ทวีต

  1. 管理者から: 権力に迎合して皆が口をつぐむこの時代に、辺見庸氏の言葉の重みがひとすじの光のように心に届けば…という思いでこの BOT を始めましたが辺見氏に不快な思いをさせてしまいました。氏に無断で著作の文章をネットに載せた事を深くお詫びするとともにBotを閉鎖いたします。

  2.  例えば、月はもはや月ではないのかもしれない。ずっとそう訝ってきた。でも、みんながあれを平然と月だというものだから、月を月ではないと怪しむ自分をも同じくらい訝ってきた。 「仮構」

  3. 社にも作家にも誠実で眼前の男の本がなんぼ売れるか売れないかを反射的に計算もできる、有能な編集者たちばかりだ。空虚だ。あまりにも空虚である。記者が編集者がディレクターが、連夜、飲み屋で評論している。「うちはだめになった」と皆がいう。「うち」ってなんだ、うちって。

  4. 元慰安婦の人たちの話というのは、言葉のレベルでは、それは違う、そんなはずはないなどと、いろいろ言われます。ただそんなの当たり前なんですよ。僕らだって一週間前の自分の経験を記憶だけで言えって言われたら全部不正確になりますよ。それが五十年前ですからね。「身体的記憶の復活」

  5.  忘れ去られた死を、もう一度、自覚して死んだほうがいい。精神の死を内面で再現し、深く傷つくべきである。そして、心の傷口で現在を感じてみる。無謬(むびゅう)の者の眼ではなく、根源的挫折者の暗い眼でいまを見てみる。すると、(略)現在のなみひととおりではない危機が見えてくるのである。

  6. いつのまにかひとびとの「無意識」に入りこんできているものがある。どんどん潜りこんできている。それは芸術でもなければ神でもない。「資本」である。資本は無意識をうばい、無意識を変型しつつある。「『無意識』に入りこむ資本」

  7. 1997年にバチカン市国は三浦朱門に対して聖シルベスト勲章を与えています。バチカンがいかにその人物を細部にわたって検証していないかという事が明確に証明されている。(略)キリスト教の宗教家が「宗教は宗教、死刑は死刑、法律は法律」と言ったとしたらそんな宗教を果して人は求めるでしょうか

  8. 枕を買いに行く。せめては枕だね、枕。寝苦しければ枕を替えるにかぎる。道すがら汗をかきかき思う。ひと口に枕たっていろいろあるな。ええと、陶枕、木枕、草枕。祝いの枕に船底枕。香枕、箱枕、羽根枕。 「マイ・ピロー」

  9. 永山の死に際し「特に感想はありません。法律は法律だし、文学作品を書く人の業績は業績です」といい放ったという作家某氏の酷薄は、おい、亀よ、ゴキリと骨の鳴く音をよそに、おつにすまして咲き群れる、この塀の外の、真白き立葵の心根にどこか似てはいないか。

  10. おそらく、われわれの遠い先祖たちの時代には、〈現〉のなかに〈異界〉が自然に入りこみ、たがいに仲よく親しんでいた時代があったのである。そしてそのかすかな〈記憶〉から、いまわれわれは、〈異界〉や冥界が身近にあるような風景を意識下で欲しているのであろう。

  11. 「むこうはこちらを見ていない。こちらはむこうを見ている」と考えるのは、相手を撮影するときのカメラマンの、あるいは表現する人間の救いがたい特権意識である。撮影行為や表現行為というもののなかには、そんな意識せざる特権意識がある。それは私のなかにもあったし、いまだにあるだろう。

  12. 小説の素人である私は、おそらく、この残酷さのなんたるかも、底知れぬ怖さも、まだ見据えてはいない気がします。だから、書くのだと思います。いくつも、いくつも書いて、私というもののケタの小ささを知り、虚しくなり、結局もう書かなくていいという理由が見つかるまで、書き続けるのだと思います。

  13. 国家の権力機関が人々の自由な表現や行動を抑えつけ、問答無用と獄に繋ぐやり方は確かに地獄に違いない。政治家や社長さんが勤労者から搾取して私腹を肥やし、人々が貧困に苦しむのも地獄だ。具体的に痛みや怒りを感じる地獄であり、こんな権力は壊さなければならない。大震災も地獄、大火事も地獄だ。

  14. 最近の若い記者を責めている訳じゃないんです。いまの道筋を作ったのは、結局、旧世代、我々だったわけだから、我々に責任がある。でも最近とても気になるのは、マスコミの会社に自分が帰属するという事と、彼方には権力というものがあるという、その境界線がほとんど意識されていない、という事です。

  15. そして、新たな災厄は、十中八九、約束されている。新たなテロの襲来は、アフガンへの残虐な報復攻撃により、かえって絶対的に確実になったといえよう。報復攻撃開始前より、いまのほうがよほど確実になった。なぜか、だれもがそれを知っている。心のうちで災厄の再来を予感している。

  16.  ときには、うすら陽に街の輪郭がみすぼらしくたわみ、どこからか鉄粉かなにかの焦げいぶるにおいが流れてくることがある。空気がいやに重くて、音という音がアスファルトに沈みこむ。ほんとうのところ、いまは朝なのか夕方なのかいぶかってしまう。「音なく兆すものたち」

  17. これは不思議なことに資本の運動法則によくなじんだのです。迂遠な苦労とか苦心とか、そういうものがなくなって、情報の伝達と情報の受容が、資本の移動同様に、パソコンで即座にできるということが当たり前になってしまった。ぼくはむしろそこに恐ろしさを感じます。「時・空間の変容」

  18. このくだり、シビれるよね。あんた、シビれないかもしれないけど、おれは超ばかだから、とってもシビれるね。上まででっかい石をもちあげて、山頂までやっと運んだとおもったら、それがまた下に転がっていく。それをまた拾いにいかなければならない。(「シーシュポスの神話」を読んで)「思索と徒労」

  19. 多少屈折はあっても、彼の思想は維持されている。逮捕されてから37年間変わらないものがあるとしたら、国家に対する徹底した不信でしょう。内面化するにしたがい、彼の句から抵抗の精神が薄まっていったかというと、そうではない。明らかに句境は深まっている。「深化する言語、維持する思想」

