの大きさをしているかも知らないと思う。小銃弾が人の身体を貫通したときの穴の具合も知らないでしょう。被弾した男はどういうふうに悶え泣き叫ぶか。それから迫撃砲で吹っ飛ばされた人間の肉というのがどういう色をしているか。

  1465. むしろ、デビッド・リンチとうまくつきあうには、フリークスを笑って楽しむ遊び心が必要だ。自分を笑うように、または日本のツイン・ピークス、永田町のフリークスをへらへらと笑って眺めるように。リンチ自身、そう望んでいる。懊悩なんかいらない。もともと意味も謎もありはしないのだから。

  1466. 悠然と泳いでいるから、てっきりワニかと思ったら、オオトカゲなのだそうだ。あろうことか、たった一匹で大海原を渡っている。地をはう格好のまま、首を潜望鏡みたいにぐいっともたげて、波間を進んでいく。見ようによってはネッシーのようである。ゴジラのようでもある。「オオトカゲ」

  1467. 画素や走査線が増え、解像度が高くなったというテレビ映像が、その分だけ、内容が薄っぺらになり、想像力を喚起しなくなったのはなぜなのか。あれほど映像鮮明にして、ばかげたテレビ番組を流すことのできる人間精神はどのように形成されてきたのか。

  1468.  犬の灰の一部はこの施設の花壇にひっそりと撒(ま)かれていた。せめては土に還り、土を肥やし、花を咲かせて、その霊がとことわに宇宙をめぐり循環するよう私は念じる。「棄てられしものたちの残像」

  1469. 空前の大ペット関連市場をもつに至った日本では、一方で、公的機関が毎年数十万匹の犬と猫をガス室で殺し、焼却処分している。捕獲された捨て犬、捨て猫がほとんどだが、少なからぬ飼い主がペットに飽きてしまうか、飼育の手間を厭うようになるかして、自ら「処理」を依頼してくるのだという。

  1470. にしても、ゴミ袋のなかからハンバーガーやフレンチフライを選り分ける男たちの背中が、切なく、そして気のせいかやや禍事(まがごと)めいて見えてくるのはなぜだろう。この消費資本主義では、膝を屈してモノを拾うよりも、景気よくモノを棄てる方を正常とする、思えば不思議な常識があるからだろう 

  1471. とすれば21世紀にも観覧車は死に絶えるという事がないのであろう。それどころか地球のあちらこちらに色とりどりの花のように開花するかもしれない。大いに咲き乱れるといい。迷妾という迷妾をゴンドラにのせて宙を巡りめぐるがいい。一回転すれば一回転分だけ迷いが静まるだろう。私はそう信じている

  1472. きっと、走るという光景は、人になにか切迫した異常を告げるのだろう。走るために走るなど、到底信じがたい虚構なのだ。摂りすぎたカロリーを燃焼させるために走るなど、できそこないのSFに等しいのだ。「走るというフィクション」

  1473. いっそ、ヌーヴェル・ヴァーグ初期のフランス映画みたいに、モノクロ映像、音楽なし、最小限のナレーションなんてTVニュースをじっくりと観てみたい。色、音ともに潤沢なニュース映像よりよほど想像力がわきそうだ。豊富すぎる情報でぼくらは判断力を奪われっぱなしなのだから。

  1474. 自分のグラスは自分で洗いたいですか、といった調子の、媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いなのでした。僕は記銘にかなりの問題ありと言われていて、事実、言われた先から物事を忘れるのですが、この「セーキは自分で洗いますか?」は記憶としてすぐに深く体に着床しました。

  1475. この臆病者めが。この2年でお前は体重を15キロ失い、少なくても10年分は老けた。頬は深くえぐれ、頭髪の多くを失い、首の皮膚など死んだ亀のようにたるんで、かつては怒り狂って火を噴くようにも見えた両の眼はいま、まるで濁ったまま涸れた沼のようだ。「自分自身への審問」

  1476. 眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」に向かい、視界が反転するなどという、調理中の烏賊(いか)のような躰のめくり返しが、全体、人間にもあるものなのでしょうか。脳の病のせいでしょうけれど、ぼくにはそれがあったのです。「内奥を見る」

