コラム

ロメールのリアリズム

エリック・ロメールの映画を見るといつも思い出すのは、マーク・トウェインがジェーン・オースティンの小説について語っている言葉だ。十九世紀初頭のイギリスの地方都市の上流中産階級に属する登場人物たちの間で起こる、専ら結婚ばなしが中心の優雅で繊細な、しかも、したたかな機知にあふれた辛辣さ、このうえなく退屈ではあるけれど、一読読みはじめると決定的に癖になりそうな豊かな小説の魅力を形づくるオースティンの作品は、しかし、ハックルベリーとトムの作者をこのうえなく苛立たせるのだ。

オースティンの小説を読むことは、イギリスの老婦人と老嬢のお上品なお茶会で交わされる長々しくて退屈きわまりない社交的会話を、我慢の限度をはるかに超えて聞かされているようなもので、その苛立たしい気持ちを解消するためには、オースティンの墓をあばいて骨を取り出して粉々に砕いてやる以外にない、と、トウェインは激しく感情をたかぶらせる。

マーク・トウェインほどの激しさでエリック・ロメールの映画に苛立つことのできる才能を持ち合わせている人間はいないから、ジェーン・オースティンのようには言われないまでも、男の登場人物が持っている知性とは別に、ほとんど馬鹿のような影の薄いリアリティでもって振舞うロメールの映画について、男のシネフィルたちは沈黙を守るか、あるいは曖昧にうなずくかで、ほとんど語る術を持っていないように見える。参照すべき適当な批評があまりないのだ。

五十年代から六十年代はじめに映画を撮りはじめたヌーヴェル・ヴァーグの監督たちは、アメリカ映画の圧倒的な影響を受けつつ、ヒッチコックやハワード・ホークスへの支持を表明するために、おおかれ少なかれ、犯罪と(ガン)宿命の女 (ファム・ファタール)とセックスを主題とした映画を撮ったのに、ロメールの映画には、コソ泥ほどの犯罪も登場しないし(『グレースと公爵』『O侯爵夫人』『聖杯伝説』の三本のコスチューム・プレイでは人が殺されるけれど)、(ガン)も、宿命の女 (ファム・ファタール)も登場しない。何人もの、たいていの場合は若い男女の登場する映画なのだから、セックスや性的欲望は当然それとして暗示はされるし、恋愛はロメール的主題として重要な位置を持っている。しかし、セックスにしたところで、ゴダールのようにB.B. (ブリジット・バルドー)の全裸を見せるといったビジネス感覚とは縁遠いし、トリュフォーのような官能的セックス・シーンとも縁はなく、『クレールの膝』は、結婚を目前に控えているエリートのジャン・クロード・ブリアリが、浮気者のボーイフレンドのつれない仕打ちに泣く若い娘の陽に焼けた膝に、そっと手を触れたいという欲望の瞬間のために、内面の狂おしい葛藤と官能を生々しく経験する映画だし、『愛の昼下がり』と『コレクションする女』は、誰とでも寝る女の魅力に、苛立ちながらも惹きつけられ、おずおずとその気になりかける男は登場するものの、なぜかそこには、いわば、誘惑についてのフィクション、ファム・ファタールと呼ばれるものの特質―映画や芝居のドラマ性、あるいは、ロマンの属性である超越性といったようなもの―が圧倒的に欠けている。

女性の肉体をまるでカメラで触っているようにフィルムに定着するカメラマンのネストール・アルメンドロスは、『クレールの膝』でも『コレクションする女』でも、夏のヴァカンス地で、若い娘の明るく輝く蜜色に陽に焼けて熱く息づく肌を、眼で愛撫するかのように撮影し、彼女たちの呼吸や体温が伝わってきそうなのだが、しかし、それはただそれだけのものなのだ。いわば欲望についてのモラルのフィルター越しの視線をロメールの男たちは女に向ける。