  20. 拉致問題にからみ、われひとり「善政」を敢行せり、みたいな顔つきで連日善玉パフォーマンスに余念のない安倍晋三官房副長官が、平壌から帰国後、テレビ番組に出演して慇懃(いんぎん)かつ冷淡に語っていた。コメ支援など「検討すらしておりません」と。「恥」

  21. だって現実にいま、首都直下型地震が起きてもおかしくないわけだから。2011年の3月11日を起点にした情勢だけで、これからをはかることはできない。もっと三連続地震みたいなものを前提にしなければならないとしたら、原発だけの問題にとどまらない。「記憶の空洞化」

  22. 世間の成員に求められている姿勢とは諧調、ハーモニアスであること。協調的であること。なによりも大勢にしたがった意見をいうこと。大勢の人がすることが世間にとってただしいことになるわけです。大勢の人がしないこともまた世間にとってただしいことになる。「ギュンター・グラスと恥の感覚」

  23. 世の中がコーティングされていることにたいするいらだち。そのコーティングの一枚下はもっとひどいもので、人の血や涙が全部ペンキで隠されている。あるいは若い人たちの孤独感、世界からの切断感、それがみんなコーティングされている。「駄作としての資本主義」

  24. ぼくも経験があるけれども、編集会議にでると、みんな一面から三面まで暗い記事だから少し明るいニュースも入れようよという。そんな事実がどこにあるのかとおもうのですが、かならずそういう無意識の演出と操作がある。マスコミが日常を操作し、その色合いを決める。これはある種のコーティングです。

  25. 自分にはモニター画面しかない。顔も体臭も感触も分らない。不特定多数の人間がモニター画面の向うにいて、その人間と書きこみで交わる。それが真の交感になるでしょうか。ぼくはならないとおもう。交感にならないことを毎日毎日やらねばならない。そして、モニター画面でその孤独の埋めあわせをやる。

  26. 私は青森県にあった永山則夫の住まいを見に行ったことがあります。見るからに貧しい家でした。家中にトイレのにおいが充満していました。その家で彼は母親と暮らしていた。母親は魚市場に行っては落ちている魚を拾い、それを売って生活費にしていたといいます。たいした金額にもならなかったでしょう。

  27.  当時政府は、「国旗・国歌法ができても強制はしない」と言っていた。しかし実際に国旗・国家法が通ってみると、案の定、学校現場では徹底的な強制が行われて、少しでも反対する教員には、情け容赦ない処分が行われているという状況です。「個々人の実践的なドリル」

  28. 私が驚いたのはエイズウィルスが混入している恐れのあった非加熱製剤の在庫を、厚生省がある段階で調べて、何億円に当たるかを計算していた事。そして加熱製剤を認可するまで、その危険な非加熱製剤の出庫を野放しにしておいた事。被害者達は在庫処理のために犠牲にされたんじゃないかと疑いだしている

  29. 青年はときおり演説をやめようとして口にわが手を必死であてがうのだが、口は別の生き物になっていてたえまなく話しつづけた。かれは鼻筋のとおった美しい面立ちをしていた。白昼の夜戦はじつに熾烈をきわめた。青年はいまや涙を流していた。おれも泣いた。「夜戦」

  30. それよりじきに / 口中いっぱいに割れた黄身がひろがって / ぽとぽと喉へと滴っていく幸せの予感に / 私 Y はおもわず眼を細めてしまう / 喪の列の私 X がそれとてもつとに察知して / いよいよ憤慨し / いとどに泣いているのも知らずに 「黄身」

  31. だれかが猫の首を切ったとか報じられることがあるけど、もっとシステマティックに大量に、しかも “公的に” ペットは殺されていて、その全行程を消費資本主義が無感動に支えている。あの殺しの装置は各自治体がもっていて毎日毎日、この国の空にはペットをやく煙が上がっているわけですよ。

  32. 国家が個人の心のありようまで覗きこもうとし、無遠慮に容喙(ようかい)してくる傾向は時とともにますます著しくなっている。このままいけば、私がよりどころとしている内面の自由の領域は、ちっぽけな孤島のようにたよりないものになる恐れもなしとしない。

  33. 当時、「あの弁護団にたいして、もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」と、視聴者にうながした弁護士が大阪府知事に就任しました。テレビがひりだした糞のようなタレントが数万票も獲得して政治家になるという貧しさもこの国に特有の日常です。

  34. 私はふたたびマザー・テレサの言葉を思いだします。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」。ほの明るい病棟を想起しながら私はこの言葉にうなずくしかありません。私たちは自分に都合のよいものだけを愛していると彼女は告発します。やさしさというよりも凄みがにじむ至言ではないでしょうか。

  35. 私は本書ではこころみに「愛と痛み」というもっぱら痛覚の深みから死刑を考えてみる。死刑にふれることは私という思考の主体がそのつど痛み傷つくことである。しかし、死刑を視野にいれないことは、思念の腐敗にどこかでつうじる、と私はおもっている。痛み傷つくのは、したがって、やむをえないのだ。

  36. ひとつ…観覧車はいくら回転しても1ミリだって前進しはしない。永遠に宙を浮いては沈み、ひたすらにめぐり、めぐるだけだ。(略)ひとつ…観覧車は大地の裂け目から突然に生えでた花の、その残影みたいに、儚い記憶でしかない。ひとつ…観覧車はなにも主張しない。ひとつ…観覧車にはなんの意味もない

  37.  そのものたちの眼の沼にはぷかりと私が浮いていた。彼らのぬるい沼に私はたゆたっていた。私はうごうごとしていた。私は海鼠であった。彼らの眼の沼を泳ぐ海鼠の影であった。言葉は溶けていた。惨(みじ)めでさえなかった。すべてうごうごとしていた。

  38. 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定どおり絞首刑を行うような狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ。「自問備忘録」

  39.  助手席にはベトナム人アシスタントのT君がいて鼻唄をうたっています。ときどき、「雨のシトシト降る寒い日には、犬を食えといいます。ねえ、こんど犬食いに行きましょう」などと、雨なんか降ってもいないのに話しかけてきます。「葬列」