  1477. 蛸を鈍感ときめつけるのは、しかし、ひどい偏見かもしれない。蛸は死なないどころか、実際は短命である。ストレスが高じるとみずからの足を食ってしまうほど感じやすい。無脊椎動物のなかではもっとも高い知能をもっていて、記憶力も抜群である。その血は青く、詩的でさえある。(09.6.30)

  1478. 信頼できる友人らによると、東京拘置所は拙稿「犬と日常と絞首刑」所載の新聞(6月17日付朝刊)を黒塗り(閲読禁止)とはしなかった。たしかめえたかぎり、少なくとも一人の死刑囚が拙稿を読んだという。その事実の性質、軽重、示唆するものについて、あれこれおもいをめぐらせている。「私事片々」

  1479. 毎年三万人以上の自殺者、なんらかの精神疾患をもつ人は一説に八百万人ともいわれ、増えつづける一方の失業者、貧者たち。震災・原発メルトダウンは「棄民」に拍車をかけています。これがこの国の実相です。

  1480. NHKが巨額のお金を投じて制作した「坂の上の雲」には開いた口が塞がりません。日露戦争における日本人の勇ましいこと、美しいこと。満州・朝鮮の支配をめぐって戦われたじつに悲惨な戦争なのに、本質が隠され、民族心昂揚があおられている。被災地でも「坂の上の雲」が人気だといいます。

  1481. 「いっしょに骨拾いをしてくれます?」。いっしょに七並べをしましょうといった調子の軽やかなその声が、荒亡の果てに佐渡に引きこんだ彼の、不意といえば不意、予期したとおりといえばそうでもある死に様には、なんだかとてもふさわしいようにも思われたから、私はすこしも悪い気がしなかった。

  1482. 戦時下でも、たとえ核爆発があっても、ワールドカップ・サッカーとオリンピックはつづけられ、大いにもりあがるだろう。大手広告代理店が戦争関連CMをつくるだろう。日本人宇宙飛行士のコメントと日本の新聞の社説は、ひきつづき死ぬほど退屈でありつづけるにちがいない。

  1483. どういうわけだか、ものみな拉(ひしゃ)げて見える、ぬるく湿気った夜、ホームの端に立ち、朧に歪んだ三日月を眺めていたのだ。月というより、あれはまるで夜空の切創(せっそう)。傷口から光沢のある黄色の狂(たぶ)れ菌が、さらさらきらきら、駅に降りそそいでいる。伝染性の狂れ菌糸だ。「幻像」

  1484. 非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

  1485.  風景が波濤にもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。

  1486. わたしは長い間、この言葉を意識してきました。『眼の海』を書いているときもずっと意識していました。「自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代」とは、市民運動をも巻き込む新しい形のファシズムなのではないか。そんなふうに思っています。

  1487. これが真景なのです。こうした現実は報道されません。ですから、報じられたものは偽造なのだと。なぜマスメディアは死を隠すのか。地獄や奈落と向き合わないのか。それは死に対する敬意がないからだと思うのです。(略)二万人の死体を脳裡に並べてみよ、と言いたい。

  1488. 戦争という、人の生き死にについて論じているのに、責任主体を隠した文章などあっていいわけがない。おのれの言説に生命を賭けろとはいわないまでも、せめて、安全地帯から地獄を論じることの葛藤はないのか。少しは恥じらいつつ、そして体を張って、原稿は書かれなくてはならない。「社説」

  1489. いつか父を誘った。葦の原にしゃがんで父を殺すことをおもった。ここでならやれるとおもった。父もわたしがそうおもったことを丈の高い葦ごしに気づいているのをわたしは知っていた。父はわたしにやられるのを、魚のいない入江に釣り糸をたれながら、まっていた。「赤い入江」

  1490. それは、芸術であれなんであれ、ジャンルやカテゴリーに分類せずにはおかない現代風なやりかたにたいする、強烈なアンチテーゼであるといえよう。じっさい、ジャコメッリの創作は既成のどこにも分類しようがない。かれは、そんなやりかたに関心がないのである。

