2016年3月27日05時00分
全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。
季節がめぐり、自然と足取りも軽くなる今日このごろであるが、ひとつ、ずっと、引っかかっていることがある。
あの家の窓は、どうして閉まったままなのだろう。
通勤時に通りかかる、南西角の一軒家。南隣にくっつくように立っていた家屋が取り壊され、駐車場になった。日当たりも視界も各段に良くなったはずなのに、いつもカーテンがひかれている。
勝手な想像をめぐらせる。たぶんその家では、もはや南の窓は「ない」ことになっているのだろう。開けたところで、どうせ隣家の外壁だから。いつしかカーテンの開け閉めさえ忘れられ、もしかしたら家具が置かれてふさがれているのかもしれない。
もったいないというか、寂しいというか。窓を開ければ、これまでとは違う景色が見えるのに。うららかな日ざしがそそぎ、やわらかな風が吹き込んでくるのに。
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前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。
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反日。国賊。売国奴。
いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
スプリング・ハズ・カム。
窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。
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