  40. 人という生き物は、まったく同じ条件にあってさえ、他者の苦しみを苦しむことができない。隣人の痛みを痛むこともできない。絶対にできない。にもかかわらず、他者の苦しみを苦しむことができるふりをするのがどこまでも巧みだ。孤独の芽はそこに生える。慈しみの沃土に孤独の悪い種子が育つ。

  41. 湾岸戦争、アフガン、イラクへの攻撃がある。アメリカが落としている爆弾投下量というのは本当にすさまじい。そして、爆弾というのは熱量でもあるわけです。私はずっと思っているのですが、核実験も含めて戦争で使われた爆弾から生じる熱量は、環境全体に計り知れない影響を与えてきたに違いありません

  42. 突きつめて考えてみれば、いまの私には彼に話すべきことがらは多くはなかったのだ。死についていいおよぶのは、どうあってもためらわれた。同じ理由から晴れやかな生について語るのも無神経なことに思われた。とすれば、どうしても話さなければならないことなど結局なにもなかったかもしれない。

  43. さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討する有識者会議なるものをたちあげて同自衛権行使に“合法性”をあたえようとし、マスメディアの多くもこの超右より路線にずるずると引きずられていったことだ。 「メルトダウン」

  44. いま忸怩として思いをいたすべきは、この低劣なる見識のもち主が執政期間中に「美しい国」づくりや「戦後レジームからの脱却」を声高に唱え、教育基本法を根本から改悪して教育現場を荒廃させただけでなく、憲法改悪のための国民投票法を成立させ、さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討−続

  45. その意味合いでは、詩を書いている方が自分の内奥に正直なのだろうと思います。ただ、私は記者時代のノンフィクションが長いわけですけど、もともと書く事にボーダーを作らない。純文学とか大衆小説とか、あるいは詩とか散文とか、そういうジャンル分けの様なものを最も意識しない人間だろうと思います

  46. 新たな眼の戦線ができるとすれば、眼の自由、意識の自由から構想されるだろう。私たちの眼はもはや自分の眼ではない。他から埋めこまれた義眼である。操作されつくしているこれまでの眼球は棄てるべきである。眼窩で現状の白い闇の奥を見とおさなくてはならない。「謎と自由」

  47. 老者はあのとき、ビーフジャーキーのような手首に、手錠をはめられ、連行の途次であった。にやけた刑事によれば、老者は人殺しであり、五年の無言の行のすえに、ついに狂れた、インチキ行者である、という。刑事は押し殺した声でいった。悪いが話しかけるな。聞くな。見るな。ただ忌め。ただ忌めばよい

  48. あの姿は、かれらにとっては、ひとつの美であり、文化であることだろう。それをわれわれは同時代にいきなり引きずりこんで、カメラで、テレビで写したがる。そのような特権意識はどこからきたのか。なんのことはない。すべて金に置き換えただけの話ではないか。「倒錯した状況のなかで」

  49. もう一つ、メディア状況で僕がいけないなと思うのは、さっきの権力との境目がなくなってきた事に加えて、執拗さがなくなってきた事です。事件を追いかけたり、調べたり、構想したり、跡づけしたりする時の、物理的、時間的、精神的な執拗さが、著しくなくなってきた。怒りにも持続性がなくなってきた。

  50.  しばらく前、新幹線にのってその人に会いにいった。延命治療はすでにことわっていた。身内によると、その種の治療をほどこすかどうか医師に問われたとき、その人はやや恥いるように、消えいるように、けれどきっぱりと、「もういいです…」といったらしい。「キンモクセイの残香」

  51. なにごとにおいても私は過剰なものですから、リハビリも全力をつくしてやりました。一日一回、かならず階段を上り下りしないと、それができなくなるものですから、近くのデパートまで行って上ったり下りたりを繰り返しています。「瞬間と悠久と」

  52. 護送車やパトカーの窓から、大抵は手錠や腰縄をかけられたまま、大都会の風景を眺めたことが何度かある。デモで逮捕された東京で、公安当局に連行された北京で。いうまでもなく、それは護送車やパトカーが走る大都会の風景を、通りを自由に歩きながら眺めるのとは大違いである。「書く場と時間と死」

  53. だれのものでもないはずの、つまりだれのものでもあるべき水が商品化されて、貧困者が清潔な水を飲めなくなってから久しいわけです。いまや、水でさんざ金儲けした企業が、「ミネラルウォーターを買ってアフリカの子どもたちに清潔な水を届けよう」などというキャンペーンをやっている。

  54. おそらくぼくを見れば、「ああ、なんてひどいんだろう」と、多少のショックを受ける人は少なからずいるでしょう。でも、傍目(はため)で感じられるほど、本人はそうでもなくて、それはぼくのいやなところでもあるのだけれども、妙に建設的なところもある。「“無” を分泌し、ただ歩く」

  55. 逆に、携帯もパソコンも非常に快調に受信し発信できているとき、検索もスムーズにいくとき、なにか妙に朗らかになったりする。つまり、自分の生体というものがデジタル機器の端末と化している。その好不調で自分の内面の色あいが決められている。それはおかしい。「端末化する生体」

  56. 「〈思い〉はみえないけれど〈思いやり〉はだれにでも見える」という宮澤章二の詩行も、まるで洗脳のように反復放送されました。わたしはこの反復放送がとても気になってなりません。これはサブリミナル広告のような社会心理学的に重要な効果を生んだと思われます。「言語の地殻変動」

  57. 愛国心という精神の統御の問題は、国家が個人の内面に土足でずかずかと干渉してくるという面だけでなく、この偽造された精神がかならず国家によって物理的に回収されるという目的性のあることです。すなわち「愛国」の一点で悪しき国策への同意や服従を求める、ということ。「惨憺たる昔と『いま』」

  58. 「このあたりの水は、海がすぐ近くなものだから、塩水も淡水もまざりあってるのね。海でも川でもあるというわけよ。変な水ね。汽水というらしいわ」(略)「汽水っておいしいのかしら。来てはいけない魚が来てしまうの。さっきのイシダイみたいに。でも汽水には汽水の魚しか棲めないのよ」