  1491. そんな昼下がり、おじいちゃんおばあちゃんはなにをするかといえば、ロビーに車椅子を並べて無言でテレビを見る。グルメ番組、旅番組。しかし、だれもそんな番組を面白がってはいない。テレビからの音だけが虚しくロビーに響く。一人として笑わないし、みな眼はうつろだ。

  1492. グルメ番組、くだらない解説、CM。みんながテーブルに一列に並んで、世の中についてこもごも喋る。弁護士が、よくこんな暇があるなというくらい登場する。国会議員が朝から晩まででている。あれも恥だと思います。口を開けて見ているぼくも恥だと思うのです。恥辱というのは、そういうものです。

  1493. どうして…と私は訝しみ花の奥を探ると、A子さんは顔を伏せ近寄りがたい程寂しげな眼差しをして、木槿に身を隠すようにゆっくりと遠ざかっていった。紅紫の花の色が映り横顔が燃える様だった。私達は又も言葉を交わさずに別れてしまい、やがて木槿の事も彼女の事も記憶の抽斗の暗がりに消えてしまった

  1494. こんなにも暗いのに、タールみたいな水面が葉影を映している。畔になにかが膨れて浮いていた。人か。水にうつ伏せている。やっ、首がない。S.S か。だが、大きすぎるし、体型がちがう。あれは S.S ではなく、たぶん私だ。「閾の葉」

  1495. 現に、口が裂けても歌いたくないはずの「君が代」を歌うことが制度化されてしまったとたん、みんなが平気で歌っている。泣きながら歌うわけでもなく、歌うことで魂が傷ついているようにも見えない。挙げ句の果てに生徒に教える。それが戦後民主主義の集合的な不服従の実態だったのではないでしょうか。

  1496. 阪神大震災でも、あるいはアメリカのハリケーン被害でも、良好な居住地、堅牢な家に住んでいる富裕層はひかくてきに被害が少なかった。禍は万人をひとしく襲うのではない。貧困階級と弱者をねらいうちにしてくる。あらゆる災害から貧困層や弱者はひどい苦しみを受ける。そこに被害が集中する。

  1497. 垂線からもっとも遠いところにいると思いこんでいる無邪気な者たち、すなわち、自己を無意識に免罪している者たちや幸せな詩人や良心的ジャーナリスト、インチキ霊能者らの内面よりも、私が人殺しのそれのほうにより惹かれるのはなぜであろうか。

  1498. 男のつぶやきが聞こえてくる。「この顔は、なぜ顔でなくてはならないのだ。なぜ人はなによりもまず顔を見ようとするのだ。存在のなかで最も存在をうらぎる顔というものを存在の証とするのはなぜだ。ない顔に想像の顔をかぶせてまで顔をつくろうとするのはどうしてなのだ…」。臓腑に響く低音であった。

  1499. 日常はすでに壊滅しているはずである。なのに、皆が口うらあわせて日常が引きつづいているふりをするのはなぜか。黙契をこれまでどおりつづけているのはなぜだろうか。「自問備忘録」

  1500. そこで絞首刑に処されてさらに深い奈落へと落ちてゆく。泣き叫ぶ声も鉄板が二つに開く音もロープが軋(きし)む音も頸骨(けいこつ)の折れる音も読経の声も、刑場の外にはまったく漏(も)れはすまい。そしてそこもやけに明るいのだろう。奈落はたぶん妙に明るいのだ。「側」

  1501.  ふと訝(いぶか)しんだ。彼は地下の刑場に連行されるとき、このエレベーターに乗せられるのだろうか。まさか。おそらくどこかに確定死刑囚を地下刑場に下ろすための特別のエレベーターが隠されているにちがいない。ここの死刑囚は予告もなくある朝突然に、死のエレベーターで地下刑場に移送され、続