緑の光線

エリック・ロメールは、男の視点から撮られたシリーズ『六つの教訓物語』の後に、現代の若い娘たちを主人公にして、『喜劇と格言劇』のシリーズと『四季の物語』シリーズを撮りはじめる。引っ込み思案なうえにガンコで泣き虫のヴェジタリアンの娘が、惨めなヴァカンスの最後の日に理想的(?)な若い男とめぐりあう『緑の光線』や、男にふられた若い娘が、相手を見返してやるために玉の輿 (こし)結婚を夢見て周囲の人たちにあきれられる『美しき結婚』といった、どの作品も登場するのは、どこにもいそうな、自分の強い思い込みを鈍重に主張しつづけるので、周囲の人達と観客を、いささかヘキエキとさせる若かったり、そう若くなかったり、中年だったりする女性たちで、彼女たちは、どこにでもいる普通の中産階級の働く女性や学生が親しい女友達と話をしている時に口にするだろう自分勝手で鈍重な意見を口にし、親しい女友達は、いくらか自分勝手さにヘキエキしつつも、善良な思いやりで話に耳を傾ける。

美しき結婚

多少の事件(喜劇的な)らしい出来事も起こることは起こるし、観客はクスクス笑いながら、いつの間にか、ロメール映画の苛立たしいガンコな女主人公の幸福を願わずにはいられない気持ちになってくるし、そうなるとロメールの映画は「癖」になるのである。

だから、いつでも続けて彼の作品を見られることは、ロメール作品が「癖」になってしまっている者としては、信じがたいような出来事なのである。あらゆるドラマやロマンやメロドラマの重厚さや華やかさや悲劇的な深刻さと、エリック・ロメールほど縁のない映画作家が存在するとは思えない。なぜなのだろう。

満月の夜

極端にドラマ性(あるいはメロドラマ性)を欠いたロメールの『聖杯伝説』は、クレチアン・ド・トロワの中世ロマンス詩、アーサー王の円卓の騎士の一人ペルスバルが主人公の、原作に忠実に作られた(ロメール的史実によって)映画なのだが、極度に様式化されたセットと中世絵画特有の絵画のような奥行きを欠いて均一の照明のせいで、一見ファンタジーのようにも見える、というより、原色の中世の写本を元にした、決して上品な感じを与えない不快な絵本を思わせる画面のこの映画(私は大好きなのだけれど)さえもが、『六つの教訓物語』シリーズや『喜劇と格言劇』シリーズや、長編処女作『獅子座』と同じように、ロメール的リアリズムによって撮られていることに驚かされる一方で、聖杯の騎士・愚かな若者であるペルスバル役のファブリス・ルキーニが(『クレールの膝』にはクレールの妹のボーイフレンドの少年として登場し、その頃から、いずれ頭髪の薄くなりそうな様子のチビの出目だった)、『満月の夜』でも『飛行士の妻』でも、感じの悪い馬鹿な中年のパリっ子として登場していることが楽しめるし、『緑の光線』『恋の秋』『グレースと公爵』『飛行士の妻』など、ロメール作品の多くに登場してるマリー・リヴィエールのように、それぞれの映画で全く違ったタイプの役を演じる女優の存在を楽しむことができるのである。

飛行士の妻

ドラマやロマンやメロドラマではなく、「コント」や「レシ」、あるいは「歌」こそがもちえるリアリズムの映画としてロメール作品を見れば、彼の意外に近くにいるのが、アメリカの記録映画作家のフレデリック・ワイズマンと、イランのアッバス・キアロスタミではないのかという気がしてくるほどだ。

(出典:『楽しみと日々』金井美恵子、金井久美子 平凡社 2007年)



付記


2016年の5月から6月にかけての3週間、角川シネマ有楽町で、エリック・ロメールの特集上映があり、ロビーで映画監督の井口奈巳さんとばったり顔を合わせて立話しをしていた時、年を取ってから初めて見たロメールの顔(長いこと顔写真を公にしないでいたのです)が、意外なことにクリント・イーストウッド(もちろん年を取ってからの)に似ているということで盛り上がったのを思い出しました。