  59. 身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。

  60. でも中国と戦争やるのか、ロシアと軍事力を競うのか。(略)そうしてこの国がいくら軍備を増強したって、あんなマンモス象みたいなのにどうやって対抗するのだと、その非科学性を言っているんです。九条死守より軍備増強のほうが客観的合理性を欠くのです。

  61. 先ほど、私は原発の話をしたけれども、あの福島原発と、多くの他の原発の前提には、事故は impossible という、非常に不遜な、傲慢な前提があったにちがいありません。これは過誤、誤りと、科学技術の過信、自然に対する傲慢さときめつけがしからしめたものではないかと私は思います。

  62. 三月を生きぬいた / 青い蛇たちが夏 / 牽牛星アルタイルのもとに / 距離十五光年の夜を / くねくねと飛んでいく / 宙はいま あんなにも深い / 木賊色だ / うねくるいくすじもの / 青い蛇の径を見あげて / こころづく / ーーものみな太古へとむかっている

  63.  命を捨てて国を守る意識って大事ですか? 僕はそうは思わない。この国が命を捨ててまで守らなければならないような内実と理想をもった共同体かどうか、国という幻想や擬制が一人ひとりの人間存在や命と引き合うものかをまず考えたほうがいい。沖縄戦の歴史のなかに正しい解答があるでしょう。

  64. たそがれどき、南千住の界隈を歩いていると、腰から足もとにかけて不意にべらぼうな重力を感じ、地中にひきこまれそうになったり、空足を踏んだりすることがある。だから逢魔が時なのだというより、正確には、その頃からしののめにかけて、たぶん、地霊のたぐいがうち騒ぎ、独特の磁場を生じるからだ。

  65.  男とばかり思っていた野宿人は、男を装った、中年の女なのであった。野宿人がこのところ増える一方だけれど、女性はじつに珍しい。男を偽装してまで、東京を流浪しているわけはわからない。つらいな。ひどいなと思う。 翌日、女は消えた。存外に大きい乳房の形が私のまなうらに残った。「目玉」

  66. 私より十五年は長く生きている会社の役員が嘆くのを聞いた事がある。愛だの恋だのへちまだのといいおって。春闘だの賃上げだのへちまだのと冗談じゃないよ。…これは、いわゆる、へちま文である。打ち消したい事実や行為、主張を指す名詞の羅列の最後に、へちま、この一語をさりげなく配するのである。

  67. 懺悔するな。/ 祈るな。/ もう影を舐めるな。/ 影をかたづけよ。/ 自分の影をたたみ、/ 売れのこった影は、海苔のように / 食んで消せ。/ 生きてきた痕跡を消せ。/ 殺してきた証拠を消却せよ。/ しずやかに、無心に、滑らかに、/ それらをなすこと。 「世界消滅五分前」

  68. それはなによりも、新聞連載時の最初から最後まで、読者の方々から予想外に多くのお手紙を頂戴したからである。ものを書くという孤独な航海で、これほど励まされ勇気づけられることはない。読者こそが航海の友である。それはときに羅針盤になり、ナビゲーターになり、気つけ薬にすらなりうる。

  69.  いっそ政治など一言も語らず、柄ではないが、低徊(ていかい)をもってひたすら趣味としたくもなる。しかし、そうするのはなんだか滑稽な気もしないでない。言葉吐く息の緒が、吐いたとたんに腐り、変色するこの空気から、誰が逃れられるというのだろう。「言葉の退化」

  70. かくして「死刑執行」の四字は、痛みも叫びもなく、修正液であっさり人名を消すかのような印象しかあたえない。すなわち、国家は背理の痛みを感じさせない隔壁をしつらえており、マスコミの多くは隔壁を突破するどころか、隔壁の重要部分を構成して恥じない。「背理の痛み」

  71. 川端康成さんが自死した事件で、僕は割合早く現場に駆けつけた記者の一人なんです。驚いたのは現場が当時としては非常に近代的なマンションだった事。さらにギョッとしたのは、そのマンションの周りに人工芝が敷いてあった事です。川端さんの小説に対する僕なりの想いがありましたから、不思議でした。

  72. 実体的な扇動者がやっているわけじゃない。大阪の橋下という青年がやっていることは憤飯物なんだけど、彼だけが元凶ではないね。彼は真犯人ではなくむしろファシズムのピエロなのです。じゃあ誰が操っているのかというと、誰でもない砂のような大衆と選挙民個々の無意識が操っているんじゃないかな。

  73. 乳を搾っては、夜、川に流す。牛乳は脂肪分があるので川面に浮かぶ。川面が真白になってしまう。夜がすっかり乳くさくなる。月光に川面が白くてらてら光る。一面の妖しい川明かりだ。「川さ、乳ば、牛乳ば全部流すんだよ。ふふふ、天の川さ、ミルキーウェイだべさ。いままで、なぬやってきたんだべ…」

  74. …牛を殺すわけにはいかない。生きていれば、乳がはる。ほうっておくと乳房炎になるのだ。かわいそうだから毎日搾乳してやるわけだ。何缶も何缶も牛乳がたまる。線量はわからない。線量なんてもう測らない。どうしようもない。値がいくら低くたって、だれも買うわけがないのだから。しかたがない。

  75. その点、チェットはちがった。彼は最初から最期まで崇高な目的をもたず、むろんそのための努力もなんらすることなく、屁のように無為であった。音楽表現、人物ともに、どこか客観的実在性を欠いた、なにやら仮象のようなミュージシャンであったのだ。

  76. ボルサリーノの帽子を得意げにかぶったあのエテ公の与太話を。「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」。永山よ、君の死後はこんなもんなんだよ。こんなエテ公どもに仕切られているのだよ。

  77. むしろ、デビッド・リンチとうまくつきあうには、フリークスを笑って楽しむ遊び心が必要だ。自分を笑うように、または日本のツイン・ピークス、永田町のフリークスをへらへらと笑って眺めるように。リンチ自身、そう望んでいる。懊悩なんかいらない。もともと意味も謎もありはしないのだから。