  1502. そんなある日、私はある〈行為〉にでくわした。いつも私の前に例の質問をされている〈認知症〉のおばあちゃんが、どうしたことかその日は質問の最中に眠っていた。いや、それは「寝たふり」であり、そうすることによって彼女は質問に耐えていたのである。「生に依存した死、死に依存した生」

  1503. きれいなじつにきれいなある晴れた朝に、9.11 のような壮絶なテロが起き、たくさんの人が死ぬ。そのことの「道理」が、だれにもわからない。そういう世界にわれわれは生きている。 「『時間』との永遠のたたかい」

  1504.  人類は頭ではだめでも、胃袋で連帯できるのかもしれない。少なくも、食っているあいだぐらいは。もの食う人びとの大群のただなかにいると、そう思えてくるのである。

  1505. 母はどれか。父はどれか。伏せた遺体をめくりかえしてみもしたのだが、しっかり正視したかどうかはうたがわしい。こころのうらでは、父や母や兄弟姉妹でないことをねがいもしていたというから。疲れきって、じぶんがなにをしているのか、ほんとうはなにを乞うているのかもわからなくなった。

  1506.  先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉えきれないほど膨れていた。「長く放置していたからですよ」と医師が語った。恐らく、政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう帰れない。どこに行くのか、思案のしどころだ。

  1507. すでに見る者の心は乱されている。少年の顔はまるで他の写真から切りぬいてここに貼つけられた物の様でもあり、そういえば物象全体の遠近法も画角も不自然である。少年と黒衣の婦人たちとの遠近は曖昧であり、道の傾斜も遠近の勾配とどうもふつりあいで、見るほどに不安にかられる。「スカンノの少年」

  1508. まずこの本の著者のいわば法的規定は元テロリストであり元犯罪者であり確定死刑囚なわけです。それが表象するのは「極悪人」でしょう。しかしながら、彼のひととなり、表現する俳句、詩といってもいいけれど、それはまったく法的規定とは異なる高い品性、文学的豊饒さと深みを湛えている。

  1509.  いままさに死にゆくひとの手をにぎったことがあり、ずっと忘れられない。よりそう者のいないさびしい死であった。死にゆくひとは、からだから枯葉をはらりと一枚落とすように、かすかな声を洩らした。「ワ……」と聞こえた。呼気音ではなく、唇がふるえたから、うわ言のようであった。「末期の夢」

  1510. 現在、生きてあるのは、いわば凍結処理されているみたいでもある。解凍するとすれば、そのまま死刑執行になる。そういう責苦があるから、生を考えれば考えるほど、死が必ず迫り上がってくる。いきいきといまを感じたり、生命を感じながら、同時に死を感じざるを得ない。まさに絶境です。

  1511. ぼくは、自分のことを自覚的なPPJだとおもっています。 P・P・J 、つまり、パーフェクト・ポンコツ・ジイサン。はっきりいって、本当にそうおもっている。「たれもが夭折の幸運に恵まれているわけではない」とエミール・シオランは書きましたが、そのとおりだね。「PPJ と許せる自己像」

  1512. この世界では強者の力がかつてとは比べものにならないぐらい無制限なものになりつつある。一方で、弱者が、かつてとは比べものにならないぐらい、ますます寄る辺ない運命におとしいれられている。そうなってきた。

  1513. 声もでないほど怖かっただけだ。天井しか見えないその姿勢がつらかった。もっと生きたいとすら発想しなかった。ただ戻りたいとねがった。いったい、どこに? 健康だったころに、ではない。たんに、すぐそばの無機質な白いベッドに、である。「ヘルニアとおかっぱ女」

  1514. 半身不随になった私は深夜、病院のベッドから落ちて、一時間以上もあおむいたまま背面で床をずりうごきつづけたことがある。ナースコールのボタンに手がとどかず、うらがえしのカメみたいにむなしくうごめいた。だが、みじめなその体勢で半生をふりかえることも将来の不幸をおもうこともなかった。続

  1515. 上からの強制ではなく、下からの統制と服従。大災厄の渦中でも規律ただしい行動をする人びと。抗わない被災民。それが日本人の「美質」という評価や自賛がありますが、すなおには賛成しかねます。