作品自体について、井口さんはロメールを「サスペンスフルな映画監督で、カール・ドライヤーやアルフレッド・ヒッチコックの末裔」と書いていますが、映画の世界は時として、「顔」によって不思議な相似形を成立させてしまうのです。他にも、ハリウッドの女性映画の名監督として名高いジョージ・キューカーの壮年期の顔と、映画のシナリオ(野心的な内容の)も書いている実存主義思想家のサルトルの顔も、なぜか似ているのです。

エリック・ロメール

ところでこの原稿を書いている最中、COVID-19の感染騒動で、私の住んでいるマンションのすぐ近くで行われることになっていた、あるテレビ局のドラマのロケが中止されることになりました。3月の末に近所の家々に配られたチラシによるとロケの内容は、あるマンションの部屋で主人公が同僚の自殺死体を発見するというシーンなのですが、二日がかりで行われ、撮影規模は「スタッフ40名程度、キャスト関係2名、EX出演者数名、カメラ、照明、録音の各機材を使用、車両は2tロング3台、マイクロバス3台、ワゴン車2台」というものです。

ロメールの撮る映画のスタッフは(『O侯爵夫人』や『聖杯伝説』にような大がかりの史劇は別として)このテレビドラマのスタッフの1割程度ですし、ドキュメンタリー作家のフレデリック・ワイズマンは自身が撮影現場で録音をやるので、カメラマンと助手の3人で行うこともあるそうです。編集も自ら行うのです。そうした親密なこまやかさで作られたフィルムの魅力は生々しく息づく作り手たちの呼吸のように、見る者の全身に伝わります。

海辺のポーリーヌ

ロメールがまだ年齢的に若かったせいもあってか、辛辣で一種残酷なところのあるリアリズムが、主人公の人生の一瞬にすぎない決定的瞬間を映画のショットとして定着させたかのような「六つの教訓物語シリーズ」(’62~’66年)に比べると、若い娘たちの軽やかな身体を軽いタッチで繊細な笑いとして撮った「喜劇と格言劇」(’81~’87年)は、穏やかすぎると感じるむきもあるかもしれませんが、ロメールの奥深さは晩年のコスチュームプレイ、『三重スパイ』(’03年)、そして『我が至上の愛-アストレとセラドン』の二本のように奇妙で優雅な構造によって『O侯爵夫人』(’76年)や『聖杯伝説』(’78年)の不思議な独特さを思い出させる空間へ新しく回帰したかのような印象を与えるのです。

※付記…2020年4月15日加筆




金井美恵子
小説家。1947年、高崎市生まれ。小説に「岸辺のない海」、「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞)、「タマや」(女流文学賞)、「恋愛太平記」、「噂の娘」、「快適生活研究」、「スタア誕生」ほか、エッセイに「愉しみはTVの彼方に」、「待つこと、忘れること?」、「楽しみと日々」、「目白雑録」シリーズほか多数。

『飛行士の妻(1980)』©1981 LES FILMS DU LOSANGE. 『美しき結婚(1981)』©1982 LES FILMS DU LOSANGE-LA C.E.R. 『海辺のポーリーヌ(1983)』©1983 LES FILMS DU LOSANGE-LA C.E.R. 『満月の夜』©1984 LES FILMS DU LOSANGE-LA C.E.R. 『緑の光線』©1985 LES FILMS DU LOSANGE-LA C.E.R. 『友だちの恋人』©1986 LES FILMS DU LOSANGE-LA C.E.R. 『レネットとミラベル』©1985 LES FILMS DU LOSANGE-LA C.E.R. 『パリのランデブー』©1995 LA C.E.R. 『木と市長と文化会館』©1993 LA C.E.R.