(朝日新聞 2021/11/16)

 126年前の1895(明治28)年10月8日、日本の軍人らが朝鮮王妃を殺害した「閔妃(ミンビ)暗殺事件」で、実行グループの一員だった外交官が、事件翌日に郷里の親友に宛てたとみられる書簡が見つかった。「自分たちが王妃を殺した」と経緯が詳しく記されており、研究者は「事件の詳細を解き明かす貴重な資料」としている。

 書簡の差出人は、現地の領事官補だった堀口九万一(くまいち)(1865~1945)。郷里、新潟県中通村(現・長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に宛てた、1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の計8通が見つかった

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▲閔妃暗殺事件の翌日、1895(明治28)年10月9日に堀口九万一が郷里・新潟の親友、漢学者の武石貞松に宛てたとみられる手紙の一部。画面中央左寄りに「王妃ヲ弑(しい)シ申候」とある。今回見つかった8通のうち、この手紙だけ封筒を二重にしていた


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▲堀口九万一が郷里・新潟の漢学者、武石貞松に宛てたとみられる手紙8通の封筒。閔妃暗殺事件の翌日、1895(明治28)年10月9日付の分(下段の左端と同2番目)だけは、封筒を二重にしていた

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▲閔妃暗殺事件の前日、1895(明治28)年10月7日に堀口九万一が書いたとみられる手紙。大院君から贈られた漢詩を引用しながら、「何ノ事ヤラ不分明」と述べている(2枚目の画面中央付近)


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▲堀口九万一が郷里・新潟の漢学者、武石貞松に宛て、閔妃暗殺事件の前日(右端)と翌日(中央と左端)に書いたとみられる封書

 名古屋市に住む切手や印紙の研究家、日系米国人スティーブ長谷川さん(77)が古物市場で入手し、「朝鮮王妃殺害と日本人」の著書がある歴史家、金文子(キムムンジャ)さんが毛筆の崩し字を判読した。手紙がもともと保管されていたとされる場所や記されていた内容、消印、封書の作りなどから、本人の真筆とみられる。

 8通のうち6番目の書簡は、事件翌日の同年10月9日付で、現場で自分がとった行動を詳細に記していた。王宮に押し入った者のうち「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と、王宮の奥まで押し入り、閔妃を殺したことを打ち明けた。「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」と、感想まで添えていた

 事件は日清戦争の講和から約半年後のこと。宮中の実力者だった閔妃は、講和直後に起きた三国干渉を機に、ロシアを頼って日本を排除しようとしていた。朝鮮公使に前月着任した長州藩出身の元軍人、三浦梧楼(ごろう)が主導し、実行グループは日本の外交官や警察官、民間人らだった

 金さんは「事件の細部や家族についての記述などからも、本人の真筆とみて間違いない。現役の外交官が任地の王妃の殺害に直接関与したと告げる文面に、改めて生々しい驚きを覚えた。いまだに不明な点が多い事件の細部を解き明かす鍵となる、価値の高い資料」と話す

■手紙の記述、後年の釈明と矛盾

 堀口のものとみられる書簡のうち、事件の直前と直後に記された文面からは、関係者らの後年の記述とは異なる事件の経過もうかがえる。

 事件は、ロシアに頼って日本を排除しようとした宮中の実力者・閔妃を殺害するため、国王の父・大院君を担いだ「親日派」のクーデターを偽装し、警護の名目で襲撃部隊が宮中へ押し入る計画だったとされる。堀口はソウル郊外の別邸に住む大院君を王宮まで連れ出すため、襲撃前に大院君を説得する役も受け持っていたといわれている

 見つかった8通のうち、5番目は事件前日の10月7日付。堀口は「過日より大院君と往復し詩文書函(しょかん)の応対度々有之(たびたびこれあり)」(原文はひらがなとカタカナ混じりの旧字体。以下同)と、大院君から贈られた漢詩を披露。だが、詩の内容は「何の事やら不分明」と打ち明けている。大院君を「朝鮮大一(だいいち)の(第一の)老英雄、話せる人なり」「滑稽(こっけい)洒脱(しゃだつ)何とも申様(もうしよう)なき狸爺(たぬきじじい)なり」と論評し、「近きに一大乱騒あらん」とほのめかした。