  1516. むろん。Kよ。賢い君がいまひどく悩んでいることをぼくは知っている。つらいから、ときに眼を閉じ、耳をふさいで仕事していることも知っている。ぼくはもう君に対し過剰な批判はしないだろう。静まったのだよ。火焔の錯視で、かえって平静になった。悩むかぎり、ぼくはずっと君の味方だ。

  1517. すべての明け暮れが絶えておわれば、これからは明けるのでもない、暮れるのでもまたない、まったきすさみだけの時である。いまやぞっとするばかりに澄明な秘色(ひそく)の色に空と曠野はおおいつくされて、畏れるものはもうなにもない。恥ずべきことも証すべきこともない。「酸漿」

  1518. つまり、日常の変化が一見して緩慢ならばさし迫る危険を危険とは認めず、現状に安住しようとする。激変にはあたふたとするけれども緩やかな変化にはまことに反応が鈍い。とすれば、われわれはすでにBF症候群にかかっているのではなかろうか。「ゆでガエル症候群」(Boiled Frog Syn)

  1519. おそらく例外なく人は夢のなかで “ 空を飛んだ ” 経験をもつ。誰もが地上をかすめる様にかなり低く飛んだり、一転して高く舞いあがったりするあの感覚を、目が覚めても覚えていよう。その感覚を海辺の風景の映像はみごとに再現している。どうしてそんなことができるのかただ茫然とするのみである

  1520. そのような倒錯した世界を異様だと感じないほうが異様である。ところが現実には、CMの世界のほうを正常だと感じ、CMがないと逆に寂しくなるというひとがずいぶん存在する。それが生理的に身についているひとがずいぶん存在する。異様が正常になろうとしているのである。

  1521. 資本と同一化した映像の代表は、たとえばテレビのCM映像である。これをたんなる商業映像とあなどってはならない。ひとびとの意識と無意識にはたらきかける影響力、ひとびとを誘導してゆく力の強さにかんしては、CM映像が他の映像のすべてを凌駕しているのが現実なのである。「映像と資本の腐れ縁」

  1522. 日本社会では不正や不公正への怒りの感覚と表現が、権力と事実上一体化したマスメディアのすぐれて一面的な報道や野党の去勢化の結果、今やほぼ消滅しかかっており、人々はわずかに「怒るべきではないか」→「いや、怒ってもしょうがない」という健全にして穏和な心理プロセスを残しているのみだという

  1523. 〈 死んだ小鳥が水に落ちたような音 〉 が聞こえてくる。これはある作家がカメラのシャッター音をたとえたことばなのだが、これ以上幽玄な形容を私は知らない。マリオ・ジャコメッリの映像を眼にするときはいつもそうした音が耳の底にわく。水とは人のいない山奥の湖かもしれない。

  1524. 私は人非人と断じられることによってしか私の「人」を容易にあかしえはしない。その逆では慙死するほか行き場はない。この件について明証の義務をなんら負わない。完膚ない人非人としてのみ私はやっと安眠を眠りつくすことができるのだ。それ以外の眠りは眠りたりえない。「眠り」

  1525. ずいぶんおくれて、/ 首なし馬が / わが首を追って、/ 私のなかの / 霧深い / 青い夜を、どこまでも / 横倒しに流れてくるのを、/ ゆめ忘れるな。 「青い夜の川」

  1526. (略)それに、これは笑うしかない体たらくなのだが、半身麻痺という障害をもったまま独り暮らししている私にとっては、手術のための入院だろうが何だろうが、三食上げ膳据え膳の好環境は、いつわらざるところ、大助かりなのだよ」

  1527. 「何度もいうが、自死はいまだ行使せざる私の最終的権利であり、また、果たしえない夢なのでもあり、癌の手術とまったく矛盾しはしない。自死は、その未知の闇にいつも大いに惹かれるものの、私にとっては、実行を永遠に留保することによってのみ残される最期の想像的自由領域なのかもしれない。続

  1528.  麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのあった。その像は、うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群に重なる。

