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コラム「多事奏論」 編集委員 高橋純子

 ひと月半ほど前、ランチが安くておいしいとの評判を聞き、古い雑居ビルにある、10人も入れば満杯のすし店に行った。

 若い店主はコロナで客が減って大変だとひとしきり嘆いたあと、「菅総理には期待してるんです」。へえ。どうして? 「たたき上げの苦労人と言われてるし、庶民の感覚っていうか、僕たちみたいなののことをわかってくれるんじゃないかと」。そうかもねとそうだったらいいねとそうじゃないと思うよが胸の内で交錯する。小ぶりのウニの軍艦巻きを頰張る。うまい。甘い。

 ごちそうさま。会計を済ませて席を立つ。ぜひまた来てください、助けてくださいよと、店主は笑顔で繰り返した。

 新型コロナウイルス感染拡大、第3波。だが菅義偉首相は就任時に会見を開いて以来この間まともに記者会見を開いてこなかった。官邸のエントランスで手元の紙に目を落としつつ、一方的にご託宣を授けるばかりなり。「静かなマスク会食をぜひお願いしたい」。この感じ、何かに似ている。そうだ。子どものころに運動会や卒業式で聞いた、来賓あいさつだ。

地元の名士らによる文字通りに型通りのあいさつ。子どもたちに特段の思い入れがあるわけではないから、自分なりのメッセージを届けようという意欲や工夫は見られず、「みなさん頑張ってください」なんて基本的には他人事、子どもの側にも「このおじさん、なんか偉いんだな」ということしか残らない、あれ。あれあれ。 国会ではお答えを差し控え、自ら語り出せば来賓あいさつ。「実務家」だからそれでいい? 違う。もちろん能弁でありさえすればいいわけではないし、ましてや誰かさんのようにウソをつく雄弁家は最悪だが、でも。それでも。たどたどしくとも言葉でもって民と組み合う意志と覚悟を持たない者は、政治リーダーたり得ない。 そばにいる。見捨てない。 これが、政治リーダーが発すべき何よりのメッセージだと私は思う。政策を縦糸とするなら、国会や記者会見で説明し、疑問や質問に答えることは横糸。糸を吟味し、丁寧に織り上げられた布は丈夫であたたかく、寒さと不安に立ちすくんでしまった人たちに「大丈夫だ」という安心と希望をもたらし、再び歩き出す力を与えるはずだ。 私たちは遠慮せずに、この糸でこんな布を織ってほしい、織れるはずだと求めてよいのだ。職人の腕は「わがまま」に応えていくなかで磨かれる。目の粗いちっちゃな布を「菅謹製」のハンコが押してあるからとありがたがっているようでは腕は落ちる一方。互いにとって不幸である。

世襲、経験、情熱、知性……。腕のいい職人と凡なる者を分かつ「何か」はありやなしや。わからん。煮え煮えの思考に差し水をすべく、日本一のハンコ産地、山梨県の長崎幸太郎知事を訪ねた。河野太郎行政改革相が「押印廃止」の印章と印影をツイッターに投稿したのに対し、「あたかも、薄ら笑いを浮かべながら土足で戦場の死体を踏み付ける残虐シーンの映画を見ているが如(ごと)き」とツイートし、話題になった。 「印章業界は血を流す。ですがデジタル化には反対していません。ただ、生きる希望が欲しいと求めている。そこへのケアがあまりにも欠けていませんか?」「ひとことかけてくれればいいんです。みなさんのことを気にかけている、政府としてサポートしたいと。ハンコをデジタル化に組み込む策はこちらで考え、要望しますから」 河野氏には面会を求めたが、会ってもらえていないという。押し合いへし合いしながら大きくまとめていくのがかつての自民党政治。弱いものを踏み潰してハイ終わり、で本当にいいんですか?――敬意と想像力、そして惻隠(そくいん)の情。政治を行う上ではそれらが欠かせないと言うその人は、東京生まれの東京育ち、元財務官僚。「たたき上げ」ではないのだった。 (編集委員)

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