  78. 悠然と泳いでいるから、てっきりワニかと思ったら、オオトカゲなのだそうだ。あろうことか、たった一匹で大海原を渡っている。地をはう格好のまま、首を潜望鏡みたいにぐいっともたげて、波間を進んでいく。見ようによってはネッシーのようである。ゴジラのようでもある。「オオトカゲ」

  79. 画素や走査線が増え、解像度が高くなったというテレビ映像が、その分だけ、内容が薄っぺらになり、想像力を喚起しなくなったのはなぜなのか。あれほど映像鮮明にして、ばかげたテレビ番組を流すことのできる人間精神はどのように形成されてきたのか。

  80.  犬の灰の一部はこの施設の花壇にひっそりと撒(ま)かれていた。せめては土に還り、土を肥やし、花を咲かせて、その霊がとことわに宇宙をめぐり循環するよう私は念じる。「棄てられしものたちの残像」

  81. 空前の大ペット関連市場をもつに至った日本では、一方で、公的機関が毎年数十万匹の犬と猫をガス室で殺し、焼却処分している。捕獲された捨て犬、捨て猫がほとんどだが、少なからぬ飼い主がペットに飽きてしまうか、飼育の手間を厭うようになるかして、自ら「処理」を依頼してくるのだという。

  82. にしても、ゴミ袋のなかからハンバーガーやフレンチフライを選り分ける男たちの背中が、切なく、そして気のせいかやや禍事(まがごと)めいて見えてくるのはなぜだろう。この消費資本主義では、膝を屈してモノを拾うよりも、景気よくモノを棄てる方を正常とする、思えば不思議な常識があるからだろう 

  83. とすれば21世紀にも観覧車は死に絶えるという事がないのであろう。それどころか地球のあちらこちらに色とりどりの花のように開花するかもしれない。大いに咲き乱れるといい。迷妾という迷妾をゴンドラにのせて宙を巡りめぐるがいい。一回転すれば一回転分だけ迷いが静まるだろう。私はそう信じている

  84. きっと、走るという光景は、人になにか切迫した異常を告げるのだろう。走るために走るなど、到底信じがたい虚構なのだ。摂りすぎたカロリーを燃焼させるために走るなど、できそこないのSFに等しいのだ。「走るというフィクション」

  85. いっそ、ヌーヴェル・ヴァーグ初期のフランス映画みたいに、モノクロ映像、音楽なし、最小限のナレーションなんてTVニュースをじっくりと観てみたい。色、音ともに潤沢なニュース映像よりよほど想像力がわきそうだ。豊富すぎる情報でぼくらは判断力を奪われっぱなしなのだから。

  86. 自分のグラスは自分で洗いたいですか、といった調子の、媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いなのでした。僕は記銘にかなりの問題ありと言われていて、事実、言われた先から物事を忘れるのですが、この「セーキは自分で洗いますか?」は記憶としてすぐに深く体に着床しました。

  87. この臆病者めが。この2年でお前は体重を15キロ失い、少なくても10年分は老けた。頬は深くえぐれ、頭髪の多くを失い、首の皮膚など死んだ亀のようにたるんで、かつては怒り狂って火を噴くようにも見えた両の眼はいま、まるで濁ったまま涸れた沼のようだ。「自分自身への審問」

  88. 眼球が体外ではなく体内というか、躰の「裏側」に向かい、視界が反転するなどという、調理中の烏賊(いか)のような躰のめくり返しが、全体、人間にもあるものなのでしょうか。脳の病のせいでしょうけれど、ぼくにはそれがあったのです。「内奥を見る」

  89. ジョジョ。ジョジョは死んだ。あとがまのファーファも死んだ。痕跡もない。アモイからメールがきた。アモイにもコビトがいる。ハマグリもいる。青いウツボもいる。アモイのコビトもふくみ笑いをする。ウィーンからメールがこない。ウィーンの雪はかわいている。小麦粉のように。( 11.2.4 )

  90. 蛸を鈍感ときめつけるのは、しかし、ひどい偏見かもしれない。蛸は死なないどころか、実際は短命である。ストレスが高じるとみずからの足を食ってしまうほど感じやすい。無脊椎動物のなかではもっとも高い知能をもっていて、記憶力も抜群である。その血は青く、詩的でさえある。(09.6.30)

  91. 信頼できる友人らによると、東京拘置所は拙稿「犬と日常と絞首刑」所載の新聞(6月17日付朝刊)を黒塗り(閲読禁止)とはしなかった。たしかめえたかぎり、少なくとも一人の死刑囚が拙稿を読んだという。その事実の性質、軽重、示唆するものについて、あれこれおもいをめぐらせている。「私事片々」

  92. 毎年三万人以上の自殺者、なんらかの精神疾患をもつ人は一説に八百万人ともいわれ、増えつづける一方の失業者、貧者たち。震災・原発メルトダウンは「棄民」に拍車をかけています。これがこの国の実相です。

  93. NHKが巨額のお金を投じて制作した「坂の上の雲」には開いた口が塞がりません。日露戦争における日本人の勇ましいこと、美しいこと。満州・朝鮮の支配をめぐって戦われたじつに悲惨な戦争なのに、本質が隠され、民族心昂揚があおられている。被災地でも「坂の上の雲」が人気だといいます。

  94. 「いっしょに骨拾いをしてくれます?」。いっしょに七並べをしましょうといった調子の軽やかなその声が、荒亡の果てに佐渡に引きこんだ彼の、不意といえば不意、予期したとおりといえばそうでもある死に様には、なんだかとてもふさわしいようにも思われたから、私はすこしも悪い気がしなかった。

  95. 戦時下でも、たとえ核爆発があっても、ワールドカップ・サッカーとオリンピックはつづけられ、大いにもりあがるだろう。大手広告代理店が戦争関連CMをつくるだろう。日本人宇宙飛行士のコメントと日本の新聞の社説は、ひきつづき死ぬほど退屈でありつづけるにちがいない。