  1529. 結局はそこに想到したまさにそのころ、かわいたアフガンの大地であれほど白銀色に光り輝いていた金属片は沢山の人々の手の汗や脂にまみれて茶色に錆びてきていた。それらはあたかも人の血を吸ったようでもあり、人体の奥深くから剔抉したもののようにも見え、持ち帰った当初よりよほど凄みを増していた

  1530. それにしても、昨今のデモのあんなにも穏やかで秩序に従順な姿、あれは果たしてなにに由来するのであろうか。あたかも、犬が仰向いて腹を見せ、私どもは絶対にお上に抵抗いたしませんと表明しているようなものである。 「大量殺戮を前にして」

  1531. 見渡すかぎり、やはりジャコメッリの写真や夢のように、景色は白々とそして暗々と脱色され、深閑として音を消されている。友人たちは腰をかがめ、ひとつまたひとつと屍体をみて歩いた。何日も何日も。ひとのおおくはたんに部位にすぎなかったから、ひとりまたひとりではなくひとつまたひとつと覗くのだ

  1532. 鈍色(にびいろ)というどすんと重くて冷たいことばを、空がいつもそうだったから、子どものころからからだで知っていた。もともとはツルバミで染めた濃いねずみ色のことで、平安期には「喪の色」であったことなどは、長じておぼえたのである。その空から、はらほろと雪が舞いおりていた。

  1533. 事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。

  1534. 震災当初は、カメラをむけたらいやでも屍体を撮ってしまうほどといわれた現場なのに、テレビや新聞は丹念に死と屍体のリアリティを消しました。なぜそうする必要があるのかわたしにはわかりません。(略)いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈 続

  1535. 家を出ると、ぎょっとするほどたくさんの星が瑠璃色の天空いっぱいに輝いていた。 バナナの葉という葉に、発光虫みたいに星がとまっているように見えた。遠くの星が一つ、また一つ斜めに線を引いてバナナ畑に流れ落ちた。 ナサカもいつか、土に還り、バナナになり、星を見るのだろうと私は思った。

  1536. 幸福な詩人には、彼や彼女の年収の多寡にかかわりなく、国家(あるいは内心の国家)との黙契が無意識に成立している、と私が決めつけてしまうのはなぜであろうか。(略)だが、私自身と幸せな詩人達には殺意にも似た底意地の悪い感情を抱いている。幸せな詩人達が猫なで声で語る善にしばしば総毛立つ。

  1537. 逆に、いまの為政者たちが社会的な非受益者たちに対して注いでいるまなざしとことばがぼくには納得がいかない。気に食わない。怒りも感じる。あんた方が世界に対してもっているマチエールとかれらのもっているマチエールはちがうよと。高みから見て想定しているものと全然ちがうのだといいたくなる。

  1538.  誤解を恐れずにいえば、ぼくは六十数年間生きてきて、いま、鬼気迫るほどにね、興味深い世界がきているとおもうのです。鬼気迫るほどに、足がすくむほどに怖いこの時代に、どう生きればよいか、自覚的な個であるとはどういうことなのか。 「人智は光るのか」

  1539. 救う、助ける、手を差しのべる、慈しむ…以上の高次の関係性を、私たちはもっと想像してもよいのではないでしょうか。(略)現在、焦眉の課題は貧困の救済にあるようにいわれますが、また、それには道理がありますが、事態の焦点は遅かれ早かれ、救済からたたかいへと移るのではないかと僕は予想します

  1540. 堤防を海にむかい左にいくと灯台だった。右にいくのをだれも好まないのに、わたしは右にいくのを好んだ。右にいくのをだれも好まないわけをだれもおしえてくれず、問うてはならないのだろうとわきまえて、わたしも問いはしなかった。「赤い入江」

  1541. 私には自分の思想傾向が “過激” だなんて意識は少しもありません。先ほどもいいましたが、むしろ穏当にすぎるし凡庸すぎるくらいに思っております。歴史とはときに徹底的なものだとだれかがいいましたが、現在、過激なのは世界そのものであり、状況の変化であります。

