秋になって、讃岐から栗が届いた。

 まずは栗ご飯と思ったが、その前に栗を剥(む)かなければならない。

 熱湯に放り込んで三十分、笊(ざる)に上げて、卓上に包丁とまな板を用意する。

 固い鬼皮はまあ楽にカパッと剥ける。その先の甘皮がなかなか大変。実に密着しているから包丁で丁寧に分けるしかない。大雑把ログイン前の続きにやるとおいしいところを捨てることになる。

 大根の桂(かつら)剥きやトマトを剥くのに似ているが、栗はサイズが小さい。その分だけ包丁使いが細かくなる。手を動かしながら味見の誘惑に耐えるのも容易ではない。

 結局、三十粒を剥くのに一時間半かかった。一粒三分。グリコの広告に「ひとつぶ300メートル」とあったのを思い出したりして。

 栗を剥くのは愚直な作業だ。手と目は忙しくても頭は暇だからいろいろなことを考える。黙々と包丁を動かしながら、この対極にあるのは政治家という職業かと思った。

     *

 この数年間、安倍晋三という人の印象はただただ喋(しゃべ)るということだった。枯れ草の山に火を点(つ)けたかのようにぺらぺらぺらと途切れなく軽い言葉が出てくる。対話ではなく、議論でもなく、一方的な流出。機械工学で言えばバルブの開固着であり、最近の言い回しを借りればダダ洩(も)れだ。

 安倍晋三は主題Aについて問われてもそれを無視して主題Bのことを延々と話す。Bについての問いにはCを言う。弁証法になっていないからアウフヘーベンもない。

 これは現代の政治にまつわる矛盾の体現かもしれない。資本主義と民主主義という二つの原理の間にどうしようもない矛盾がある。民主主義は権利や富が万民に行き渡ることを目指す。資本主義は富の集中と蓄積を旨とする。ベクトルが逆なのだ。

 現政権の面々はほとんどが富裕層の出身である。有権者の九割九分は富裕層ではないのに、なぜ彼らに票を入れるのだろう。

 選挙前、彼らは貧困層に厚く配分するとは言わず、景気がよくなったらみんなに行き渡るからと言う。自分は景気をよくする秘訣(ひけつ)を知っていると繰り返す。これはカジノの原理だ。

 政権の座に就くとあとはひたすら喋ってごまかす。もう少しもう少しと先送りする。よくもまあそれが五年も続いたと思うし、その間に憲法は蔑(ないがし)ろにされ、反民主主義的な悪法が多く成立してしまった。悔しいかぎりだ。

 加計と森友で追い詰められて一方的に解散。その上で国難とはよくも言ってくれたものだ。「今日は晴れ後曇り、ところによりミサイルが降るでしょう。お出かけの方は核の傘をお忘れなく」って、それならばすべての原発からすぐに核燃料を搬出し、秘密裏にどこかに隠しなさい。原発は通常ミサイルを核ミサイルに変える施設なのだから。

 野党の方はただただ情けない。普通の人は安倍晋三のようにぺらぺらは喋れないとしても、求心力のある人物が一人もいなかったのはなぜか。

     *

 野党の無力と与党の制度疲労の隙間から小池百合子がむくむくと頭をもたげた。一党独裁の停滞期から変動期に入ったように見えるが、彼女の「日本をリセット」と安倍晋三の「日本を取り戻す」は無意味という点では同じ。

 カジノが劇場に変わったのか。だが派手な演技で人目を引こうとする役者はいても、この国が今かかえている問題に対する答えはどこにもない。

 希望の党は民進党からの移籍者を選別するという。合併ではなく併合なのだからそれは当然で、入れてもらえないと知ってうろたえる方がおかしい。民進党ながらさっさと無所属で出ると宣言した逢坂誠二(北海道八区)はかっこよかった。いっそのこと同志を募ってもう一つ党を作ってはどうだろう。名前はたとえば「立憲民主党」、とまで書いたところへ届いた夕刊に、枝野幸男がまさにその名の党を作るとあった。主義主張はいいとして、小選挙区制のもと、また死に票が増える。

 カジノから劇場、その先はサッカーの試合のよう。反与党の側はフィールドぜんたいに散って勝手に走りまわっている。ゴールはどんどん遠くなる。

 政治は必要である。どんなに質の悪い政治でも無しでは済まされない。アベノミクスが嘘(うそ)で固めた経済がこの先どこまで落ちてゆくか、見届けるためにも少しはましな政府が要る。

 選挙の原理はこの「少しはまし」ということに尽きるのだろう。理想の候補はいないとしても、誰かの名を書いて投票しなければならない。

 話を元に戻せば、この国のほとんどの人は栗を剥くように実直に働いている。一粒に三分を費やしている。我々には愚直な一人一票しかない。それならば、絶望の一歩手前で踏みとどまって、まずはこの権利を行使しよう。