  96. どういうわけだか、ものみな拉(ひしゃ)げて見える、ぬるく湿気った夜、ホームの端に立ち、朧に歪んだ三日月を眺めていたのだ。月というより、あれはまるで夜空の切創(せっそう)。傷口から光沢のある黄色の狂(たぶ)れ菌が、さらさらきらきら、駅に降りそそいでいる。伝染性の狂れ菌糸だ。「幻像」

  97. 非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

  98.  風景が波濤にもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。

  99. わたしは長い間、この言葉を意識してきました。『眼の海』を書いているときもずっと意識していました。「自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代」とは、市民運動をも巻き込む新しい形のファシズムなのではないか。そんなふうに思っています。

  100. これが真景なのです。こうした現実は報道されません。ですから、報じられたものは偽造なのだと。なぜマスメディアは死を隠すのか。地獄や奈落と向き合わないのか。それは死に対する敬意がないからだと思うのです。(略)二万人の死体を脳裡に並べてみよ、と言いたい。

  101. 戦争という、人の生き死にについて論じているのに、責任主体を隠した文章などあっていいわけがない。おのれの言説に生命を賭けろとはいわないまでも、せめて、安全地帯から地獄を論じることの葛藤はないのか。少しは恥じらいつつ、そして体を張って、原稿は書かれなくてはならない。「社説」

  102. いつか父を誘った。葦の原にしゃがんで父を殺すことをおもった。ここでならやれるとおもった。父もわたしがそうおもったことを丈の高い葦ごしに気づいているのをわたしは知っていた。父はわたしにやられるのを、魚のいない入江に釣り糸をたれながら、まっていた。「赤い入江」

  103. それは、芸術であれなんであれ、ジャンルやカテゴリーに分類せずにはおかない現代風なやりかたにたいする、強烈なアンチテーゼであるといえよう。じっさい、ジャコメッリの創作は既成のどこにも分類しようがない。かれは、そんなやりかたに関心がないのである。

  104. グルメ番組、くだらない解説、CM。みんながテーブルに一列に並んで、世の中についてこもごも喋る。弁護士が、よくこんな暇があるなというくらい登場する。国会議員が朝から晩まででている。あれも恥だと思います。口を開けて見ているぼくも恥だと思うのです。恥辱というのは、そういうものです。

  105. どうして…と私は訝しみ花の奥を探ると、A子さんは顔を伏せ近寄りがたい程寂しげな眼差しをして、木槿に身を隠すようにゆっくりと遠ざかっていった。紅紫の花の色が映り横顔が燃える様だった。私達は又も言葉を交わさずに別れてしまい、やがて木槿の事も彼女の事も記憶の抽斗の暗がりに消えてしまった

  106. こんなにも暗いのに、タールみたいな水面が葉影を映している。畔になにかが膨れて浮いていた。人か。水にうつ伏せている。やっ、首がない。S.S か。だが、大きすぎるし、体型がちがう。あれは S.S ではなく、たぶん私だ。「閾の葉」

  107. 現に、口が裂けても歌いたくないはずの「君が代」を歌うことが制度化されてしまったとたん、みんなが平気で歌っている。泣きながら歌うわけでもなく、歌うことで魂が傷ついているようにも見えない。挙げ句の果てに生徒に教える。それが戦後民主主義の集合的な不服従の実態だったのではないでしょうか。

  108. 阪神大震災でも、あるいはアメリカのハリケーン被害でも、良好な居住地、堅牢な家に住んでいる富裕層はひかくてきに被害が少なかった。禍は万人をひとしく襲うのではない。貧困階級と弱者をねらいうちにしてくる。あらゆる災害から貧困層や弱者はひどい苦しみを受ける。そこに被害が集中する。

  109. 垂線からもっとも遠いところにいると思いこんでいる無邪気な者たち、すなわち、自己を無意識に免罪している者たちや幸せな詩人や良心的ジャーナリスト、インチキ霊能者らの内面よりも、私が人殺しのそれのほうにより惹かれるのはなぜであろうか。

  110. 男のつぶやきが聞こえてくる。「この顔は、なぜ顔でなくてはならないのだ。なぜ人はなによりもまず顔を見ようとするのだ。存在のなかで最も存在をうらぎる顔というものを存在の証とするのはなぜだ。ない顔に想像の顔をかぶせてまで顔をつくろうとするのはどうしてなのだ…」。臓腑に響く低音であった。

  111. 日常はすでに壊滅しているはずである。なのに、皆が口うらあわせて日常が引きつづいているふりをするのはなぜか。黙契をこれまでどおりつづけているのはなぜだろうか。「自問備忘録」

  112. そこで絞首刑に処されてさらに深い奈落へと落ちてゆく。泣き叫ぶ声も鉄板が二つに開く音もロープが軋(きし)む音も頸骨(けいこつ)の折れる音も読経の声も、刑場の外にはまったく漏(も)れはすまい。そしてそこもやけに明るいのだろう。奈落はたぶん妙に明るいのだ。「側」

  113.  ふと訝(いぶか)しんだ。彼は地下の刑場に連行されるとき、このエレベーターに乗せられるのだろうか。まさか。おそらくどこかに確定死刑囚を地下刑場に下ろすための特別のエレベーターが隠されているにちがいない。ここの死刑囚は予告もなくある朝突然に、死のエレベーターで地下刑場に移送され、続

  114. そんなある日、私はある〈行為〉にでくわした。いつも私の前に例の質問をされている〈認知症〉のおばあちゃんが、どうしたことかその日は質問の最中に眠っていた。いや、それは「寝たふり」であり、そうすることによって彼女は質問に耐えていたのである。「生に依存した死、死に依存した生」

  115. きれいなじつにきれいなある晴れた朝に、9.11 のような壮絶なテロが起き、たくさんの人が死ぬ。そのことの「道理」が、だれにもわからない。そういう世界にわれわれは生きている。 「『時間』との永遠のたたかい」

  116.  人類は頭ではだめでも、胃袋で連帯できるのかもしれない。少なくも、食っているあいだぐらいは。もの食う人びとの大群のただなかにいると、そう思えてくるのである。