  1542. 「爆弾をしかけられてあったり前だ」という石原慎太郎の暴言にも怒らない。とくに大きな問題とも意識されていない。石原のような最悪の人物がなぜ三百万以上も得票するのかぼくには謎でしたが、この大学にきたら、そのわけがなんだかわかるような気もしてきています。「もっと国家からの自由を」

  1543. 誠実で学識深く訥弁(とつべん)の学者よりも能弁なテレビタレント(ないし、タレント兼学者)を、よしや彼が香具師(やし)のような者であれ、ばか学生たちは喜ぶのである。ま、人間からなにを学ぶかという観点からするならば、これとてかならずしも排除すべきことがらではないけれども。「でたらめ」

  1544. 学校帰りにはよくしゃがみこんでオジギソウと遊んだものだ。悪童どももそのときばかりは集団ではなく、なぜだかそれぞればらけてひとりになり、一抹の孤独感や内省を重ねて、マメ科のその野草にそっと指をさし向けたものだ。「センシティブ・プラント」

  1545.  痴漢と断ぜられた青年はピンでとめられた昆虫の標本みたいにぴくりともしない。いや、そうしたくてもできないのだった。彼を捕捉した乗客たちがさっきから捕捉のその姿勢を解いていないからだ。(略)みながごく当然の市民の義務を果たしているとでもいうように無言であり、無表情なのだ。「幻像」

  1546. 窪みのなかに、数十年にわたる、おそらく数百人分の汗や体液や涙を感じ、それらとぼくの分が交わる奇妙な悦びをおぼえながら、気色の悪さも忘れ、世界中でこの窪みだけがたしかな空間である気さえして、ひたすら眠るのです。「旅路の果て」

  1547. この一年、どうにもならない事を、それでもどうにかしようとしどおしだった。3月11日の前には思いもしなかった人にたいする悪意と毒と愛が、気どった皮膜をやぶってむきだしになり、じぶんがてっきり備えているとばかり信じていたモラルの根っこが、まったく意外にも、しばしばぐらついたという。

  1548. 橋のむこうに中州があり、そこに岡田座という映画館があった。わたしは『鞍馬天狗』や『紅孔雀』や『ゴジラ』や『二十四の瞳』を見た。映画を見たのを「観た」と気どって書く習慣はそのころ、そのあたりにはなく、わたしはいまも、イングマール・ベルイマンの映画であっても、たんに「見た」と書く。

  1549. 他方、このたびの東日本大震災では、未曾有の災厄とか「言葉もありません」というたぐいの常套句が語られるだけで、出来事とその未来にかんする自由闊達な言語化はあまりこころみられず、瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望も感じられません。

  1550.  言葉はせめて無骨な樹肌のようなほうがいい。ないし、樹液のようなほうがいい。 私は樹陰に隠れ、想像にふける。樹液のような言葉を、倒木の根かたのあたりに隠れて助けを待っていたという若者はときおりたらたらと赤く薄い唇から吐いていたのではないか。「森と言葉」

  1551.  福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の168個分という記事に、わたしはまだしつこくこだわっています。無意識で透明な残忍性をその文面に感じてしまうからです。「膨大と無」

  1552. 秋葉原事件についてつづられたおびただしいブログのなかで〈犯人は捕まったのに、なにが“真犯人”かわからないのが悲しい〉という趣旨の若者の文章に私はひかれた。昔日との相違点はまさに、悪の核(コア)をそれとして指ししめすことのできないことなのかもしれない。「幻夢をかすめゆく通り魔」

  1553.  酒でもふるまいたかったのだが、麻痺がひどくてできなかった。 すまない、すまないと思い、ぬるい風のなかをよろめきながら帰った。 〈沖縄タイムス記者のインタビュー〉 私事片々(2012/04/10)

  1554. 3時間休憩なしで問われつづけ、答えつづけた。このためだけに那覇から飛んできたのだ。手を抜くわけにはいかない。 記者は相当に予習してきた。わたしは静かにおどろいていた。目つき、口ぶり、声。わたしは苛立たなかった。 塩をみやげに頂戴した。 続

