立命館大大学院の立岩真也教授=京都市北区、伊ケ崎忍撮影
立岩教授の著書
目的は暮らしていくこと。生産や労働は手段のはず。能力主義により逆転した。
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成功する人・しない人の報酬の差 その正しさはきちんと言えない。
景気が急激に悪化し、たくさんの人が仕事を失っています=キーワード(1)。自分を責め、生きる気力をなくしている人も多いかもしれません。そんな息苦しい時代に、社会学者の立岩真也・立命館大大学院教授(48)は「人は強くなければいけないのか」と問いかけています。人が、たとえ弱くても、そのまま生きられる世について語ってもらいます。
人間が暮らすためには、ものを食べないといけない。そのために生産が必要になる。生産するには働かないといけない。労働するには、労働する能力が必要になる。本来は、こういう順番です。目的は暮らし生きることで、生産、労働、労働するための能力を持つことは暮らすための手段です。
しかし、できる人がより多く取るという能力主義=キーワード(2)=・業績原理のもとで、どれだけ生産できるかが、その人の価値を決めるようになった。その結果、暮らすという目的より、そのための生産や労働、能力という手段の方が大切なことになってしまった。そして、得られるものに大きな差ができてしまう。何も得られない人もでてくる。
それで、自分の存在を否定してしまう人がでてくる。でも、それはおかしい。目的と手段が、ひっくり返ってしまっているわけです。ただ生きることが、まずは、たんに認められればよい。それが人々の基本的な望みだと思います。
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景気が悪い中でも、全体としてはものはある。人もいる。しかしそれをうまく配置できず、職につけない人がいる。交通事故死よりはるかに多い数の自死があってしまっている。それは、我々が物や資源の分け方を間違っているということではないでしょうか。
市場(しじょう)では、多くの人は、他に売るものもないから、労働を売ることになる。しかし、なぜだか仕事ができてしまう人とできない人、その差はどうしたってあります。それは、やる気のあるなしといったものでは説明できない。すると、努力ややる気があろうがなかろうが、職にあぶれる人は出てきます。成功する人と失敗する人、稼げる人と稼げない人、職に就ける人と就けない人が必ず出てきてしまう。少し前は景気がいいと言われていましたが、そのときでも、職に就けない人は相当数いました。このことをどう考えるか。
働きによって、あるいは働きの手前の個々の能力によって、人が受け取るものに大きな差ができてしまう。それが正しい、あるいは仕方がないという主張があります。しかし、そのわけを考えていくと、それが正しいことをきちんと言えないことがわかります。働いてもらうための手段として報酬に差をつけることが必要な場合はあります。また労苦に応じた報いがあることも認められてよいでしょう。しかしそれも、そう大きな差を正当化するものではありません。
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できる人が得をし、そうでない人はしょうがないという能力主義や業績原理は、我々の社会が是としているものです。しかし基本的には非と言えると私は考えています。しかし同時に、市場はたしかに便利なものでもあります。
ならば、市場の中でついてしまう差をどうやってならしていくか。やり方は、考えるところ三つしかない。次回は、その三つについて話します。
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立岩真也(たていわ・しんや) 立命館大大学院先端総合学術研究科教授。専攻は社会学。07年から始まった同大学のプロジェクト「生存学」で、老いや病、障害についての発言や知恵を集積する研究拠点づくりを進める。著書に「弱くある自由へ」「自由の平等」「ALS 不動の身体と息する機械」など。
◆キーワード
<(1)失業> 働く意思と能力がありながら就業の機会が得られない状態。総務省によると、今年1月の完全失業者(15歳以上)は277万人。昨年10月の255万人から3カ月連続で増加している。また、失業者数を労働力人口で割った1月の完全失業率は4・1%(季節調整値)となっている。
<(2)能力主義> 一般的には、個人の能力を査定して人物評価の基準とし、待遇に反映させること。特に企業の人事に利用され、この評価が地位や賃金に反映される。従業員が昇格・昇進をめざして能力開発に積極的になるなどとして、国内では60年代ごろから、年功序列に替わって徐々に採用されていった。
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