 「この漢詩のくだりは重要だ」と歴史家の金文子さんは指摘する

 堀口は約40年後の1930年代、事件を回顧した複数の随筆の中で、大院君が事前に決起の野心を打ち明けたとする漢詩3首を公表していた。「しかし、今回見つかった書簡の漢詩とは全く違う。堀口はじめ関係者らは事件後、大院君が首謀者だったと主張したが、その言説が虚構だと証明する有力な手がかりだ」

 6番目の手紙では、自分たちが「閔妃を殺した」と親友に打ち明ける一方、堀口はその2日後の10月11日には上司に促され、当時の外務次官・原敬(後の首相)に私信で事件を報告した。この私信では、堀口は事件を実際に目撃したと述べ、大院君の連れ出しに加わったことも認める一方、暗殺の場面は「王妃逝く」と、第三者のような表現をしていた。

 これまでの研究で、堀口が事件の実行グループに加わっていたことは知られる一方、王妃を実際に斬殺した人物は特定できていない。計画を事前に知らされず、事件の処理をした現地の内田定槌(さだつち)・一等領事は、事件当日に原へ送った手紙で、王妃を斬ったのは「某陸軍少尉」とした。他にも複数の名が挙がっている。

 一行は、計画を実行後、暗いうちに引き上げる予定だったとされる。だが、大院君が連れ出しになかなか応じなかったことと、二手に分かれた実行グループが行き違いになったことから、襲撃は夜明け後となり、凶行後に立ち去る一団は大勢に目撃され、日本人の関与を隠せなくなった。だが、今回見つかった書簡には、そうした不手際への言及はない。

 金さんは「事件に関与した日本人の手記は多数あるが、虚実を取り混ぜた粉飾の多いのが実態。今回見つかった書簡は信頼する故郷の友人へ宛てた私信だけに、さらなる検証は必要だが、信頼度は高いとみられる」と語る。(編集委員・永井靖二)

■事件の詳細解明へ「重要な鍵」

 朝鮮半島との関係史に詳しい中塚明・奈良女子大学名誉教授(日本近代史)の話

 昭和期との対比でとかく肯定的に語られがちな明治時代の日本軍だが、日清戦争も日露戦争も、朝鮮を侵略する過程で起きた。だが、現代の日本人にそんな認識は希薄だ。清やロシアへの勝利をうたった公刊戦史の陰で、日本が朝鮮半島で何をしたのか。閔妃暗殺事件も含め、その詳細を明らかにする研究はまだ緒に就いたばかりだ。事件から120年余を経て、当事者の手による一次資料が出てきた意味は大きい。彼らが現地の人々をどう見てどう振る舞ったのか伝える、重要な鍵になるだろう。

■閔妃暗殺事件とは

 1895(明治28)年10月8日早朝、日本の軍人や外交官、民間人らが朝鮮王宮・景福宮へ乱入し、朝鮮王朝第26代国王・高宗(コジョン)の王妃・閔妃(ミンビ)(明成(ミョンソン)皇后)を斬殺、遺体は石油をかけて焼かれた。約半年前の4月23日、日清戦争で日本が清から得た遼東半島を露独仏の圧力で清に返還させられた「三国干渉」があり、これを機に朝鮮王朝内では日本の影響力が弱まり、ロシアを頼る動きが強まっていた。

 隣国の王妃を宮中で殺害した行為を、現地の内田定槌(さだつち)・一等領事は「歴史上古今未曽有の凶悪」と、外務大臣臨時代理・西園寺公望への機密書簡に記した。不平等条約だった日朝修好条規の下、実行グループの日本人に朝鮮の裁判権は及ばず、翌年1月、陸軍将校8人は広島・第5師団の軍法会議で無罪。三浦や堀口ら48人も広島地裁の予審で証拠不十分を理由に免訴となり、釈放された。