  1555.  前に回って見れば、あれで結構口尖らせて「けっ、てやんでえ」くらいは、わざと下品に毒づいたりしているのだ。体の前面は誰しも嘘つきだから、威勢のいいふりをする。立ち退きを命じられて、段ボール片手に去っていく男たち。はらほろりと背中に終わりの花が舞う。桜におぼろの、背中たちの溶暗…。

  1556.  夜来の雨に散った桜が路面を点々、薄い血の色に染めていた、そんな朝だった。もう半年も前のこと。熟(こな)れのわるい風景として、いまもまなうらにある。 11階のビルの屋上から、若い男が飛び降りようとしていた。 「三点凝視」

  1557.  ガスとは、証言者によれば、ガス室で殺された後、穴に埋められたおびただしい数のユダヤ人が、山河の瘴気(しょうき)のように屍から発しつづけたそれのことである。すると地面が波立つ。私の想像では、風景がゆらゆらとたなびくのである。 「記憶を見る」

  1558.  夜が、穹窿(きゅうりゅう)形の巨大劇場になって、激しい光の踊りを見せていたのでした。黒い森から、ヒュルヒュルと照明弾が上がり、樹海を束の間の真昼にします。東の丘陵から速射砲が、シュパシュパと次々に青白い火を吹きだして、四十度角の光の斜面で、鋭く夜を切っていきます。「迷い旅」

  1559. しかし、病前に重要と考えてきたことのいくつかは、いや、かなり多くのことがらは、実際には、この社会で〈重要とみなされている〉だけの、本質的には虚しい約束事とか符丁(ふちょう)に過ぎず、人間身体が本然的に欲していることとはちがうのではないか、そう思います。「自己身体として生きる」

  1560. ぼくはこのことにひどく傷つきましたが、同時にとても神秘的だと思いました。ぼくは年号、日付だけでなく自分の正確な住所、郵便番号、電話番号、銀行の暗証番号、いくつかのメールアドレス、パスワードなど、つまり社会的に必要不可欠とされるIDのほとんどを一時、完全に失念してしまいました。

  1561. IT成金のなかには、この世の中にお金で買えないものはないと言放った青年もいた様ですが、確かにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、今の社会のうそ寒さと釣り合うようです

  1562. 自分が世界とどうかかわるかは、あらかじめ定まっているのでなく、個々人の想像力が決めると思います。たとえば、恋を語らっているとき、家族で和やかに団欒しているとき、巨大な鳥の黒い影のようなものが一瞬胸をかすめて突然、不安になったり不機嫌になったりして、ひとり沈黙の沼に沈むとします。

  1563. 大震災後、感覚に失調をきたしているのは、わたしだけではあるまい。揺れと大津波のフラッシュバック。破壊と喪失のとめどない悲しみ、不安。悼みと虚脱。原発禍のなか、せまりくる次の大震災。あてどない未来……。人びとの情動は、おそらく戦後もっとも大きなゆれ幅で日々うねりをくりかえしている。

  1564.  というのは、いま流通している言葉はほとんどコマーシャルな言葉、ないしはほぼコマーシャルに侵された言葉、コピーだからね。これはぼくの言い方で形容すれば「鬆(す)の立った言葉」でクリシェ以下だ。そのような言葉をじぶんは使わない、というより、そのような言葉には使われたくない。

  1565. 全的滅亡の相貌。敗戦によっていったんは想い描かれたそれは、2011年3月11日の出来事によって、いま再び想起されているだろうか。どうもそうとは思えない。この社会は大震災による数えきれない死の痕跡を必死で隠し、かつて垣間見た全的滅亡の相貌をきれいさっぱり忘れ去っているのではないか。

  1566. ズボズボはやがて死んだ。学校はズボズボの死についてのホームルームをもった。皆が石を投げた事があると告白した。あたったかどうかは分らない、と。私も発言し、ズボズボの思い出を作文にした。投石対象を失った悲しみとズボズボのいない世界に生きる虚脱感について書き、三日後にはズボズボを忘れた