  117. 母はどれか。父はどれか。伏せた遺体をめくりかえしてみもしたのだが、しっかり正視したかどうかはうたがわしい。こころのうらでは、父や母や兄弟姉妹でないことをねがいもしていたというから。疲れきって、じぶんがなにをしているのか、ほんとうはなにを乞うているのかもわからなくなった。

  118.  先日、内視鏡の写真を見せられた。赤茶けた腫瘍がいつの間にか全容を捉えきれないほど膨れていた。「長く放置していたからですよ」と医師が語った。恐らく、政治の癌もそうなのだ。生活の幅より狭いはずなのに、政治は生活を脅かしつつある。もう帰れない。どこに行くのか、思案のしどころだ。

  119. すでに見る者の心は乱されている。少年の顔はまるで他の写真から切りぬいてここに貼つけられた物の様でもあり、そういえば物象全体の遠近法も画角も不自然である。少年と黒衣の婦人たちとの遠近は曖昧であり、道の傾斜も遠近の勾配とどうもふつりあいで、見るほどに不安にかられる。「スカンノの少年」

  120. まずこの本の著者のいわば法的規定は元テロリストであり元犯罪者であり確定死刑囚なわけです。それが表象するのは「極悪人」でしょう。しかしながら、彼のひととなり、表現する俳句、詩といってもいいけれど、それはまったく法的規定とは異なる高い品性、文学的豊饒さと深みを湛えている。

  121.  いままさに死にゆくひとの手をにぎったことがあり、ずっと忘れられない。よりそう者のいないさびしい死であった。死にゆくひとは、からだから枯葉をはらりと一枚落とすように、かすかな声を洩らした。「ワ……」と聞こえた。呼気音ではなく、唇がふるえたから、うわ言のようであった。「末期の夢」

  122. 現在、生きてあるのは、いわば凍結処理されているみたいでもある。解凍するとすれば、そのまま死刑執行になる。そういう責苦があるから、生を考えれば考えるほど、死が必ず迫り上がってくる。いきいきといまを感じたり、生命を感じながら、同時に死を感じざるを得ない。まさに絶境です。

  123. ぼくは、自分のことを自覚的なPPJだとおもっています。 P・P・J 、つまり、パーフェクト・ポンコツ・ジイサン。はっきりいって、本当にそうおもっている。「たれもが夭折の幸運に恵まれているわけではない」とエミール・シオランは書きましたが、そのとおりだね。「PPJ と許せる自己像」

  124. この世界では強者の力がかつてとは比べものにならないぐらい無制限なものになりつつある。一方で、弱者が、かつてとは比べものにならないぐらい、ますます寄る辺ない運命におとしいれられている。そうなってきた。

  125. 「おわいのおかし」と「おわいのなまがし」のうち、とくに後者のほうを、腐爛したタヌキの口と、政治家や財界人の排泄物をはいつくばってひろいあつめている記者どもの口に、たんと突っこんでやるべきではないでしょうか。

  126. なにか腸の腐爛したタヌキを思わせる経団連の会長が、憲法改定について「国民投票が過半数の賛成なので、発議要件も議員の過半数が望ましい」と言い、集団的自衛権については「平和維持の観点から正面から議論すべきだ」と、いかなる特権をもってしてか知らねども、偉そうに述べたというニュースを見た

  127. 先程わたしは原発の話をしたけれども、あの福島原発と、多くの他の原発の前提には、事故は impossible という、非常に不遜な、傲慢な前提があったにちがいありません。これは過誤、誤りと、科学技術の過信、自然に対する傲慢さときめつけがしからしめたものではないかとわたしは思います

  128. 上からの強制ではなく、下からの統制と服従。大災厄の渦中でも規律ただしい行動をする人びと。抗わない被災民。それが日本人の「美質」という評価や自賛がありますが、すなおには賛成しかねます。

  129. むろん。Kよ。賢い君がいまひどく悩んでいることをぼくは知っている。つらいから、ときに眼を閉じ、耳をふさいで仕事していることも知っている。ぼくはもう君に対し過剰な批判はしないだろう。静まったのだよ。火焔の錯視で、かえって平静になった。悩むかぎり、ぼくはずっと君の味方だ。

  130. すべての明け暮れが絶えておわれば、これからは明けるのでもない、暮れるのでもまたない、まったきすさみだけの時である。いまやぞっとするばかりに澄明な秘色(ひそく)の色に空と曠野はおおいつくされて、畏れるものはもうなにもない。恥ずべきことも証すべきこともない。「酸漿」

  131. つまり、日常の変化が一見して緩慢ならばさし迫る危険を危険とは認めず、現状に安住しようとする。激変にはあたふたとするけれども緩やかな変化にはまことに反応が鈍い。とすれば、われわれはすでにBF症候群にかかっているのではなかろうか。「ゆでガエル症候群」(Boiled Frog Syn)

  132. 政治は、それがいかなるかたちであれ、殺人をみちびく。そのことをわたしはすでにおもい知ったし、まだおもい知っていないひとは早晩おもい知るはずだ。究極までかんがえぬけば、法的には可能なはずの死刑執行を選挙期間中は避けたのも、いずれ殺人をみちびくだろう政治の手法だったのだ。

  133. そのような倒錯した世界を異様だと感じないほうが異様である。ところが現実には、CMの世界のほうを正常だと感じ、CMがないと逆に寂しくなるというひとがずいぶん存在する。それが生理的に身についているひとがずいぶん存在する。異様が正常になろうとしているのである。

  134. 資本と同一化した映像の代表は、たとえばテレビのCM映像である。これをたんなる商業映像とあなどってはならない。ひとびとの意識と無意識にはたらきかける影響力、ひとびとを誘導してゆく力の強さにかんしては、CM映像が他の映像のすべてを凌駕しているのが現実なのである。「映像と資本の腐れ縁」

  135. 〈 死んだ小鳥が水に落ちたような音 〉 が聞こえてくる。これはある作家がカメラのシャッター音をたとえたことばなのだが、これ以上幽玄な形容を私は知らない。マリオ・ジャコメッリの映像を眼にするときはいつもそうした音が耳の底にわく。水とは人のいない山奥の湖かもしれない。

  136. 私は人非人と断じられることによってしか私の「人」を容易にあかしえはしない。その逆では慙死するほか行き場はない。この件について明証の義務をなんら負わない。完膚ない人非人としてのみ私はやっと安眠を眠りつくすことができるのだ。それ以外の眠りは眠りたりえない。「眠り」

  137. ずいぶんおくれて、/ 首なし馬が / わが首を追って、/ 私のなかの / 霧深い / 青い夜を、どこまでも / 横倒しに流れてくるのを、/ ゆめ忘れるな。 「青い夜の川」

  138. (略)それに、これは笑うしかない体たらくなのだが、半身麻痺という障害をもったまま独り暮らししている私にとっては、手術のための入院だろうが何だろうが、三食上げ膳据え膳の好環境は、いつわらざるところ、大助かりなのだよ」

  139. 「何度もいうが、自死はいまだ行使せざる私の最終的権利であり、また、果たしえない夢なのでもあり、癌の手術とまったく矛盾しはしない。自死は、その未知の闇にいつも大いに惹かれるものの、私にとっては、実行を永遠に留保することによってのみ残される最期の想像的自由領域なのかもしれない。続

  140.  麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのだった。その像は、うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群に重なる。

  141. 結局はそこに想到したまさにそのころ、かわいたアフガンの大地であれほど白銀色に光り輝いていた金属片は沢山の人々の手の汗や脂にまみれて茶色に錆びてきていた。それらはあたかも人の血を吸ったようでもあり、人体の奥深くから剔抉したもののようにも見え、持ち帰った当初よりよほど凄みを増していた

  142. それにしても、昨今のデモのあんなにも穏やかで秩序に従順な姿、あれは果たしてなにに由来するのであろうか。あたかも、犬が仰向いて腹を見せ、私どもは絶対にお上に抵抗いたしませんと表明しているようなものである。 「大量殺戮を前にして」

  143. 見渡すかぎり、やはりジャコメッリの写真や夢のように、景色は白々とそして暗々と脱色され、深閑として音を消されている。友人たちは腰をかがめ、ひとつまたひとつと屍体をみて歩いた。何日も何日も。ひとのおおくはたんに部位にすぎなかったから、ひとりまたひとりではなくひとつまたひとつと覗くのだ

  144. 鈍色(にびいろ)というどすんと重くて冷たいことばを、空がいつもそうだったから、子どものころからからだで知っていた。もともとはツルバミで染めた濃いねずみ色のことで、平安期には「喪の色」であったことなどは、長じておぼえたのである。その空から、はらほろと雪が舞いおりていた。

  145. 「愚者たちの祝祭」と罵っておきながら、犬をつれて不在者投票に行った。投票所ちかくのハナミズキのあたりに犬をつないで、ひとりであるいているとき、不在者投票って面白い言葉だな、とおもった。そうおもったら、じぶんも不在者になった気がしてきて、からだがだんだん透きとおっていくのだった。

  146. 日本社会では不正や不公正への怒りの感覚と表現が、権力と事実上一体化したマスメディアのすぐれて一面的な報道や野党の去勢化の結果、今やほぼ消滅しかかっており、人々はわずかに「怒るべきではないか」→「いや、怒ってもしょうがない」という健全にして穏和な心理プロセスを残しているのみだという

  147. 逆に、いまの為政者たちが社会的な非受益者たちに対して注いでいるまなざしとことばがぼくには納得がいかない。気に食わない。怒りも感じる。あんた方が世界に対してもっているマチエールとかれらのもっているマチエールはちがうよと。高みから見て想定しているものと全然ちがうのだといいたくなる。

  148. 「ちんぴら」という言葉にぼくはどうしても安倍氏を重ねてしまいます。いわゆる“チンピラ”たちは戦争を痛烈に反省したはずの、この国の戦後の成り立ちをまるごと否定し、不戦平和の誓約をヘラヘラ笑いながら靴の先で蹴飛ばしているようです。ぼくはどうしてもそれを諾(うべな)うことができません。

  149. ところで、改憲論の高まりと全く逆の空気もわずかながらあります。『文藝春秋』8月号に岩田正さんの短歌が載っていて「九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか」っていうんです。(略)僕はこういう岩田さんの気持ち、すごくわかるんですよ。「ちんぴらに負けてたまるか」というのが…。

  150. 身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。

  151. さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討する有識者会議なるものをたちあげて同自衛権行使に“合法性”をあたえようとし、マスメディアの多くもこの超右より路線にずるずると引きずられていったことだ。 「メルトダウン」

  152. いま忸怩として思いをいたすべきは、この低劣なる見識のもち主が執政期間中に「美しい国」づくりや「戦後レジームからの脱却」を声高に唱え、教育基本法を根本から改悪して教育現場を荒廃させただけでなく、憲法改悪のための国民投票法を成立させ、さらには集団的自衛権行使の憲法解釈見直しを検討−続

  153. 新聞、テレビの垂れ流すいわゆる情報は、改憲をめぐる一連の動きが本質的に災いしつつあることを教えない。このぶんだと人々はクーデターが起きてさえヘラヘラ笑っている可能性なしとしないだろう。「五月闇」

  154. この国の全員が改憲賛成でも私は絶対に反対です。世の中のため、ではありません。よくいわれる平和のためでもありません。他者のためではありえません。「のちの時代のひとびと」のためでも、よくよく考えれば、ありません。つきるところ、自分自身のためなのです。 「いまここに在ることの恥」

  155. 私がいま感じているのは、いわば、鵺のような全体主義化である。そこには凛乎たるものが何もない。右も左も慄然としないことをもって、主体が消え、責任の所在がかくれ、満目ひたすら模糊とした風景のままに「いつのまにかそう成る」何かだ。 「言葉と生成」

  156. 国家とは、その大小と体制のいかんを問わず、おびただしい死体と息づきあえぐ人間身体をどこまでも隠蔽する政治的装置である。戦争を発動してさえそうなのだ。殺した人間の数と殺された者のむごたらしい姿態に一般の想像が及ばないように仕組み、あげく殺戮そのものがなかったかのように振る舞うのだ。